薬棚の向こう側
# 第十八話 薬棚の向こう側
午後の光が、王都商業区の路地を斜めに切り裂いていた。
ミサは石畳の上で足を止めた。目の前には、木の看板が吊られた店がある。「魔法薬調合所・ヴェイル工房」。看板の絵に描かれた薬瓶は、三本だけだ。赤い液体。緑の液体。そして、空の瓶。
空の瓶の横に、小さな文字で書かれていた。
『本日:在庫なし』
「……」
ミサは羊皮紙を取り出し、筆先をインクにつけた。
『ポーション=補助的(EP6・バルト)』
『擦り傷三日/骨折二週間(EP8・治癒院)』
『本日:在庫なし』
三行目の「在庫なし」が、妙に重かった。異世界小説では、ポーションはいつでも手に入る。血飛沫の直後、赤い瓶を舐める。「ぷしゅん」。傷が消える。そんな演出だった。けれどここでは——
(……在庫がない)
意味が分からない。魔法があるのに。塔が青白く明滅しているのに。なぜ、薬が足りないのか。
「いらっしゃいませ」
声がした。ミサは振り返る。店の奥から、一人の男が出てきた。三十代くらい。短めの髪が乱れていて、前掛けにインクの染みが数カ所ある。目が少し充血しており、昨夜眠れなかった顔だ。けれど口角は上がっている。
「あー、ようこそ。まあ、ちょうどいいタイミングで来てくれてん。今から昼飯の時間やんで」
男の声が、ミサには聞き慣れない柔らかさを持っていた。関西弁——いや、この世界では何と呼ぶのか分からない。ただ、発音が少しずれている。
「……すみません」ミサは言った。「ポーションって、本当に治すんですか?」
男の口角が、一瞬だけ止まった。それから、また笑った。
「治す? あー、まあね。『治す』やろ?」
筆先が羊皮紙の上で止まる。
「つまり——」ミサは続けた。「ポーションを飲んでも、傷が消えるわけじゃない」
「消えへんよ。塞がるねん」男——ヴェイル工房の主人、バジル・グレイ——が言った。「擦り傷なら三日で塞がる。骨折は二週間。感染したら、別の草が必要や。ポーションは、その『塞がり』を助けるだけ」
「……補助的」
バジルがうなずいた。
「そうや。補助的。魔法薬調合所の看板に書いてある通りやで」
ミサは店の内を見た。奥には木製の棚が三つ並んでいる。瓶が整然と置かれている——けれど、その数は少ない。赤い液体の瓶が五本。緑が四本。透明な液体が二本。それだけだ。壁には羊皮紙の札が貼られていて、インクで書かれた文字が見える。
『原料:毒消し草(産地:黒曜山脈東麓)』
『調合周期:七日間』
『品質検査:神殿認証(二週間)』
三日の期間が並んでいる。七日間。二週間。つまり、一本のポーションを作るのに、最低三週間かかる。
「……三週間」ミサは呟いた。「で、在庫なし」
「そうやねん」バジルが肩をすくめた。「先週、王立医療院に二十本納入した。あと、神殿の祈願用にも十本。残りが、棚にあるこの数本だけ」
「需要と供給が——」
「まあ、そういうことや」バジルは笑った。「商売は数字や、って言うけど、数字が足りへんのは、俺も困っとるわ」
ミサは羊皮紙に書き始めた。速く、はっきりと。
『ポーション製造:原料取得+調合+認証=最低三週間』
『王都の需要>供給(医療院・神殿・一般市民)』
『在庫なし=構造的問題(個別ではない)』
「……バジルさん」ミサは筆を止めた。「原料が足りないのか、それとも——作る人が少ないのか?」
バジルの表情が、少しだけ変わった。笑みが消えた。代わりに、眉が寄る。
「両方やろ」彼は言った。「毒消し草は黒曜山脈の東麓しか生えてへん。採りに行くのに三日。調合は俺と弟子の二人で回してん。認証には神殿の神官が来る。二週間待たされる。この三つ、どれか一つでも遅れれば——」
「在庫なしになる」
「そういうことや」バジルは棚を指さした。「見てや。瓶が五本しか残っとらへん。明日、医療院から追加の注文が来たら——」
「在庫なし」
バジルはうなずいた。それから、少し考えて、続けた。
「実はな、ミサちゃん——」
名前を知っている。先週、王宮で会ったときの名前を覚えている。バジルは眼鏡(この世界では珍しい)の奥からミサを見た。
「俺、三年前に弟子を一人取ったんや。才能ある子でな、調合の感覚がすごい。でも——」
一拍。
「神殿の認証試験に落ちた」
ミサの筆が止まった。
「……なんで?」
「『調合の手順が不正確』だって」バジルは棚の上の瓶を一本取り出し、ミサに見せた。「見てや。この緑。毒消し草と月露草を三対一で混ぜる。俺はな、三対一じゃなくて、二点五対一にしてん。味は同じやろ? 効きも同じやろ?」
「……違うの?」
「神殿的には違うねん」バジルが瓶を棚に戻した。「手順書に『三対一』って書いてあるから、二点五対一是不正確。認証が通らん。俺の弟子は、手順書を一字一句間違えへんように調合する。それで合格した」
ミサは羊皮紙を見下ろした。自分の文字が並んでいる。
『治す=創部閉鎖・疼痛閾値以下(この世界)』
『加護=推薦と寄付(この世界)』
『ポーション=補助的(この世界)』
三行目の「補助的」の横に、新しい一行を書いた。
『調合=手順書の一字一句(認証条件)』
(……つまり)
ミサは筆を置いた。バジルを見て言った。
「効きが同じでも、手順が違えば使えない。つまり、薬の数は手順で決まる。手順を変えるには——」
