第129話:【再会】境界線上のランデブー
東京での最終任務――
チョコレートケーキの確保を、僕は羽田空港から最も近い店舗で完遂させた。
凛への、そして彼女のご両親への「手土産」という名のリソース提供。
今後の日程では、凛と約束をした鳴凪のスイーツをコンプリートさせることは物理的に不可能だった。
その補填として、僕は持ち込み可能な手荷物制限の限界まで、都内の名だたる菓子を買い漁った。
(まるで僕の不在を埋めるための代償だな。この両手の重みは)
出張のたび、彼女はまるで「出戻り」のように実家へと身を寄せる。
渡米すれば、彼女はこの先一年間、僕ではなくご両親の庇護下で過ごすことになる。
(結局、僕は彼女に『帰る場所』を完全には提供できていない……頼りない夫だな)
合理性を追求してきたはずの僕が、物理的な距離という「非効率」の前にこれほど打ちのめされるとは。
地方空港に到着したのは、予定より三十分遅れた二十時半だった。
最終便が吐き出す乗客を待つロビーは、羽田の殺伐とした空気とは一線を画していた。
出迎えの人々はまばらで、パジャマ姿で談笑する家族や、欠伸を噛み殺す友人たち。そこには、都市部では決して見られない「生活の延長線上の体温」が漂っている。
そんな弛緩した空気の中に、彼女はいた。
「巧くん!」
凛も例に漏れず、パジャマと見紛うような部屋着にすっぴん、髪を無造作にお団子に結った姿で現れた。
その艶やかな肌と潤んだ瞳を見るに、おそらく実家でお風呂を済ませてから飛び出してきたのだろう。
「迎えに来てくれたんだ。……ありがとう」
「タクシーで帰るって聞いてたから、驚かせようと思って! 驚きました?」
満面の笑みを浮かべる彼女に、僕は言葉を失う。
驚いたどころではない。その無防備な姿を見て、心臓の鼓動が激しく脈打っている。
「……嬉しいよ。はい、これ。早めに冷蔵庫に入れないと。保冷剤の限界を超えている可能性がある」
「わぁ!! ありがとうございます! ……え、他にもこんなにいっぱい……?」
両手の荷物を見て、凛が目を丸くする。
「凛のご両親にも、週末に持っていこう」
「喜びます! お母さんなんてきっと、巧くんのお菓子、職場でも配り歩きますよ!あっ一個持ちますね」
そういうと僕から紙袋を奪い、空いた手を握ってくる。
そんなはしゃぐ彼女を見つめながら、僕は気づく。
彼女を庇護しているのは、まだご両親かもしれない。
けれど、夜の空港にパジャマ姿で駆けつけ、僕の心を一瞬で「鳴凪」へ連れ戻す力を持っているのは、世界中で彼女一人だけだ。
僕は彼女の手を取り、指を絡めるようにつなぎ直し、空港の外に広がる静かな夜の闇へと歩き出した。
「車はどこ?」
「Dレーンです! あっ、あった!」
凛がキーを押すと、アンサーバックのライトが二回点滅した。
「僕が運転するよ」
「疲れてませんか?」
「大丈夫だ」
「では運転手さん、お願いします!」
助手席に収まった凛が、身を乗り出すように尋ねてくる。
「巧くん、晩御飯はどうしますか? 食べてきました?」
「いや、食べてはいない。もう食べなくてもいい時間だし、ケーキだけで十分だよ」
「ダメです! ちゃんとご飯食べないと八百万の神様に怒られます」
「……壮大なお叱りだな」
「お米一粒に神様がいるって、習いませんでしたか?」
「コンテキストが違うと思うけど。……ふふ、そうだね」
三日間離れていただけなのに、この噛み合わないやり取りが愛おしくてたまらない。
「今日、お母さんに教わって新しいおかずを作ったんです! 持って帰ってきたので一緒に食べましょう。おにぎりもいっぱい握ってきました!」
凛の弾んだ声が、車内の空気を春の色に染め、僕を帰ってきたと思わせてくれる。
彼女が握った歪なおにぎりと、愛おしい「生活」が待つ、僕たちの場所へと車を走らせた。
帰宅後、リビングにはチョコレートケーキとコーヒーの香りが満ちていた。
凛は教わったばかりのおかずとおにぎりを僕に振る舞ったあと、デザートのケーキに目を輝かせている。
