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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: もふおのしっぽ
第二章

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第130話:【余波】名馬と新人騎手

翌朝。



 洗面所の鏡を直視した瞬間、血の気が引いた。



(……最悪だ)



 昨夜の情事は、凛の全裸待機からの奇襲に端を発し、僕の理性が決壊したことで明け方近くまで及んでしまった。



(一体どんなサイトで、どんな情報を仕入れてきたのか)



 凛のそれは、辿々しい――。いや、辿々し過ぎるほどに稚拙なものだった。



 腰の使い方も、愛撫の仕方も、到底及第点とは言えない。



 合理性を旨とする僕なら、本来は眉を顰めるような「非効率」な動き。



 なのに、とてつもなく熱かった。



 僕の上に跨り、今にも泣き出しそうな顔で、必死に僕を喜ばせようとするその事実。



 それだけで、僕はもう、壊れてしまいそうだったのだ。 



 だが。



 今もベッドで口を開け、いびきをかいて爆睡している「愛おしい妻」が残した爪痕は、あまりに致命的だった。



「……ど、どこに吸い付いているんだ! バカ凛……っ!」



 首と顎の境目。



 シャツの襟では到底隠しようのない、露骨な場所に刻まれた赤黒いキスマーク。



 必死に僕の耳や首を食んでいる彼女の愛らしさに毒されて、吸い付かれている感覚を見逃していた。



 昨夜の自分を、合理性のカケラもない自分の脳を呪いたい。



(……今日に限って、重要な会議があるというのに)



 いつしかの仕返しをされているのかと思うほど、鮮明な「独占欲」の痕跡。

 


 オフィスカジュアルに切り替えるか?



(そうだ、この季節に不自然ではないハイネックなら……)



 僕はクローゼットの前で、愛妻による「サプライズ・ライフハック」の代償を隠すための、最も合理的な出口戦略を練り始めた。



鏡の前で微調整を繰り返す。



 ハイネックに、それに合う上質なジャケット。……よし、ギリギリ隠せている。


 

 だが、問題は可動域だ。



 正面と左を向いている分には完璧なビジネスマンだが、ひとたび右を向くと、そこには愛妻の暴挙が顔を出す。



(今日は、右を向くことは『死』だ。……徹底して正面と左だけで乗り切る)



 そんな非合理的な決意と即死デバフを抱え、僕は寝室へ向かった。



「凛。そろそろ起きないと遅刻するよ」



 声をかけると、ベッドから「ふがっ」という、昨夜の情熱的な『攻め』の主とは思えない気の抜けた声が返ってきた。



「……あ、あぅ。……あの、巧くん。今日、実は……有給にしてて……」


「……は?」



 虚を突かれた。



 僕を悶絶させるためだけに備えていたのではない。



(その後の自分のコンディションまで、完璧にマネジメントしていたというのか)



「あの、お馬さんスタイルだと……足が筋肉痛で立てなくなるって、サイトに書いてあったから……。念のため、お休み取ってたんです……」



 ――お馬さんスタイル。



「……ジョッキーポジションだろ」



 思わず突っ込んでしまった。



 そのあまりに幼稚で、しかし昨夜の激しさを想起させるネーミングに、僕は落馬しかけた。



(一体、どこの深淵を覗けば『全裸待機』と『翌日の有給取得』をセットで推奨されるんだ…)



 筋肉痛で布団から出られない「昨夜の勝者」を横目に、僕はハイネックの襟を正す。



 辿々しく僕を翻弄し、一晩中「デビュー初戦目の騎手」の様に頑張った結果、自分だけ筋肉痛を理由に休む。



 そして僕は、この致命的な「爪痕」を隠しながら、右方向からの全攻撃を無力化するという、無理ゲーに近いミッションを抱えて出社する。



 勝負には勝ったはずなのに、戦略的には完敗している。



(なんか、腹立つな……)



 僕は重い溜息を飲み込み、戦場オフィスへと向かうべく、玄関のドアを開けようしたその刹那。



「いってらっしゃ~い、巧く~ん。あ、足がガクガクで……そこまで行けないけどぉ……」



 背後から聞こえてくる、有給を満喫する気満々の、間の抜けた愛妻の声。



「……いってらっしゃい、じゃねーよ」



 僕は振り返ることすら許されない(右を向いたら即死するからだ)。



(((帰ったらお仕置きだな……)))



 鞭を振るうような手捌きで玄関のドアを閉め、冷たい外気にハイネックを震わせた。


 

 今日一日、僕の仕事は「右を向かないこと」。


 

 新人騎手に一晩中振り回された名馬の、長く、そして首の凝る一日が始まった。



「おい、サラブレッド!」



 ビクッ!



