第128話:【注文】春を待つクローゼット
無機質な会議室の空気。
飛び交う数字と地政学的な専門用語。
僕はいつものように淡々と、タブレットを操作しながら現状の進捗を報告する。
だが、その間ずっと、隣に座る同期の松本の視線が、僕の左手に突き刺さっているのを感じていた。
「…………」
松本の思考が、仕事のロジックから完全に脱落しているのが、横目で見なくても分かった。
(はぁ……面倒だな。本部へは武藤さんにしか結婚の報告はしてないからな)
解散の合図と同時に、松本が椅子を蹴るような勢いで身を乗り出してきた。
「え? ちょっと待て、佐藤。お前、その指輪なに!? 何それ!?」
周囲の視線が一斉に僕の左手へと集まる。
僕は努めて冷静に、資料をクリアファイルに収めた。
「見ての通り指輪だが」
「いや、見れば分かるよ! 意味を聞いてんだよ! 」
そこまで言って、松本はハッとしたように口を突き出した。
「え? まさか……嘘だろ? あの……あの『珍獣』と、か?」
「……失礼が過ぎるだろ」
僕の温度の低い声に、松本がビクッと肩を揺らす。
「お前は彼女から恩恵を受けている立場だろう。恩を忘れて、『珍獣』扱いとは、大概だな」
「いや、いやいや!! 感謝はしてる! 石油部門の広報戦略は爆伸びだし、今年の社長賞も狙えそうなんだよねぇ……」
松本は頭を抱えた。
「でも、お前だぞ!? あの、石橋を叩き割って渡らないような慎重派の佐藤巧が、あんな……あんな予測不能な生き物と、いきなり結婚? 指輪? 嘘だろ、キャリアはどうすんだよ!」
「キャリアなら、今まさに形成中だ。北米への帰任が決まったのも、彼女という守るべき存在ができたことで、僕の意思決定スピードが最適化された結果だとも言える」
「……お前、自分で何言ってるか分かってるか? 完全に目がキマってるぞ」
僕は時計を見た。
次のアポイントまで、あと15分。
「無駄な会話でリソースを消費した。僕は行くよ。……ああ、松本」
去り際、僕は足を止めずに、けれど確かなマウントを込めて告げた。
「妻は珍獣ではない。僕にとっては、最も希少価値の高い『ベストプラクティス』だ。次も貶めるような呼び方をしたら、お前の案件の優先順位を下げるからな」
「つ、妻…………。……妊娠させた?」
背中越しに飛んできたあまりに短絡的な言葉に、僕は足を止めた。
ゆっくりと振り返り、心底蔑むような視線を松本に投下する。
「ハァ……どこまでゲスなんだ、お前の思考は。……そんな安易な物理的アクシデントではなく、もっと高次元な、魂の契約だ」
「余計に怖えよ!!」
松本の絶望的なツッコミを背中に受けながら、僕は次の戦場へと向かった。
佐藤が去ったあと、会議室には数秒の沈黙が落ちた。
「……あいつ、本当に結婚したのか」
誰かが呟き、ようやく空気が動き出した。
「……母さん、ごめん。予定を少しオーバーした」
一日中、本部でいくつもの会議をこなした僕は、東京滞在中の拠点である実家へと帰還した。
母からは19時の帰宅を厳命されていたが、10分ほど遅れてしまった。
「あら、お帰りなさい、巧。ちょうどいいところよ」
リビングには、母と共に顔なじみの百貨店の外商が控えていた。
「ああ、こんばんは。……僕のシャツとインナー、靴下を各10点、4月以降の到着でテキサスに送っておいてください。型番は以前と同じで」
「かしこまりました、巧様。承ります」
事務的な手配を終えた僕に、母が手招きをした。
「巧、こっちを見てくれる?」
広げられたのは、母の趣味にしては随分とデザインの若い、けれど質の良さが一目で分かる服の数々だった。
「これ、凛さんのために手配させたの」
「……ああ、ありがとう。助かるよ」
僕と凛の結婚が歓迎されている何よりの証拠だ。
「どうかしら、凛さんの好みに合うかしら?」
「ああ、凛は『ファッション難民』だから。こういう上質なスタンダードは間違いなく喜ぶよ」
僕が何気なく放った言葉に、母が眉をひそめた。
「『難民』なんて。佐藤家の嫁が難民だなんて、とんでもないことを言わないでちょうだい」
「……失礼。言葉が過ぎた」
母からの「ロジカルな叱責」を受けつつ、僕は凛が鳴凪のクローゼットの前で頭を抱えていた姿を思い出す。
「正確に言えば、彼女はオフィスカジュアルにおける『出口戦略』が分からず、毎朝クローゼットの前で迷走し、彷徨っているんだ。これは人道的な救済措置になる」
「相変わらず変な言い方をする子ね。凛さんも大変だわ」
母は苦笑しながら、凛のために選んだ淡いベージュのブラウスを丁寧に畳み直した。
「なら、何着あってもいいわね」
母は、広げられた上質な服の数々を見渡し、迷うことなく外商に告げた。
「持ってきていただいたもの、全て購入するわ」
「かしこまりました。ありがとうございます」
さすがは佐藤家の女主人だ。
妥協もなければ、選択に時間をかけることもしない。外商が手慣れた手つきで伝票を整理し始める。
「小物はどうかしら?」
母の問いに、僕は即座に首を振った。
「……小物はいい。並ならぬ拘りがあるから」
