第114話:【非推奨】深夜の魔境メガ・ドンキ
夜カフェの静寂とシフォンケーキの余韻は、自動ドアが開いた瞬間に鳴り響いた、耳に残るテーマソングに粉砕された。
凛は入り口のクリスマスコーナーからサンタの帽子を取り被っている。
「……凛。本当にここでいいのか? クリスマスイブの夜に、圧縮陳列の迷宮へ潜り込むのが君の『ナビゲート』なのか?」
店内に一歩足を踏み入れれば、そこは秩序という言葉を忘れた情報の暴力——ドン・キホーテ。
「いいんです! だって、クリスマスプレゼントを買いに来たんですよ!」
「…………」
僕は絶句した。
自分の脳内データベースに、「クリスマスプレゼント=ドンキ」という計算式は存在しなかった。
通常なら銀座のブティックや、せめて表参道のセレクトショップをリストアップすべき日だ。
「……こ、高校生か、君は……!」
思わず、積み上げられた洗剤の山に向かって叫んでいた。
このカオスな店内でクリスマスプレゼントを調達しようとする「凛スタイル」に、僕の理性が激しく揺さぶられる。
「いいじゃないですか! ドキドキして楽しいですよ?」
「いや……待って。冷静に市場を分析してみて。今時の高校生は、SNSの承認欲求やトレンドの波に揉まれ、バイト代を全投入してでもハイブランドを贈り合っているというデータがある。……つまり、ドンキでプレゼントを選ぶ僕たちは、もはや高校生以下の、中学生並みのプリミティブなレベルに退行している可能性がある!」
大真面目な顔で「現代高校生の贈答経済」を論じる僕。
「……巧くん。難しく考えすぎですよ」
凛は呆れたように笑いながら、棚から「マッスル猫の着ぐるみパジャマ」を手に取った。
サイズはSとL。
(当然のようにペアで僕にも着せようとしている。およそ正視に耐えないデザインのものを……!)
「ブランド物も素敵ですけど、今の私には、巧くんとここで『あーでもないこーでもない』って笑いながら選ぶ時間が、一番価値のある資産なんですけど?……これ、ハイスペックなリーダーなら、ちゃんと理解してくれますよね?」
「……っ」
(……資産)
その言葉は、僕の脳内に最短ルートで突き刺さった。
(一理ある……)
彼女が提示したのは、市場価格でもブランド価値でもない。
二人で「楽しく過ごす」という、唯一無二の資産だ。
「……わかった。現代のハイブランド主義よりも、この『ドンキ・パラドックス』の方が、遥かに幸福の期待値が高いことを認めよう」
「ふふ、難しい言葉ばっかり! ほら、次はあっちのスリッパコーナーですよ!」
降参するように溜息をつき、凛のサンタ帽の角度をそっと直した。
(……ああ。結局、僕は彼女に一生勝てそうにないな)
カートの中には、二人の生活を彩る、安っぽくて愛おしい宝物が全てペアで積み重なっていく。
蛍光灯の青白い光の下で、僕の心臓は店内BGMに合わせて幸せなリズムを刻んでいた。
しかし……これは
「……凛、凛さん。いくらなんでも買いすぎじゃないかな?」
目の前のショッピングカートは、既に限界容量を超えつつあった。
マッスル猫のペアマグカップ、色違いのモコモコスリッパ、果てはよく分からないキャラクターのペアストラップまで。
カゴの中は、雑多な「二人分」のグッズで溢れかえっている。
(これは限度を越えてる……)
「今、不必要に荷物を増やすのは得策じゃない。僕たちは三ヶ月後には、この拠点を撤収しなければならないんだ。移動の際のリソース管理を考えれば——」
効率と合理性を説こうとする僕の言葉を、凛が静かに遮った。
彼女は、カートの中に並んだ二つのマグカップをそっと見つめながら、独り言のように呟く。
「……離れてても、思い出すじゃないですか。これがあれば」
「え……?」
「アメリカと日本で、ペアじゃなくなっても。……これを見るたびに、あぁ、あっちで巧くんもこれを使ってるんだなって。……そう思える『証拠』が、たくさん欲しいんです」
ドンキの騒がしいBGMが、一瞬だけ遠のいた。
凛は、ただ浮かれて買い物をしていたわけじゃない。
三ヶ月後の「その先」を、この宝物たちで埋めようとしていたのだ。
たとえ手元にあるのがペアの片割れだけになったとしても、それが繋がっているという確信を欲しがっている。
(……僕は、なんて浅はかなんだ)
最適化だの撤収だの、僕はまた「今の幸せ」を台無しにする計算ばかりしていた。
「……そうだね。……わかった。全項目、承認する。カゴをもう一つ持ってこよう。……荷物がどれだけ増えても、僕が責任を持って全て運ぶから。船便で可能な限り、アメリカに持って行く」
「……本当ですか??」
「ハイスペックなリーダーを舐めないでほしいな。……この思い出の重さくらい、計算の内だ」
僕は凛の手からカートを奪うように引き受けると早歩きで次のコーナーへ向かった。
鼻の奥がツンとするのを隠しながら。
「……お会計、三万二百四十円になります」
「…………三万」
深夜のテンションで淡々と告げられた数字に、僕は絶句した。
三万円。
アクセサリーやブランドの小物なら迷わず出す金額だが、今、目の前にあるのは「猫の耳がついた布」や「重い陶器」の集積だ。
その隣では凛が僕より絶句、いや青ざめている。
「……あ、あの。調子に乗って買いすぎましたね……」
凛が慌てて財布を取り出し、千円札を数え始めた。だが、その指先がぴたりと止まった。
「……あれ。…………足りません。ごめんなさい!! 返してきます。ぴえん……」
情けない声を出し、半泣きでカゴを抱え直そうとする凛。
(ぴえん、じゃない!)
