第110話:【炸裂】退職宣言
自席に戻ると、そこにはいつもの「日常」が待っていた。
「おや? 佐藤くん、佐倉さん。今日ミーティングの予定だった? 僕に通知が来てなかったみたいだけど、入らなくてよかったかな?」
榎木さんがいつも通りのんびりとした声をかけてきた。
その隣で、凛がわずかに肩を震わせる。
「佐倉さん、前に提出してもらった『自己申告』のフィードバックを送ったから、見ておいてね」
僕を見つめる凛。
その瞳に、迷いのない光が宿るのを僕は見た。
「……はい。あの、榎木さん。その自己申告なんですけど……今から変更できますか? この部署に暫くいたいって書いてたんですけど、私……来年度いっぱいで、退職します!!」
凛が、弾かれたように声を上げた。
「……え?」
タイピングの音、電話のベル、シュレッダーの回転音――それらすべてが、凛の一言で「無効化」される。
(このタイミングで、まさか伝えるつもりなのか……!?)
「え? 何か……私に、不満があった? それとも何かの冗談?」
「いえ、冗談じゃないです! 」
榎木さんが冗談めかして笑った瞬間、凛の放った弾丸がフロアの空気を撃ち抜いた。
「佐倉さん……退職って、君、ここのエースじゃないか。本部も期待してる『凛ちゃんさんの部屋』のモデレーターで……。理由を聞いてもいいのかな? 何か不満があるのかな? その、その横の……」
榎木さんの声から余裕が消える。
その視線が僕へ向く。
まるで僕が彼女に不当な圧力をかけているかのような、疑念に満ちた目だ。
凛は深く息を吸い込み、隣の僕を真っ直ぐに指差した。
「私、結婚するんです! だから、来年度いっぱいで仕事をやり遂げて退職して、旦那さまについていくんです!」
「旦那さま……? 誰だい、佐倉さん。君、彼氏すら……まさか、ネットで知り合った怪しいサウジアラビアの富豪とかじゃないよね?」
榎木さんが、おどおどと周囲を見渡す。
フロア中の社員が耳をそばだてているのがわかる。
「ここにいます!!!」
凛が、迷いなく僕を指差したまま言い放った。
「…………は?」
榎木さんだけではない。フロア全体が真空状態になったかのような静寂に包まれる。
(……凛、それはマズい)
僕は内ポケットの社用携帯を強く握りしめた。
僕が三月末に去ることは、まだ「内々示」だ。
本部の武藤さんからは口外を厳禁されている。たとえ結婚の報告であっても、僕が「アメリカへ行くから彼女が辞める」という背景を説明した瞬間、僕はビジネスマンとしての信頼を失う。
だが、凛の勢いは、僕の論理的な懸念を軽々と飛び越えていった。
「……榎木さん」
僕はゆっくりと凛の前に立ち、震える彼女の手を後ろ手で密かに、力強く握った。
そして、外交官の父譲りの、冷徹なまでに冷静な口調で言葉を紡ぐ。
(はぁ……。誤るな。誤魔化せる範囲で、最適解を提示しろ)
「佐倉さんの言う通りです。……僕たちは一昨日、正式に顔合わせを済ませました。結納も近日中に執り行う予定です。彼女が来年度で退職するのは、僕との結婚後の生活基盤を整えるためです」
「えええ!!!そ、そうなのかい? おめでとう、いや、驚いたな……。え?? いつから……? ……でも、ついていくって、佐藤くんは来期もここにいる予定で……」
「……詳細については、追って正式な形で報告します。今は業務に支障が出ないよう、配慮をお願いしたい」
僕は「アメリカ」の四文字を、喉の奥で必死に押し殺した。
凛は隣で「えっ、言わないの?」という顔をしていたが、僕の握る手の強さで、それが「今はまだ言えない機密」であることを察したのだろう。
(すまない、凛。……まだ、僕が『どこへ』行くかは、公にできないんだ)
空気を読むのだけは「管理者レベル」の榎木さんは、深く溜め息を吐き、すべてを飲み込んでくれた。
周囲からは「ロジカル佐藤が……」「電撃結婚かよ……」というどよめきが消えない。
