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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: もふおのしっぽ
第二章

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第127話:オレンジ色のおねだりと、茶色のおねだり

 2月に入り正式に内示となった、北米戦略エネルギー調達室への帰任は、僕の日常を一変させた。



 渡米に向けたビザ申請、本部でのブリーフィング、地政学リスクに伴うエネルギー争奪戦のシミュレーション。



 東京への出張は、加速度的にその密度を増していった。



「……凛、スケジュールはアプリに細かく入れてあるから。確認しておいて」



 ネクタイを締めながら、鏡越しにベッドへ声をかける。



 そこには、昨夜の「ロジカルな追及」の余韻を全身に纏い、シーツの海に溺れるように眠っていた凛がいた。



「う……もう出るんですか……?」



 布団から、寝癖のついた頭と顔だけをぴょこんと出している。



「始発便だからね。……僕がいない間、凛は実家に帰ってる?」


「うーん、そうします。一人でこの家は……少し、寂しいので」



 「寂しがり屋の嫁」のようにたまに本音を漏らす。その破壊力に、僕の完璧なタイムスケジュールが一瞬だけ狂いそうになった。



「それなら納豆を食べきるか冷凍してて。賞味期限が近かった」


「はぁーい。今日のお昼ご飯に持って行きます」



 まだ夢の中に半分足を突っ込んでいるような、掠れた声。もう節約の必要はないのに変わらずデスクで納豆をかき回そうとする凛に思わず口角が上がる



「うん。じゃあ、行ってくるね。明後日の最終便で戻るから」



 僕はベッドサイドに腰を下ろし、まだ眠たげに布団にもぐり直そうとしている凛の額に、静かにキスを落とした。



 それは、昨夜のネチっこい「追及」とは一線を画す、慈しむような短いけれど確かな再会への「約束」。



「……っ。いってらっしゃーい……」



 凛は額を押さえながら、ふと思い出したように布団から手を伸ばし、僕のジャケットの裾を掴んだ。



「あ、くるみの入ったチョコクリームのケーキのお土産がいいです。東京のお店のです!」



 寂しさに浸る暇もなく、即座に具体的な「お土産」の要求を飛ばしてくる。



 やはり、この個体は一筋縄ではいかない。



「ふふ、分かったよ。Lサイズでいいかな?」



 僕は苦笑しながら、まだ温かい部屋を後にした。

 外に出ると、鳴凪の冷たい潮風が頬を打つ。

 


 本部に戻れば、そこには洗練されたビジネスと、渡米という「勝ち確定」の未来が待っている。



 けれど、僕の優先順位のトップは、すでに「くるみ入りチョコケーキの確保」と「明後日、この布団に潜り込むこと」が、重大任務として刻まれていた。



空港のラウンジで、タブレットのスケジュール表を更新する。



 機体の調整で出発がすでに30分遅れている。



 この「空白の30分」すら、今の僕には惜しい。



(来週はテキサス出張と、マンション契約……)



 一人で住むには広すぎる、ヒューストンの高級賃貸レジデンス。



 凛は日本に残り、合流は一年後。



 論理的に導き出した「安全とキャリアのための待機期間」だが、実際に一人でサインする場面を想像すると、胸の奥がチリつく。



(……お土産にハンバーガーでも買ってきて、とか言いそうだな。ふふ)



 あちらのサイズに驚く彼女の顔が、容易に想像できる。



(早くその顔が見たいな……)



 時間が取れれば、新婚旅行にでも連れて行きたい。



 だが、辞令が正式に発表されれば、鳴凪での引き継ぎと本部での緊急タスクが重なる。



 長期休暇の取得難易度は、今の原油先物相場より予測不能だ。



(やっぱり、一年後の合流までお預け、……か)



 一年。



 僕が孤独にシェールガスの権益を奪い合っている間、彼女はこの鳴凪で、榎木さんたちと楽しそうに納豆をかき回し続けるのだろう。



(それでいい、孤独は僕だけで)