「た、高橋。なんだよその呼び方……」



 出社後、すぐに高橋に呼び止められる。



「お、どうした佐藤。そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔して。……っていうか、お前今日、なんでそんなロボットみたいな動きなんだ? 首、寝違えたか?」



(((……っ! 右側に立つな……! 高橋、お前のその位置は、僕にとっての『死線』だ……!)))



「おい、無視すんなよ。おーい、サラブレッドさーん?」


「だからその呼び方、やめろと言っているだろ!」


(失態がバレているようで、心臓に悪い……!)


「なんだよ、下手に出てお前の立場を再確認させてやってんだよ。現金に興味は無いっていう……な。ってことで本題。親和会の結婚祝い金、あれ……『現物支給』でいいか?」



 結婚祝い金。凛と合わせて二十万円相当。



「そんな規約あったか? ……いい、何でも。不正にならなければ好きにしてくれ」



 今はそれどころではない。この男を右側に行かせないことの方が重要だ。



「(左に九十度旋回し、不自然な角度で高橋を見据えて)……話は以上か? 高橋、僕は今、極めてデリケートなコンディションなんだ。以後、用があるなら僕の左側に回れ。これは命令だ」


「はぁ? 左側? なんだよその新しいマイルール……まぁいいわ。サンキュー、流石はサラブレッドのボンボン! 話が早くて助かるぜ」



 高橋はニヤリと不敵に笑った。



「じゃあ当日のスケジュールは絶対に空けておけよ。出張も残業も厳禁だ。……楽しみにしてるからな、みんな」


「分かったから……早く持ち場に戻れ」



 嵐が去るのを待つように、僕は左回りで歩き出す。



 高橋の企みなど、今の僕には考える余裕もなかった。



 ホテル宴会場での来期方針策定会議。



 支社長以下、百戦錬磨の幹部が並ぶこの「戦場」で、僕は営業企画グループ代表として最前列にいた。



 本来なら知性を武器にスマートに立ち振る舞う場だが、今の僕に課せられたミッションはただ一つ。



 ――「右側からの全攻撃を、首を動かさずに無力化せよ」。



「……佐藤くん。修正指示はどうなっている?」



 右隣の経理部長から重い問いが飛ぶ。


 

 僕は椅子ごとガタガタと九十度旋回し、新入社員のような直立不動で部長と正対した。



「本部が一部経費を負担することで合意済みです!」


「……さ、佐藤くん。なぜ体ごと向き直るんだ? 圧が凄いんだが」



 だが僕は、右から意見が飛べば再び椅子を「ガッ」と鳴らして体ごと向き、支社長が頷けば操り人形のように体全体で深く辞儀をした。



 決して首だけは動かさない。視界に入るすべてを、体ごとロックオンして直視する。



 離れた席に座る高橋が、口元を押さえて肩を震わせているのが見えた。



(((……アイツ、後でぶちのめす)))



「佐藤くん……君、今日はどうしたんだ? 視線が……その、怖いんだけど」



 支店長までもが、困惑気味に僕から目を逸らした。



(……無理もない)



「さて。来期予算は無事に本部で承認された。これを受けて、来期の具体的な営業戦略をどう描くか……営業企画グループの佐藤くん、説明してくれ」



 会場にいる全幹部、約三十名の視線が一斉に僕に突き刺さる。



(((……来た。最大の難所だ)))



 僕はスチャッと立ち上がった。



 そのまま、演台まで「蟹歩き」に近い不自然な横移動。右側にある幹部席に、僕の「死線キスマーク」をさらさないための、最も合理的な動線。



「……営業企画グループを代表し、来期の方針を述べさせていただきます」


 

 説明は完璧だった。



 今期の着地見込みを冷徹に分析し、来期予算を最大効率で運用するための数値を提示する。僕の脳は、首の痛みとは裏腹に、かつてないほど冴え渡っていた。



 だが、問題は「質疑応答」だ。



「佐藤君、その件だが……」



 会場の右端に座る営業所長が手を挙げる。



(((右だ……!)))



