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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: もふおのしっぽ
第二章

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第115話:【心配】巧のリスク管理

「……凛。一応確認するが、この『腹筋が割れた猫』が、僕の就寝時における標準装備デフォルトということで相違ないかな?」


「相違ありません! 巧くん、すごく……強そうな猫に見えますよ!」



 鏡の中にいたのは、理知的なハイスペックの皮を脱ぎ捨て、シックスパックに割れた腹筋と猫耳を装備した『マッスル猫パジャマ』姿の僕だった。



「似合ってます! 背が高いからマッスル感がリアル!」



 凛はソファに転がりながら爆笑し、スマートフォンのシャッターを連写している。



「……即座に削除してくれ。僕の社会的ステータスが、この一着で完覆なきまでに崩壊している」


「きょ、共有アプリに入れときます……。大丈夫ですよ、これならアメリカでも大人気になれます! ふふふ、あはははっ!」



 僕は無言でパジャマを脱ぎ捨てると、せめてもの抵抗として、水通しのために洗濯機の中へ叩き込んだ。



 「凛。シャンプー等の日用品はどうした? 見当たらないけど」


「あっ、持ってきてないです! ずっと家族と共有だったので」



(……ということは、凛から漂うあの愛おしいほどの甘い香りは、お父様や蓮くんも纏っていたということか)



 思いがけない「共有」の事実に、胸の奥がわずかにざわつく。



「僕と同じものを使って構わないけど、いい?」


「はい! 前に借りた時、髪がサラッサラになりましたもん。あのシャンプー、どこにも売ってないですよね?」


「……ああ、美容室の専売品だからね」


「ふーん……道理で。あ、でも化粧水は持ってきたので大丈夫です!」



 自信満々に凛が取り出したのは、あまりに巨大な、大容量のハトムギ化粧水だった。



「……凛、一応聞くけど。それは顔用で間違いかな?」


「もちろんです! ハトムギですから!」



 凛は誇らしげに、一リットルはあろうかという巨大なボトルを掲げた。



 僕が普段使っている、一滴の単価が恐ろしいことになっている美容液で、このボトル何百本買えるだろうか。



 二十代、美容。



 肌のコンディションに投資すべき年代。



 それなのに彼女は、ドラッグストアの最下段でよく見かける「コスパ最強」の権化のような代物で、その白く瑞々しい肌を維持しているというのか。



(この品質でいいのか……? いや、成分的にはシンプルで悪くはないのかもしれないが、二十代の女性が持つ『潤いへの意識』としては正解なのか?)



「巧くんも使います? これ、お風呂上がりに全身にバシャバシャ浴びるように使うと気持ちいいんですよ!」


「……僕は遠慮しておく。こう見えて、肌がデリケートなんだ」


「えー、もったいない! これ、ネットで言ってたんですよ。結局、高いやつをちびちび使うよりも、安いやつをバシャバシャいっぱい使うほうがツヤツヤになるって! プラシーボ効果ですよ!」



(……それを言うなら『コストパフォーマンス』だろう)



 語彙の誤用を指摘すべきか一瞬迷ったが、得意げに巨大ボトルを振る彼女の笑顔を見ていると、論理的な反論は無意味だと悟った。



「じゃあ、お風呂入ろうか……」


「はーい!」




 洗浄を済ませ湯船に浸かった凛が、ぷはぁ、と気の抜けた声を上げる。



「巧くんは頭から洗うんですね」


「え?」



 シャワーの音にかき消されそうな声に、僕は手を止めて振り返った。



(……僕の洗髪順序を観察している)



「普通、上から順に洗うのが効率もいいし、洗浄剤の残留も防げる。合理的だろう」


「あはは、お風呂も理屈っぽい! 私は顔からですよ。まずはメイクを落として、一番大事なところをスッキリさせてからじゃないと落ち着かなくて」



 そう言って笑う凛の少し火照った肌が露わになる。



彼女と同じ空間で裸でいるという事実が、今更ながらに僕の理性をじわじわと削っていく。



「……凛、ちゃんと肩まで浸かって」


「はーい!」


 シャワーを浴びながら、僕は心の中で必死に「素数」を数え始めていた。



 湯船に浸かると凛が、僕の膝の間に収まる。


「なんか難しい顔してますねぇ」


(下半身の正常値を保ってるんだよ……)


「……いや。入籍後のタスクリストを整理していただけだ」


「婚姻届を出すだけじゃないんですか?」



 僕の膝の間でのんきに首をかしげる凛に溜息をつく。



「はぁ……。僕はそれだけでほぼ終わりだが、君は『佐藤凛』にアップデートされるからな」


「ああ! 名字、変わりますもんね」


「他人事だな」



 名字が変わるということは、佐倉凛というこれまでの全データを「佐藤」に上書きしなければならないということ。



「僕がいるうちにアメリカへの渡航準備も進めたい」


「ふむ?」



 やはりピンときていない。



 僕はのぼせかけている脳で要点を掻い摘まんだ。



「入籍、マイナンバーカード、免許証、通帳の氏名変更。通常はここまでだが、君は一年後にアメリカに渡る。戸籍謄本が整い次第、パスポートの申請。それに現地で必要な予防接種や健康診断……」