「……じゃあ佐倉さん、その退職のことは私が自己申告に追記して管理に上げるよ。来期の人事の配置に加味されるだろうから。後任を早めにつけるとかね」
「あ、ありがとうございます! 残り一年、頑張ります!!」
榎木さんがとても、とても、静かだけれど寂しそうな顔をする。
「……うん。私も来期はまだ分からないけど、よろしくね。二人ともいなくなっちゃったら、寂しいなぁ。ははは。」
榎木さん特有の、のんびりした、けれど鋭い勘。その寂しげな笑いに、胸の奥がわずかに痛む。
「榎木さん、ご理解感謝します」
「……佐倉さん。仕事に戻りましょう。今日中に、君の『引継ぎロードマップ』の骨子を書き上げるよ」
「……はい、先輩。……あ、あの、これから誰かに聞かれたら『旦那さま』って紹介してもいいですか?」
「……却下です。社内では『佐藤先輩』で通してください」
「ええー、ケチ……」
僕は動揺している自分を悟られないよう、猛然とキーボードを叩き始めた。
周囲は「結婚して鳴凪で暮らす二人」を想像して盛り上がっている。
だが、実際にはあと三ヶ月で僕だけがこの地を去り、一年後には彼女もいなくなる。
――それから一時間。
榎木さんの「ソワソワ」がオフィス全体のノイズレベルを上げ続けていた。
ハイスペックな集中力をもってしても、斜め向かいから放たれる「落ち着きのない視線」と「不自然な貧乏ゆすり」を完全に無視することは不可能だった。
(……このままでは、今日中のロードマップ作成に支障が出るな)
僕は意を決して、キーボードを叩く手を止めた。
「榎木さん」
「うわぁ! なんだい? 旦那様」
「僕は榎木さんの主人じゃありませんよ」
即座に、かつ冷徹なトーンで訂正する。
「ああ、佐藤くん……」
榎木さんは、まるで世紀の発見をした子供のような顔で僕を見つめている。
(ダメだ、一番動揺しているのはこの人だ。……でも、仕方ないか。上司と部下というよりも、親子のような関係の二人だ)
僕は内心でため息をつきつつ、周囲に聞こえないよう、かつ榎木さんを少しでも鎮めるための「最適解」を提示した。
「あの……時期が来たら、きちんと説明を兼ねた食事会をしますので。今は落ち着いてください」
すると、隣で聞き耳を立てていた凛が、目を輝かせて割り込んできた。
「え?! 結納に榎木さんも呼びますか?」
「違う!!」
僕は、思わず凛の方を向いて声を荒らげそうになるのを必死に抑えた。
「この営業企画グループの食事会だよ! 君の上司への結婚の報告を兼ねた食事会だ!」
「あ、そっちですか。……残念ですね、榎木さん」
「いやいや! 僕はグループの食事会でも十分……いや十二分に嬉しいよ! 佐倉さんの花嫁姿の予習ができるわけだしね、ははは!」
(……失敗した。食事会という『追加タスク』を提示したことで、彼の興奮レベルをさらに一段階引き上げてしまったか)
榎木さんの「ソワソワ」は、もはやグループの領域を超え、フロア全体に広がる強力な磁場となって伝播していた。
鳴凪支店のネットワーク(物理)は完全に、特大ニュースにジャックされている。
(……あかん、収束させるつもりが拡散している)
僕が「食事会」という言葉を出した瞬間、背後に気配を感じた。
「さ、佐藤さん……?」
振り返ると、そこには営業部の田中さんが立っていた。
その後ろには、明らかに「おこぼれ」を狙っている数人の社員たちが、期待に満ちた瞳でこちらを凝視している。
「あの……僕たちも、同じフロアのメンバーとして、そのお食事会……参加したいなぁ、なんて……」
「…………」
「ちなみに……"Will you walk with me and stay by my side forever?"――あのプロポーズ、痺れました!」
「……え?」
「あっ、僕、TOEICのスコア830なんです」
田中さんの満面の笑み。
(((鳴凪でも英語は世界共通語だったか。は、恥ずかしい……!)))