「ん~、おいひぃです!! ナッツの食感がいいアクセントですね!」
「……いい食レポだね。もう一カット食べる?」
「それは明日の楽しみに取っておきます!」
僕は苦笑しながら、丁寧に淹れたコーヒーを彼女の前に置いた。
パジャマ姿で頬を膨らませる彼女を見ていると、三日間の出張で擦り切れた精神が、急速に癒やされ、満たされていくのが分かる。
(ああ、日常に戻ってきた)
ようやく僕は帰ってきたのだと思った。
「今からこれを飲むと、目が冴えて眠れなくなりそうですね」
カップから立ち上る湯気を眺めながら、凛がふと呟いた。
もう二十三時を回っている。
本来なら、明日の仕事に備えて休息を優先すべき時間だ。
だが、僕は迷うことなく、彼女の潤んだ瞳を見つめて言い放った。
「寝かせないから大丈夫だよ」
「ひぎゃ!!」
凛が変な声を上げて固まる。
「三日間分、第十条の『寝る前のハグ』のタスクを消化しなきゃね」
僕は赤くなった彼女の耳たぶを視線で追いながら、冷め始めたコーヒーを一口啜った。
「じゃ、じゃあマッサージしてあげます! 出張で疲れた旦那様を癒やすのが妻の務め!」
「それは……お断りだ」
「え?! 何でですか? 上手ですよ! お父さんにもたまにしてあげると喜びますから」
「あ、あぁ……(そっちか)」
(……凛に汚染され尽くした、例の広告が脳裏に浮かんでしまった……)
僕が沈黙したのをどう解釈したのか、彼女はさらにとんでもない言葉を重ねてきた。
「あっ、巧くん、エッチなマッサージの方が良かったですか?」
「やめてくれ! 今、自分の思考を必死に律していた所なんだよ!!」
合理性という名の防壁が、彼女の無邪気な一言で呆気なく瓦解していく。
「……風呂に入ってくる」
これ以上の対話は僕の心臓に悪い。
僕は逃げるように椅子を立ち、バスルームへと向かった。
「お湯、貯めますか?」
「いい。シャワーだけで、すぐに出る」
三日間蓄積された独占欲と、目の前の無防備な「妻」という存在の暴力的なまでの愛らしさ。
(また今晩も理性のタガが外れてしまいそうだな……)
バスルームのドアに手をかけたその時、背後から凛の、どこか決意に満ちた声が響いた。
「わかりました。じゃ、じゃあ……全裸待機しときます!」
――。
僕はドアノブを握ったまま、石像のように硬直した。
「……凛」
「はい!」
「また、何を検索したんだ」
「『出張帰りの夫を悶絶させるサプライズ・ライフハック』です!」
振り返らなくても分かった。
彼女は今、最高に「良き妻」として完璧な出口戦略を実行したつもりで、顔を真っ赤にしドヤ顔をしているに違いない。
悶絶。
――確かに、その表現は間違っていない
だがそれは、彼女が想像しているような甘いものではなく、男としての生存本能が理性を食い破ろうとする悲鳴だった。
(絶対に通常のアルゴリズムではヒットしない単語だ……。一体、どこの掲示板の、どのスレッドを信じ込んだんだ……!)
僕は深く、深く溜息をつき、天を仰ぐ。
「……十分後。僕が出てきた時、その『待機』が実行されていたら……。第十条のタスクだけでは済まないからな」
「ひぎゃ!!」
今日二度目の奇声を背中で聞きながら、僕は今度こそバスルームへと消えた。
――十分後。
戻った僕を待っていたのは、僕の計算能力を遥かに超越した、あまりに無防備で狂気的な「おもてなし」だった。
おぼつかない手つきで僕の上に腰を下ろし、震える声で彼女は囁く。
「こ、これ……どう、ですか……? 巧くん、悶絶……してますか? ぁ、はぁ」
頬を林檎のように赤く染め、僕の反応を見下ろし伺う彼女。
「り……、凛、君は一体どう検索したんだ? エロが……過ぎる、う……ぁあ」
(((ダメだ。語彙力が喪失している……)))
その身をもって体現された『全裸待機』という名の暴力的な「帰る場所」に、違う意味で腰が砕ける自分を知る由もなかった。
二人の夜は、まだ始まったばかりだ。