脳裏をよぎるのは、彼女のデスクや鞄に鎮座する、言葉では形容しがたい物体たちだ。
凛の選ぶバッグやキーホルダーには、僕の理解が及ばない、熱狂的な思想が詰まっている。
それはまるで、お年玉を手に入れた小学生が本能のままに獲得した戦利品のようで、使い勝手や資産価値といった合理性は、そこには存在しない。
「ふふ……そうね。いつも不思議なぬいぐるみを鞄につけてたわね。マッスル……とか言ったかしら?」
「……マッスル猫だ。母さん」
(母さんの視界に、あの隆起した上腕二頭筋を持つ猫が入り込んでいたとは)
「まぁいいわ。上質なスタンダードと、凛さんのセンス。その中和点があなた達の結婚みたいで面白いわ」
母は楽しそうに目を細め、外商に手招きをした。
「では、巧。住所を」
「ああ……。女性物は、鳴凪の住所に送ってください。僕の私物はテキサスですが、妻のものはそちらへ」
僕はスマホを操作し、凛と暮らす鳴凪のマンションの住所を外商に提示した。
住所を控え終えた外商が、眼鏡の奥の瞳をプロの鋭さで光らせた。
「……巧様。差し出がましいご提案かも知れませんが、『マッスル猫』……私共でもご用意が可能でございますが」
「は? ……百貨店で、あの不可解な造形物を取り扱っているのか!?」
僕の驚愕を余所に、外商は淀みのない動作でタブレットを操作し、画面を僕に提示した。
「左様でございます。実は今春、フランスの老舗メゾンとマッスル猫の限定コラボレーションが展開されておりまして」
提示された画面には、何十万もするラグジュアリーなバッグの横で、堂々とポージングを決める「マッスル猫」のチャームがあった。
(……どこまで、どこまで世界を侵食していたんだ……!)
ハイブランドの洗練されたデザインと、マッスル猫の野性的な肉体美。
それは中和点どころか、伝統あるメゾンの美学が、凛の愛する混沌によって完全に浸食されている光景だった。
「いいじゃないこれ。『品格』と『マッスル』が両立できるわ。お父さんが喜びそうね。一つ用意してちょうだい」
(((たしかに、凛のセンスをこの家で僕以上に愛している父なら、泣いて喜びそうだ)))
母の、ロジカルなのか狂っているのか判別不能な後押しが飛ぶ。
「……。……全種類、押さえてください」
「かしこまりました。至急、確保いたします」
外商が深く一礼し、嵐のように去っていった。
僕は熱を持った額を指で押さえる。
「ありがとう。……このワンピース、凛に似合うよ」
僕は、淡いパステルカラーのワンピースを指先でなぞった。
凛の柔らかな雰囲気に調和し、けれど佐藤家の嫁としての品格を損なわない絶妙なセレクト。
(春になったら、彼女はこれを着て僕らが過ごした鳴凪の街を歩くのだろう……)
ふと、胸の奥が熱くなるのを感じた。
春。
その頃、僕はもう日本にはいない。
ヒューストンの乾いた空気の中で冷徹な数字の海に沈んでいるはずだ。
けれど、僕がいない鳴凪で、凛は僕と母が選んだ服を纏い、そして鞄には「最高級のマッスル猫」のチャームを付け、僕たちの存在を感じながら過ごすことになる。
それは、物理的な距離を超えた「所有」であり「加護」に近い感覚だった。
(それでいい。僕はいなくても、彼女は僕のリソースの中にいる……)
リビングには「春の気配」だけが余韻として残っている。
「巧、そんなに切ない顔をしなくても。凛さんは逃げたりしないわよ」
「……そんな顔はしていないよ、母さん」
「さぁ、食事にしましょう。カノンをケージから出してきて頂戴」
ケージへ向かうと、そこには佐藤家のもう一人の同居人——チワワのカノンが、僕を待ちかねたように鼻を鳴らしていた。
扉を開けると、弾かれたように飛び出してきた、震える小さな命を抱き上げる。
「カノン、久しぶりだね。お前ともあと何回会えるかな……」
(……凛、カノンを見たら喜ぶだろうな)
不意に、スラックスのポケットでスマホが短く震えた。
『巧くん、お疲れ様です! 実家に着きました。太郎は相変わらず元気すぎました!ご実家でゆっくり休んでくださいね!』
画面に躍る、屈託のない言葉と、少しだけピントのズレた太郎との自撮り写真。
僕は思わず口元を緩め、膝の上で首を傾げるカノンを引き寄せた。
普段なら決してしない「自撮り」だが今の僕は一切の迷いがない。
カノンのつぶらな瞳の横に、会議で使い果たしたはずの表情を無理やり並べ、シャッターを切った。
『カノンも元気でした。そちらも元気そうで何よりだ。凛もゆっくり休んで』
送信。
テキサス、鳴凪、そして東京。
離れた場所にある全てが、凛という一点を介して繋がり始めている気がする。
僕が彼女に与えているつもりでいて、実は僕の方が沢山のことを彼女に与えられている。
「巧、早くしてちょうだい。スープが冷めてしまうわ」
「……ああ、今行くよ」
僕はカノンを床に下ろし、リビングへと向かった。
明後日は東京での最重要任務——「くるみケーキLサイズ」の確保が待っている。
早く帰りたい。
あのオレンジ色の箱などではなく、「納豆」のパックをこよなく愛し、かき回して僕を待つ彼女がいる、あの穏やかな海辺の街へ。




