第109話:【実行】アジェンダの書き換え
いつ、どのタイミングで、どう切り出すか。
その時、画面の右下に通知ポップアップが躍り出た。
【会議案内】
日時:10時00分 〜 11時00分
場所:第一会議室
主催者:佐倉凛
参加者:佐藤巧
議題:来期DX推進計画の進捗確認
アジェンダ:(未作成)
「……え?」
「先輩」
顔を上げると、そこにはノートを抱え、凛とした表情で僕を見下ろす凛が立っていた。
「行きましょう。遅刻は認められませんよ!」
不敵な笑みを浮かべ、僕の背中を押すその姿。
それは、鳴凪に来る前の――仕事の効率と規律こそがすべてだった、「あの日までの僕」を鏡で見ているようだった。
数分前、内々示という爆弾を食らった僕を、彼女はまだ知らない。
僕が彼女に「一緒に来ないか」と囁いたあの英語も、彼女はまだ理解していない。
「……ああ、行こう」
「凛への対応シート」を最小化し、立ち上がった。
会議室へ向かう彼女の背中を見つめながら、僕は残された三ヶ月という砂時計の、最初の一粒が落ちる音を聞いた気がした。
会議室の重い防音扉が閉まった瞬間だった。
「わっ……!?」
凛が抱きついてきた。
会議室の無機質な空気の中に、彼女が使っているシャンプーの甘い香りが広がる。
「ちょっ、凛……! ここは会社……」
「何かあるなら、言ってください」
シャツ越しに熱が伝わってくる。
「さっきから、難しいこと考えてる巧くんの顔してました。……隠せてるつもりでしょうけど、私には分かっちゃうんですから」
僕は思わず、部屋の隅にある監視カメラのレンズを探してしまった。
こんな時ですら、リスクを優先して計算してしまう自分に、思わず自嘲気味な笑みが漏れる。
(……ああ。砂時計は、ひっくり返されたんだ)
最初の一粒が落ちたのではない。
僕たちがこれまで積み上げてきた鳴凪での時間は、今この瞬間から「終わり」に向かって、トップスピードで流れ落ち始めたのだ。
「……離れて。誰か来たらどうするの」
僕は彼女の手を優しく解き、向き合った。
凛は少し頬を赤らめながらも、「むぅ」と不満げに口を尖らせる。
その、あどけなさが残る表情を守り抜かなければならない。
「……少し、気が和らいだ。ありがとう」
僕たちはこれまで、ずっと駆け抜けてきた。
ならば、このままゴールテープを切ればいいだけだ。たとえそのゴールテープが、僕を異国の地へ、彼女と別々の運命へと導くものだとしても。
「……では。来期に向けての、緊急ミーティングを開始する」
「えっ?! 巧くん、本当に会議するんですか?」
目を白黒させる彼女を横目に、僕はホワイトボードの前に立ち、ペンを取った。
「当たり前です。……言っただろう、遅刻も、妥協も認めないと」
三ヶ月後の「撤退」という名のゴール。
そこに至るまでの、僕たちだけの、完璧なアジェンダを。
僕は今、この真っ白なボードに刻み始める
会議室の防音扉の向こう、沈黙が支配する。
凛は下を向いたまま、ピクリとも動かない。
(……やはり、三ヶ月という納期は非現実的か)
三月末までに入籍。
(これはマストだ。赴任手当や法的保護を考えれば、単身赴任であっても籍は入れるべきだ。)
(だが、僕はどうしても離れたくないと思ってしまっている……)
「……三ヶ月です。それが僕たちに許された猶予。僕は……君をこの混乱に巻き込みたくない。だが、離れたくもない。正直、今の僕には最適解が出せない」
そんな未練がましい僕の思考を、凛の鋭い声が断ち切った。
「一年」
「え?」
「一年ください!!! 巧くんは、ひとりで行ってきてください!!!」
顔を上げた凛の瞳には、迷いなど微塵もなかった。
「私、巧くんが来てから仕事が本当に楽しいんです! 『凛ちゃんさんの部屋』だって、みんなにクリエイティブの知識を叩き込めるまで、あと一年はかかります。中途半端に投げ出して一緒にいくなんて、私のプライドが許しません!」
凛がテーブルを叩き、僕を真っ直ぐに見据える。
「だから、巧くんは先にアメリカへ行って、世界を救ってきてください。その間に、私はここを完璧にクロージングします。一年後、私が仕事をやり遂げたら……その時は、アメリカでもイランでも、どこへでも追いかけていきますから! その後はサウジアラビアあたりで、巧くんの稼いだお金で豪遊してやります!!」