店員さんが困っているというか、呆れたような、あるいは「このクリスマスイブの深夜に迷惑な客だ」と言わんばかりの視線を浴びせてくる。
そういえば、以前彼女に「カードは作らないのか」と聞いた時、「なんか怖いから嫌です。お金を使ってる実感がなくなっちゃいそうで」と、現代社会のキャッシュレス利便性を一蹴する原始的な回答が返ってきたのを思い出した。
(不測の決済を乗り切れない成人がいるのか……。以前も現金がなくて、ポイント強制決済でなんとか死線を越えていたな……)
「……お小遣いの足りない小学生か、君は!」
僕は思わずツッコんでいた。
クリスマスイブの夜、サンタ帽を被った二十代の女が、ドンキのレジ前でお金が足りずに「ぴえん」と嘆き、商品の選別を始めようとしている。
客観的に見て、この状況の深刻さは計り知れない。
「いい。僕が全部払う。……いや、払わせてください。ペアだから負担するのが、公平なマルチタスクです。……というか、今はこれ以外の選択肢が存在しない」
「でも……! これは私からの、クリスマスプレゼントのつもりだったのに……!」
そうか。
彼女なりに、僕との「証拠」を自分の手で贈りたかったのだな。
だが……。
「この押し問答中も後ろが列になってる!」
(一刻も早くレジを通り抜けたい!)
漆黒の輝きを放つ僕のブラックカードでのタッチ決済音を聞きながら心の中で、ある「計画」を前倒しすることを決意した。
(……一刻も早く入籍して、僕の家族カードを持たせないと。これは夫として妻となる凛の埋めるべき脆弱性だ……)
袋詰め中も凛が僕に現金を握らせようとするが、それも拒否し、膨れ上がった三つのポリ袋を両手に下げて店を出る。
深夜の冷たい風が、レジでの恥ずかしさと愛おしさで火照った顔を冷やしてくれた。
「……巧くん、本当にごめんなさい……。後でお金引いて返しますので……」
(いや、給与が振り込まれていても、口座は限りなく空に近い状態だろう)
僕は彼女の懐事情を、地政学リスクよりも正確に、かつ無慈悲に予測していた。
「いいんだ。これは二人の共有の財産だから……。さぁ、帰ろう。僕たちの『家』へ」
親に無駄遣いを怒られてシュンとしている子供のような凛。
隣を歩く凛は、さっきまでの元気はどこへやら、サンタ帽の先っぽと同じくらい力なく俯いている。
「……凛」
「……はい」
「そんなに落ち込まなくていいよ。三万円で僕たちの『宝物』が増えたと思えば。僕もクリスマスプレゼント用意してなかったから、これは僕からプレゼントだよ」
「でも、私からプレゼントしたかったんです……かっこ悪いですよね。二十歳過ぎてドンキのレジでフリーズするなんて……」
消え入るような声。
僕は、右手に持っていた二つの重い袋を左手にまとめ、空いた手で彼女の頭をポンと叩いた。
サンタ帽の白いポンポンが、所在なげに揺れる。
「……ハイスペックなリーダーは、部下のキャパオーバーも計算に入れて動くものです。今回は僕の事前調査不足だよ。レジに行く前に確認できた事だ……それより、早く帰って『実装』しよう。その猫の、……着ぐるみを……」
「……! はいっ!」
単純なもので、パジャマの話を出した途端、凛の瞳に光が戻った。
現金はなくても、彼女には「今を全力で楽しむ」という無限のリソースがある。
マンションのオートロックを開け、エレベーターの鏡に映る自分たちを見る。
ブラックカードを使いこなし、世界を相手に仕事をするはずの男が、巨大なドンキの袋を三つも提げ、隣にはサンタ帽の女。
(……ああ。僕の人生、ずいぶん予定調和から外れてしまったな。こんなクリスマスイブは二度とない経験だな)