「ええっ!! 妻になるって、そんなに大変なんですね……。妻になる為の注射……夫は楽でいいなぁ」


「……君の分は、僕が完璧にフォローする」



 そもそも、書類の不備を待てるほど僕の気が長くはない。



 ふと、湯気に濡れた彼女の顔を間近で見つめ、僕は一つの懸念を思い出した。



「……。あっ、凛、口開けて」


「え? なんですか? 青ノリついてますか?」

 


 僕は彼女の顎を軽く指先で持ち上げ、その無防備に開かれた口内を検分するように覗き込んだ。



「……よし、虫歯はないな。歯列矯正の必要もなさそうだ。アメリカの歯科治療費は、僕の年収をもってしても『非合理的』と言えるほど高額だから……」


「ひゃい……ふぉうなんふぇふか(はい、そうなんですか)」



 僕の指先が、彼女の柔らかな唇の端に触れる。



 医療的、あるいは事務的なチェックを装ってはいるが、指から伝わる体温が、僕の下半身を再び暴走の危機へと追い込んでいく。



「っげ!」


「な、なんですか?? タコはさまってますか???」



 甘いバスタイムとは思えない凛の叫びを無視し、僕は確信を持って告げた。



「違う。デカい親知らずが……鎮座している」


「お、おやしらず……?」


「……凛、これは看過できない。アメリカの歯医者でこれを抜く羽目になったら、それこそ航空券が買えるレベルの損失になる」



 僕の脳内にある『渡米前リスク管理リスト』の最上位に【親知らずの抜歯】が追加された。



「えええっ、抜くんですか!? 嫌ですよ、痛いの怖いもん! まだ暴れてないし、仲良く共生してますから!そ、それに親知らずはどっかの歯がダメになったらスペアにもなるって!」



「『共生』ではない、『時限爆弾』を抱えていると言うんだ。いい、炎症を起こしてからでは遅い」


「い、イヤですぅ。私を拷問する気ですかぁ」



 本気で泣きそうになってる。



 僕はただ未来の苦痛から解放したいだけだ。



「……ごめん。でも異変があれば、すぐに抜歯だからね」


「親知らずちゃん、大人しくしててくださいよ」



 頬を押さえて祈る凛。



 

「……さあ上がろう、のぼせる」



脱衣所へ上がり鏡を見れば、湯気と茹で上がった僕と凛の顔。



「まだマッスル猫の洗濯乾燥終わってないですねぇ……残念です。明日の楽しみです!」



(敢えて『念入り洗いモード』にしたからね)



 凛がハトムギボトルからバシャバシャと何プッシュもし、文字通り浴びるように化粧水で全身を保湿していく。



「巧くん 背中、失礼しますね!」


「……っ」



 背中に冷たい化粧水の感触が走る。



 凛の手が首筋から下半身へと順番に、僕の肌に触れていく。



「巧くん、お肌デリケートなんですよね? お風呂上がりは三秒以内に保湿しないと水分が逃げるらしいですよ。ほら、バシャバシャいきますからね!」


「三秒は物理的に無理があるだろう……。あと、少し量が多い、冷た……っ」



 一リットルボトルの恩恵をこれでもかと僕の背中に注ぎ込む。



 ハトムギの香りと、彼女の指先の温度。



 僕の心臓は再び「正常値」を大きく外れて暴走を始めていた。



「……凛、もういい。潤いなら、飽和状態だ」


「えー、まだ一メモリも減ってないですよ? 巧くんをツヤツヤのマッスル猫にするんですから!」



 無邪気に笑いながら、僕の肩を揉むように保湿を続ける凛。



(((……これ以上は)))



「ごめん。理性が飽和状態だ」


「きゃ!!!」



 僕は背後にいた凛の腕を掴み、そのまま正面へと引き寄せた。



 突然の力に逆らえず、凛の小さな体が僕の胸の中に収まる。



 ハトムギ化粧水でしっとりと濡れた彼女の肌の質感が、ダイレクトに僕の体温を跳ね上げた。



「た、巧くん……? あの、目がマッスル猫より怖いんですけど」


「……当たり前だ。これだけ無防備に僕の聖域プライベートエリアを侵食しておいて、何事もなく眠れると思うほど、僕はハイスペックではない」



 至近距離で見つめ合うと、彼女の瞳に映る自分が、いつになく余裕のない顔をしているのがわかった。


 

 僕はそのまま彼女を抱き上げ、寝室へと足を向けた。



 洗濯機の中では、僕の社会的尊厳を守るために「念入りモード」で回り続けるパジャマの音が、虚しく響いている。



「あと……来週早々に歯医者の予約を入れるけど、許して……僕も歯科検診、一緒に受けるから」


「えええっ、独裁者だ! 佐藤家は独裁政権なんですかぁ!?」


「いいや。ただの、執着心の強い夫なだけだ」



 ハトムギの香りに包まれながら、僕は彼女の唇を奪い、思考のスイッチを完全にオフにした。

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