「……世界を救うなんて、そんな大袈裟なものじゃ。凛、ちゃんとリスクは考えてる?」
「何言ってるんですか!生活インフラは国民みんなの命です!お父さんたちが公務員としてみんなを危険から守ってるなら、私たちは日常を守ってるんです!防弾チョッキ着てでも、私は巧くんを追いかける覚悟ですよ!」
……完敗だ。
二十七歳の僕が抱えていた「離れたくない」という甘えも、彼女を危険に晒したくないという「驕り」も、凛の圧倒的な覚悟の前にすべて霧散した。
「……フッ。ははは……」
僕は思わず、声を上げて笑ってしまった。
僕が彼女を「晒し者」にしてまで開拓させた才能は、今や僕を置き去りにして、世界の果てまで自分で行くと言っている。
「……いいでしょう。アジェンダを書き換える。三ヶ月後の三月末、僕は単身で北米へ。そして一年後の四月一日、君が僕のいる場所へ合流する」
僕はホワイトボードの「撤退」という文字を消し、力強く「戦略的分断および再結合」と書き直した。
「凛、待ってるから。」
「はい!あと、残りの3ヶ月で英語を少し教えてください!!ウィルしかまだ分かっていません!」
砂時計は、ひっくり返されたのではない。
二つの砂時計が、それぞれの場所で、同じ未来に向かって時を刻み始めたのだ。
監視カメラを気にする余裕など、もうない。
僕は彼女の肩を掴み、その瞳に宿る炎をしっかりと焼き付けた。
「英語か……三ヶ月じゃ足りない。合流までの一年も、毎日リモートでレッスンが必要です。時差を考慮すると……そうだね、僕の終業後、日本時間の朝7時に固定する?」
僕はホワイトボードの隅に、瞬時に時差計算の対照表を書き出した。
「……えっ、私いつもその時間寝てます!」
「確定事項です。日本時間の朝7時。これなら君の出勤前、一時間の集中講義が可能だ。僕の方は17時、定時退社後に即接続すればいい」
「無理です!! そんな早起きできません!! 巧くん、ハイスペックの基準を私に押し付けないでください! 凍死します、布団の中で凍死します!!」
「……鳴凪の3月はそこまで寒くないはずだけど」
凛の必死の抗議に、僕はわずかに口角を上げた。
このやり取りすら、もうすぐ「画面越し」のデータ通信になってしまう。
文句を言いながらも、彼女は手帳の「7:30」の欄に、大きく力強い文字で丸をつけた。
僕はホワイトボードの半分を、迷いなく消し去った。
そして、空いたスペースの最上段に、これまでの人生で最も重要なタイトルを刻む。
『佐藤・佐倉:鳴凪最終フェーズにおける共同生活・最適化ミーティング』
「えっ? 巧くん、それ……」
「来期の話は終わりだ。ここからは、僕たちの『残された三ヶ月』の過ごし方について、クリティカルな議論を行う」
僕はペンの色を赤に変え、箇条書きでアジェンダを叩きつけた。
同棲開始日の前倒し(引越リソースの再配分)
結納および家族プロトコルの執行
入籍デッドラインの設定
思い出のバッファ確保(週末の全スケジュールを『情緒的体験』に全振りする)
「三ヶ月しかないんじゃない。僕たちが本気でリソースを投入すれば、通常の一年に匹敵する密度の『日常』を構築できるはずだ」
凛は呆気にとられたようにボードを見つめていたが、やがてぷっと吹き出した。
「……あはは! 巧くん、本当にハイスペックの使い道が極端すぎます!」
「当たり前です。僕は君との時間を、一分一秒たりとも無駄にする気はない」
凛は笑いながらも、手元のノートを開き、今度は「仕事」ではなく「僕たち」のためにペンを走らせ始めた。
「じゃあ、私も提案です! 週末の『情緒的体験』には、鳴凪の全スイーツ店制覇も入れてください! アメリカに行ったら、当分食べられませんからね!」
「却下です。……と言いたいところだが、君のモチベーション維持に寄与するなら、必要経費として計上しよう」
監視カメラに映る僕たちは、きっと外から見れば、深刻な顔で来期の予算案でも練っているように見えただろう。
だが、その中身は、世界で一番甘くて、少しだけ切ない三ヶ月間の幸福最適化モデルの完成。
僕たちの限られた砂の一粒一粒を、宝石に変えるための作業。
「……よし、では第一議題からだ。佐倉凛さん、君の引っ越し準備の進捗を報告してください」
「はいっ! まだ未着手です!佐藤先輩の指導のもと、五月雨式ではなく爆速でパッキングします!」
最高に忙しくて幸せな、カウントダウンが始まった。