 スマホのバイブレーションが、搭乗開始を告げた。



 鳴凪のゆったりとした時間軸から、一瞬でコンマ数秒を争うビジネスの戦場へ。



霞ヶ関の本社ビルに足を踏み入れた僕は、足を止めることなく、胸ポケットからIDカードを取り出した。



 出向中とはいえ、僕のアクセス権限は本部のままだ。



 受付カウンターに並ぶ外部の人間を横目に、僕は無機質なフラッパーゲートへと直進する。



「……おはようございます」



 ゲートの脇には、二人の受付嬢が立っていた。一人は僕が本部にいた頃、二年ほど交際し、お互いのキャリアのために「円満な終了」を選択した綾瀬さん。



 そしてもう一人は、彼女の仲の良い同僚。



「あ、佐藤さん。お疲れ様です」



 同僚の受付嬢が事務的な笑みを浮かべる。



 僕は軽く会釈し、流れるような動作でリーダーにカードをかざした。



 ピッと短い電子音が鳴り、ゲートが開く。



 その瞬間、僕は左手でスッとネクタイの結び目を直した。



 照明の強い光を反射して、薬指のプラチナが鋭く、逃れようのない存在感で輝く。



 僕はそのまま、一歩も淀まずにエレベーターホールへ消えた。



「はい、ではこちらの入館IDを。お帰りの際にご返却を……」



 事務的に来客対応をこなしていた綾瀬さんに、同僚の受付嬢が耳打ちする。



「…………ねえ、綾瀬。今の、見た?」


「え? 何……?」


「指輪! 佐藤さんの左手、指輪してた! しかもあんな堂々と!」



 綾瀬さんの表情が、一瞬で凍りついた。



「……えっ? 佐藤くんが……?」


「嘘じゃないって! ほら、今もちょうどエレベーターに乗るところ……やっぱり光ってる! 間違いないわ、あれ、薬指だもん! 結婚指輪よ!」



 綾瀬さんは、閉まりゆくエレベーターの扉の向こう、背筋を伸ばして立つかつての恋人の姿を、言葉を失ったまま凝視していた。



「……信じられない。一体、どこの誰と……。鳴凪で、何があったの……?」



 声を潜めながらも興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。


 

「……え!!ちょ、ちょっと!! 綾瀬、落ち着いて! そのボタンは不審者が来た時用だから!」



 非常ボタンに押しかけた綾瀬さんの指を同僚が必死にボタンから引き剥がす。



 だが、綾瀬さんの瞳は、いまゲートを素通りしていった男の「左手のプラチナ」に完全に焼かれていた。



「だ、だって……おかしいもの!! あれきっと佐藤くんの偽物だよ!」


「お、落ち着いて!本人だから!」


「だって、私には何て言ったと思う!? 『結婚は僕のキャリア形成が完璧に終わってからだ』とか、『今はリソースをすべて仕事に振るべきフェーズだ』とか……そんなことばっかり言って!!」



 かつての記憶が、綾瀬さんの脳内で警報アラートのように鳴り響く。



「だから……私も、彼を待って20代を無駄に潰されるのは嫌だと思って、身を切る思いで別れたのに……!! なんで、なんで、結婚してるの!? キャリア形成、まだ終わってないじゃない!!」


「い、イントラネット! あの投稿を確認しよう!!」



 二人は殺気立った手つきで端末を操作し、社内SNSの過去ログを爆速でスクロールした。



「あった! 9月よ、あの『サラダ事変』!! みんながザワついたやつ!」


「『サラダ王子の変』ね! あの佐藤さんが、鳴凪支店の女の子とサラダ持って自撮りしてた……」


「そう!! その投稿よ!!」



 画面には、かつて榎木が投稿した「佐藤巧のスクープ」のようなログが映し出されていた。


 

「あ、あの……10時にアポイントを頂いておりました、山田商事の山田ですが……」



 カウンターの向こうで、怯えた様子の取引先が声をかける。



 いつもなら女神のような笑顔で出迎えてくれる受付嬢二人が、今は般若のような形相で画面を睨みつけている。



「……山田商事の山田様ですね。こちらに入館証の申請をご記入ください。至急で!!」

 