「神殿の許可や」バジルが即答した。「俺、三回申請した。全部却下された。『前例がない』って」
ミサは息を呑んだ。
(前例がない)
先週、治癒院で聞いた神官の声。「治療は完了しています。その後の身体の応答は、我々の管轄外です」。そして今、バジルの「前例がない」。同じ構造だ。言葉の意味が固定されている。手順が固定されている。そして、その固定を疑うことが——
(……できない)
違う。できないんじゃない。「してはいけない」とされている。制度として、言葉として、この世界の「当たり前」に組み込まれている。
「バジルさん」ミサは声を落とした。「弟子さんは、今どこにいるんですか?」
バジルの表情が固くなった。
「……王都の南側や。倉庫番をしておる。調合はできへんから」
ミサは何も言わなかった。代わりに、羊皮紙に一行を書いた。
『弟子=手順書通りの調合ができる/二点五対一はできない』
『薬の供給が制限される構造の一環?』
質問符がついている。まだ確証はない。けれど、先週から続いているパターン——治すの意味のズレ、加護の推薦制、ポーションの補助性——の中に、これがもう一つ組み込まれる。
バジルはミサの羊皮紙を覗き込み、少しだけ目を細めた。
「なあ、ミサちゃん」
「はい?」
「お前、なんでこんなとこに一人で来いや? 王宮の客が、薬棚の前でメモ書きする姿、見たことないんよ」
ミサは筆を置いた。それから、少し考えて、答えた。
「……おかしいから」
バジルの眉が上がった。
「魔法があるのに、薬が足りない。塔が動いてるのに、認証に二週間かかる。手順書が一字違えば使えない。これ、全部——」ミサは羊皮紙の三行を指さした。「本来ならそうじゃないはずのことが、なってる」
沈黙が落ちた。
バジルは棚の上の瓶を見つめていた。緑の液体が、午後の光を受けて微かに揺れている。
「……まあ」彼は言った。「俺も思うところはあるわ。二点五対一で調合した薬が、三対一と効きが変わらへんことは、十年見てきてる。でもな——」
一拍。
「手順書を変えたら、俺の薬は『不正品』になる。棚から消える。医療院には売れへん。弟子も、また倉庫番や」
ミサは何も言わなかった。
バジルが笑った。先ほどと同じ柔らかい声で。けれど、奥に何かがあった。
「まあ、なんとかなるやろ」彼は言った。「商売は数字や。数字が足りへんのは俺の責任やからな」
棚の上の瓶を一つ取り出し、ミサの前に置いた。透明な液体が入っている。
「これは、毒消し草の抽出液や。ポーションじゃない。補助的でもない。ただの薬草の汁」バジルは言った。「だが、熱が上がるなら、これ飲めば下がる。認証はいらん」
ミサはその瓶を受け取った。冷たい。ガラス——いや、この世界では何でできているのか分からない——の表面に、指先の温度が少しだけ移る。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。まあ、どうせ売れへんからな」バジルは肩をすくめた。「棚に積もってるだけや。認証取らへん限り、薬として認められへん。ただの——」
彼は言葉を切った。それから、続けた。
「ただの草汁やろ」
ミサは瓶を掌で包んだ。冷たさが指先から伝わる。羊皮紙の上で、先ほど書いた行を見下ろした。
『治す=創部閉鎖・疼痛閾値以下(この世界)』
『加護=推薦と寄付(この世界)』
『ポーション=補助的(この世界)』
『調合=手順書の一字一句(認証条件)』
四行の横に、新しい一行を書いた。筆先が少し震えた。
『草汁=薬ではない(この世界の定義)/熱を下げる(本来)』
(……つまり)
瓶の中の透明な液体は、熱を下げる。効く。けれど、認証を取らなければ「薬」ではない。棚に積もっている。売れない。使えない——いや、使える。けれど、制度の中で存在しない。
ミサは瓶を鞄——羊皮紙の束が収められた革の袋——に入れた。それから、バジルを見た。
「一つだけ聞いていいですか?」
「ん?」
「この世界で、『治す』って言葉を使うとき、誰が決めたんですか? 意味を」
バジルの表情が変わった。柔らかさが消え、代わりに何か——警戒か、困惑か——が浮かんだ。
「……神殿やろ」彼は言った。「聖典に書いてある。神の御心でな、傷は塞がる。痛みは和らぐ。それで『治した』になる」
「聖典って——」
「神殿の本や。俺らは読めん。神官が読む。俺らは、手順書に従うだけや」
ミサは何も言わなかった。瓶の冷たさが、まだ掌に残っている。
(……誰が決めたか)
先週、エレノアが言った。「我々は、そう教えられる。それが世界の摂理だと」。その「教える」という言葉の主語が、まだ見えていない。神殿? 聖典? それとも——
(……それとも、もっと別の何か)
窓の外で、塔の青白い光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。五拍。規則正しい。心拍のように。けれど、先週見たときと比べて——
ミサは目を細めた。
六拍。七拍——八拍。
違う。先週は、四拍目が半拍遅かった気がする、と思った。今日も同じだ。四拍目。少しだけ、遅い。規則正しい中にある、規則正しくない一拍。
(……気のせい?)