 僕は、質問が終わるのを待たず、演台ごと動かす勢いで体全体を右へ旋回させた。



 上半身を一切捻らず、足元のステップだけで九十度。



「ご質問、ありがとうございます! その点については――」



 質問した所長が、思わずのけぞった。



「……い、いや、そんなに真っ直ぐ見なくても聞こえてるから。……っていうか佐藤くん、君、今日なんか……圧が凄くないか?」



「いえ。来期の目標達成には、これほどの『気合』が必要であるという、私なりの決意表明です」



 嘘だ。



 首を少しでも右に傾けたら、僕の「敗北の痕跡」が白日の下に晒される。



 そうなれば、来期の方針どころか、僕の全キャリアが別の意味で「方針転換」を余儀なくされる。



 会議室の空気が、奇妙な熱を帯び始めた。



『本部の佐藤くんが、あんなに体育会系だったとは……』

『新入社員のような真っ直ぐな姿勢……。我々も、あそこまで真摯に仕事に向き合わねばならんのかもしれんな』



 あろうことか、僕の「物理的な不自由さ」が、「凄まじい覚悟」として誤解され、幹部たちの士気を高めていく。



 ふと視線を落とすと、高橋が震える手で資料を読み上げるふりをしながら、必死に笑いを堪えていた。



「高橋くん。経理部として、経費の上振れリスクは排除できているかな? このまま予算達成率百一〇%で確定していいか?」



 僕は演台から、高橋を一ミリの死角も許さない眼力で射貫いた。



 首を固定したまま、上半身ごと高橋へ向けて「圧」をかける。



「……ふっ、……だ、……っふ」



 高橋は資料を顔の前に掲げ、肩を激しく震わせている。



((( 高橋……今この状況を楽しんでいるお前に、天罰だ!!!)))



「高橋くん。笑っているように見えるが、何か懸念事項でもあるのか?」



 支社長が不審げに声をかける。



「い、いえ! 懸念は、ふっ……何も……ありま……せん!! 佐藤くんの、あまりの熱量に……圧倒されて……っ!!」



 高橋は顔を真っ赤にしながら、デスクの下で拳を握りしめて耐えている。



 周囲の幹部たちは、それを「若手エリート二人の、仕事に対する極限の緊張感」だと勘違いし、深く頷いた。



「……よし。佐藤君の熱意、そして経理部の太鼓判も得られた。この方針で進めよう」



 支店長の満足げな一言で、会議は「全会一致」で承認された。



 僕は安堵を押し殺し、再びロボットのような正確な直角移動で席に戻る。



(((……あの野郎、後で絶対にぶちのめす)))



 ……それより



(今ごろ凛は、たぶんソファでアイスでも食べながら、のんきにネットでも眺めているんだろう)



 来期の方針は決まった。



 だが、僕の「右を向けない一日」という戦場は、まだ続いているのだ。



 結局、一日中「右を向かない」という不自然な挙動を貫いた結果、僕の首は寝違えを遥かに凌駕するレベルでガチガチにロックされていた。



 帰宅した僕は、力尽きた競走馬のようにソファへ倒れ込む。

 


「ぐぅ……あ、……あ痛たた……」


「巧くん、おかえりなさい! 大丈夫ですか? 首ですか?!マッサージしますね!」



 有給を満喫して万全のコンディションの凛が、僕の背後に回る。



「……気持ち、いい……」


「だから言ったでしょ?マッサージ上手なんですから!」



 不器用な「ジョッキーポジション」の主とは思えない、的確な指圧。



 だが、安らぎも束の間、凛の手がキスマークに触れた。



「ひっ、な、なに!?」


「え? 湿布ですよ、湿布! 筋肉痛に効くやつ。冷たくて気持ちいいですよ」



 ピタッ、という独特の感触。



 僕は弾かれたように起き上がり、洗面所の鏡へと駆け込んだ。



(((……あ)))



 鏡の中には、首筋の赤黒い痕跡を、これ以上ないほど潔く、かつ完璧に覆い隠した白い湿布があった。



 ハイネックで怯え、蟹歩きで会議室を横断した僕の苦労は何だったのか。



(((最初から、こうしていれば良かったのか……!!)))



 「負傷」に見せかけるという、最も合理的で、かつ効果的なカモフラージュ。



 それを、アイスを食べていただけの「新人騎手」にあっさりと提示されてしまった。



(((なんという、ライフハック!!!)))



「巧くん? 明日も貼ってあげますからね!」


「……もういい、寝る」



 翌朝、僕は「湿布を貼った仕事熱心な男」として、堂々と右を向いて出社することになるだろう。



 妻による想定外のライフハックに、ハイスペックなプライドは見事に落馬したのだった。

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