 用紙とボールペンを叩きつけるように突き出し、二人は再び検索の海へ潜る。



 ((な、なんだ? プロフェッショナルの塊の様だった受付嬢が……。これは何か緊急事態、あるいは国家存亡の危機か!?))と山田様がガタガタ震えているのも構わず、ついに彼女たちは「それ」を見つけた。



「……み、見つけたッ!!!」



綾瀬さんが叫ぶ。



(((は、犯人か!?か、館内にいるのか?!!何者かが)))とさらに縮み上がる山田様を無視して、画面を凝視する。



「この子ね……? 佐藤さんのキャリア形成プロトコルを、サラダ一つで物理的にシャットダウンさせた女は……!」



 同僚が叫ぶ。



「……か、可愛い……」


「綾瀬、そんなあっさり認めないでよ! クリックして、その『ベストプラクティス』ってコメントしてるアイコン!」  



 プロフィールが開く。



 【佐倉凛(佐藤凛)フォックスエネルギー株式会社】

 ※三月末まで佐倉の通称を使用します。



「『嫁』だわ……完全に」



 綾瀬さんの頭の中で、何かが音を立てて崩壊した。



「……はぁ」



 かつて「キャリア」を理由に自分を拒絶した男は、今もなお誰でも閲覧できるシステム上で、恥ずかしげもなく二人の初デートあろうログを刻んでいる。



「あ、あの……記入できました……ひぃぃ」



 涙目で用紙を差し出す山田様。



 だが、受付嬢たちの視線は、もはや目の前の人間など捉えていなかった。



「……もう、別れて二年経つし」



 綾瀬さんは、深く、乾いた溜息を吐いた。

 もはや彼のことを愛してなどいない。



 二年という月日は、彼女を新しい恋へと向かわせるのに十分な時間だった。けれど。



「……今さら好きでもなんでもないけど」



 そう呟きながら、綾瀬さんはゆっくりと、緊急ボタンから指を離した。



「……でも、やっぱり納得いかない。あんなに理詰めで私を振っておいて、サラダ一つで全部ひっくり返すなんて……。私の二年間、なんだったのって思っちゃうの、普通の感覚、だよね?」


「うん、分かるよ!佐藤さんの意志や覚悟ってそんなもんだったのとか、そんな薄っぺらいもので振り回したの?とか思っちゃうよ!」


「ぺコタン……。へルメスの……」


「え?ペコタン……綾瀬がたまに使ってるやつ?」


「そう、あれ実は佐藤くんのお母さん経由でプレゼントして貰ったやつで……」


「……は?元カレのプレゼント……ずっと使ってるんだぁ……へぇ」



 先程の同情の目線ではなく、図太い友人にさめた視線を送る。

(確かに、付き合ってる時に散々自慢されたな……。てか、今使ってるブランドの財布も小物も全部そうじゃない??総額いくらだろ、これ……)



「……ぺコタンだよ? しかもチャームつきで。あれを手に入れるために、どれだけパトロールして、どれだけ実績を積まなきゃいけないか知ってる?」


「し、知らないけど……。っていうか、ねえ、なんか心配して損したわ」


「佐藤くんは罪深いけど、このぺコタンに罪はないのよ!!そうだよね?」

(佐藤くんからもらった時は『資産価値のあるプレゼントを贈る、仕事のできる彼』として誇らしかったけど、今は……今はこれ、『慰謝料』みたいなものじゃない?)



(((だから、これを手放す方が負けな気がする)))



「私が彼に費やした『リソースの結晶(おねだりの結晶)』だもの。使い倒してやるのが一番の復讐ブラッシュアップよね!?」


「ひっ……(勝手にやってなさいよ……)」


(((未練は全て、佐藤さんからのプレゼントのことか。私の涙を返せ……)))



 記入を終えた山田様が、女たちのどす黒いエネルギーに再び縮み上がる。



「あ、あの……入館証を……」



 彼女たちの知らない「佐藤巧」を乗せた箱は、かつての恋人に「オレンジ色の呪縛」と「強欲な未練」を残したまま、14階へと消えていった。

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