プロフェッショナルとして完璧に振る舞ったつもりのあのプロポーズが、翻訳付きでフロア中に共有されていた事実に、僕の脳内CPUは瞬間的にフリーズした。
「あ、あの……田中さん。これはあくまで、直属の上司への報告を兼ねた、極めて小規模な会合であって……」
「いいじゃないですか、佐藤先輩! 鳴凪支店・合同祝賀会! お祭ですよお祭!」
凛が、ガソリンを抱えて炎の中に飛び込んできた。
「佐倉さん……! 君は火に油を注ぐ(バーストさせる)天才か?」
「えー? だって今日はみんな、先輩のイングリッシュに感動して、その後で婚約発表ですよ? 今、支店中のテンション、マックス(最大値)ですから!」
「……ああ、佐藤くん。もう諦めなよ。このフロアのメンバー全員、君たちの『共犯者』になりたがってるんだ」
榎木さんまで、ソワソワを通り越して「幹事モード」の顔になりつつある。
(……致命的なエラーだ)
「……分かりました。ただし、会場のキャパシティと予算の策定は、僕がロジカルに決定します。……田中さん、営業の進捗が滞ったら、その場で僕が説教を始める会になりますが、それでもよろしければ」
「望むところです! 佐藤さんのつまんない説教をツマミに酒が飲めるなんて、最高のご祝儀ですよ!」
(……この街の人間は、ポジティブすぎるバグを抱えているのか?)
田中さんが歯を見せて笑うと、榎木さんがここぞとばかりに身を乗り出してきた。
「いや、それなら僕ら鳴凪支店一同からの『結婚のお祝い』ってことにしましょう! 会費なんて無粋なことは言わせないよ、佐藤くん。主役は黙って座ってればいいんだから」
榎木さんが深く、そして力強く頷く。
(……怖い)
僕の脳内シミュレーターが激しく警告を発した。
「榎木さん、お言葉ですが、これは立場的に僕たちからの……」
「硬いこと言わない! 佐藤くんの送別……じゃなかった、お祝い大イベントなんだから。ねぇ、佐倉さん?」
「はいっ! 榎木プロデューサー、期待してます! 鳴凪産の美味しいもの、いっぱい食べたいです!」
「任せなさい! 最高のプランニングをしてみせるからね」
榎木さんは鼻息荒く、すでにメモ帳に「会場候補」を書き殴り始めている。
(……任せていいのか? この、腸内フローラと平和しか考えていない上司に、僕たちの『公式報告』という名のマニフェストを委ねてしまっていいのか?)
どんな会になるのか、想像もつかない。
おそらく、僕がどれだけ精密な進行表を作ったところで、彼らはそれを「紙吹雪」に変えてしまうだろう。
「……はぁ。では、条件として、当日は酒席の規定は必ず守って下さいね」
「わかったわかった! ロジカル佐藤くん、今日はもう諦めて仕事に戻りなさい!」
(いや、僕は仕事を……ロードマップを早く仕上げようとしてるんだよ)
榎木さんに笑顔で一蹴され、僕は再び画面に向き直った。
(……僕がいなくなることを知らない彼らが、こんなにも熱烈に僕たちを祝おうとしている)
その善意の重さが、キーボードを叩く指にほんの少しだけ余計な負荷をかけた。
喜びよりも、彼らを裏切ることになるかもしれないという「負債」の計算が、僕の脳内を埋め尽くしていく。
「……先輩、顔が怖いです。お祝いなんですから、もっとこう、ふわっとしましょう、ふわっと!」
「……君の『ふわっと』は、僕にとっては『致命的に気が重い』んですよ」
そう言いながらも、僕はエクセルのロードマップの隅に、『榎木氏による祝賀会プロトコルの監視』と密かに書き加えた。