羊皮紙に書けば、消えない。昨日もそう思った。今日もそう思う。けれど——
ミサは筆を拾い直した。インクが少し固まっている。指先でなぞって溶かす。羊皮紙の端に、小さく書いた。
『塔:四拍目 半拍遅れ(EP6, EP13, 今日)』
『気のせい?/記録すれば消えない』
質問符と「?」が並んでいる。まだ答えはない。けれど、三回見ている。三回なら——
(……三回なら、たぶん違う)
バジルが、ミサの羊皮紙を覗き込んだ。「なあ、四拍目って何や?」
「……塔の光の間隔」ミサは言った。「規則正しい中にある、少しだけ遅い一拍」
バジルの眉が寄せられた。それから、彼は棚の上の瓶を見て、何かを確認するように首を傾げた。
「……まあ、どうせ俺には見えてへんけどな」彼は言った。「王宮の塔のことまで、薬屋が見てられへん」
沈黙が落ちた。
ミサは羊皮紙を閉じた。四行と一行と、塔の記録。瓶の冷たさがまだ掌に残っている。バジルの「前例がない」。弟子の倉庫番。認証の二週間。在庫なし。
全部、同じ構造だ。言葉の意味が固定されている。手順が固定されている。そして、その固定を疑うことが——制度の中で存在しない。
(……この世界の『当たり前』は、誰かが決めたものじゃない)
ミサは窓の外を見た。塔の光。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍。
心拍のように。止まる気配はない。けれど、四拍目が少しだけ遅い。いつもと違う。あるいは、気のせいかもしれない。
羊皮紙に書けば、消えない。
ミサは筆を置き、バジルを見た。
「……ありがとう、バジルさん」
「まあ、どういたしましてやろ」彼は笑った。「また来いや。在庫あるときな」
ミサはうなずき、店の外に出た。午後の光が、石畳の上で斜めに伸びている。路地の向こうでは、馬車が一台走っている。煙突から黒い煙。誰かが神殿の方へ歩いていく。誰も「魔法で」とは言わない。誰も、おかしいと思っていない。
ミサは掌に残る瓶の冷たさを握りしめ、王宮の方向を向いた。
塔の青白い光が、遠くで明滅している。規則正しく。心拍のように。四拍目が半拍だけ遅い。
消えない。羊皮紙に書けば、消えない。
(……まだ、違う)
その言葉が、胸の奥から浮かび上がった。自分の記憶のものなのか、この世界のものなのか、区別がつかない。けれど、三回見た塔の間隔は、気のせいではない。たぶん。
ミサは歩きながら、羊皮紙を鞄に戻した。四行と一行と、塔の記録。全部、まだ答えが出ていない。全部、「本来ならそうじゃないはずのことが、なってる」。
路地の角を曲がると、王都の鐘が鳴り始めた。午後の三時だ。人々の声が、遠くから波のように上がってくる。笑い声。叫び声。馬の嘶き。
その騒音の中で、塔の光だけが、規則正しく明滅している。
一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍。七拍。八拍。
止まる気配はない。
ミサは足を止め、窓の外——いや、路地の向こう——の塔を見た。青白い光が、規則正しく脈動している。心拍のように。けれど、四拍目が少しだけ遅い。
(……この世界は、どこかで一拍ずれている)
呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。路地の喧騒に飲まれて、誰にも聞こえない。
塔の光が、明滅している。規則正しく。心拍のように。四拍目が半拍だけ遅い。
消えない。




