第108話:【緊急】強制終了(シャットダウン)
月曜日。
イントラネットの検索窓に「同棲 手続き」「通勤変更届」と打ち込む。
(凛の通勤ルートが変わるから、変更届のワークフローは僕がフォローしないとな)
(住民票の異動タイミングはどうすべきか。榎木さんには、僕たちの関係をどのタイミングで報告すべきか……)
隣のデスクでは、今日も「ストレスは最大の敵だからね」と、凛が腸内フローラを整える乳酸菌飲料をストローで啜っている。
平和で少しだけ浮ついた、「日常」の風景。
「(巧くん、何か必要な書類があったら言ってくださいね)」
デスクの下、極小の声と共に僕の足をつつく凛。
「(ああ、今のところは問題ない。順調だ)」
そんな、静かな熱を帯びたフロアの静寂を破ったのは、一階の立花さんからの切迫した内線だった。
「さ、佐藤さん! 佐藤さんって、英語しゃべれますよね!!!」
「え? まあ、仕事で困らない程度には喋れますけど。どうしたんですか?」
「多分、入居の連絡なんですけど、日本語が全然通じなくて! 私の英語力じゃ『イエス、ノー』が限界です……助けてください!」
「ああ、いいですよ。代わります」
僕はため息を飲み込み、受話器を持ち直す。
「保留中の外線3番ですね?」
「そうです! お願いします! 多分、エレンさん……って仰ってる気がします!」
外線のボタンを押す。
受話器の向こうからは、不安と苛立ちが混ざり合った、かなり早口の英語が漏れ聞こえていた。
(……なるほど。これはパニクってるな)
僕は喉を整え、外交官だった父の仕事の関係で幼少期を過ごしたカナダ、そしてロンドン仕込みの、極めて洗練されたクイーンズ・イングリッシュを繰り出した。
"Hello, this is Sato from Fox Energy. I will be taking over your inquiry. How can I help you today?"
(ハロー、フォックスエネルギーの佐藤です。ご用件を承ります)
その瞬間、電話の向こうの喧騒がピタリと止まった。
『Oh, thank God! A fluent English speaker! I've been trying to explain for ten minutes...』
(ああ、神様! 英語がペラペラの人がいた! 10分も説明しようとしていたのよ……)
"I deeply apologize for the inconvenience. Please rest assured, I will handle your gas activation process right away. First, may I have your full name and the address of your new residence?"
(ご不便をおかけして申し訳ありません。ご安心ください、すぐに開栓の手続きを進めます。まず、お名前と新住所を伺えますか?)
僕が繰り出す英語だけが響く。
凛も、榎木さんも僕の「英会話」を凝視している。
住所を聞き取り、カレンダーを確認し、最短の訪問日時を提示する。すべてが淀みなく、ビジネスライクに完了していく。
"Understood, Ms. Ellen. Our technician will visit you this Saturday between 2 and 4 PM. We will make sure you have hot water for your first night."
(承知いたしました、エレン様。土曜の14時から16時の間に伺います。入居初日の夜に、ちゃんとお湯が出るように手配しますよ)
『You're a lifesaver, Sato! Fox Energy is lucky to have you!』
(あなたは命の恩人よ、佐藤! フォックスエネルギーはあなたのような人がいて幸運ね!)
"Thank you for your kind words. We look forward to serving you. Have a wonderful stay in Narunagi. Goodbye."
(勿体ないお言葉です。鳴凪での滞在が素晴らしいものになりますように。失礼いたします)
完璧なクロージング。
受話器を置くと束の間の静寂が訪れた。
「…………」
隣のデスクで、凛と榎木さんがポカーンと口を開けて、僕を凝視している。
まるで、今まで喋っていたのが人間ではなく、未知の生命体だったと言わんばかりの表情だ。
「……何かな?」
僕が平静を装って声をかけると、ようやく榎木さんが我に返ったように震える声で言った。
「……佐藤くん今の、何語だ? 呪文か?」
「……英語ですよ。普通に」
僕は一階の立花さんに内線を入れる。
「さっきのエレンさんですが、地区担当の阿部さんのスケジュールに入れました。指示書だけ印刷お願いします」
受話器の向こうから、立花さんの弾んだ感謝の声が聞こえてくる。それを横で見守っていた凛が、キラキラとした瞳で僕に詰め寄ってきた。
「せ、先輩! 凄いです! 今のイングリッシュ、レベル高すぎです! さすが先輩、カナダ産!」
「……産地みたいになってるよ。輸入された豚肉じゃないんだから」
「……あ」
凛は誤魔化すようにノートを差し出してきた。
「さっきのイングリッシュ、ここに書いてください! フリガナ付きで!」
「ええ……」
榎木さんは「俺はちょっと腸内の平和を守りに……」と、絶妙に空気を読んで席を外していく。
(……これは、僕なりの意地悪な再プロポーズだ)
僕はデスクに手をつき、彼女の耳元に顔を寄せた。極めて滑らかに、そしていつもより、より優しいトーンで囁く。
"Will you walk with me and stay by my side forever?"
(僕と共に歩み、この先ずっと私の傍にいてくれるかな?)
凛は目を丸くして僕を見上げた。
「……? せ、先輩、今の……?」
「さぁね。聞き取れないなら、それまでだよ」
「もっかい! 先輩、もっかいゆっくり言ってください! 『ウィル』しか書けてません!」
「二度は言わないよ」
「えええ! ケチ! 意地悪! 佐藤先輩のケチ! 」
凛の抗議を心地よいBGMとして聞き流しながら、僕は静かに微笑んでいた。
まさかその数分後、僕自身が「二度と戻れないかもしれない現実」を突きつけられるとも知らずに。
社用スマートフォンの無機質なバイブレーションが踏みにじった。
ディスプレイに表示されたのは、直属の上司である本部、武藤さんの番号。
「……はい、佐藤です」
『今、大丈夫か?……周りに誰もいない所へ移動してくれ』
意味深な声に、僕は凛と視線を合わせ、軽く手を挙げて席を立った。
「大丈夫です。移動しました」
『佐藤、至急だ。――お前の現在の出向、3月末をもって解除とする。4月1日付で、「北米戦略エネルギー調達室」への帰任が決まった』
心臓が、鋭い警報を鳴らす。
「3月末……? あと3ヶ月しかありませんが。本来の任期は……」
『悠長なことは言ってられない。中東で戦争が始まる。イランが海峡を封鎖すれば、原油の輸入はストップだ。そうなれば、世界中の国が代わりの燃料として、アメリカの『シェールガス』に一斉に群がることになる。……早い者勝ちの争奪戦だ。お前はもともとガス部門で北米ルートに明るい。上層部は、お前を米国との交渉の最前線に投入することを決めた。世界中が買いに走る前に、追加の権益を強引にでももぎ取ってこい。
……これは内々示だ。正式な発令まで、口外は一切禁ずる。詳細はメールで送ったから、確認してくれ』
「……承知しました」
通話を終え、自席に戻る。
自席に戻ると、凛が何かを察したように不安げな瞳で僕を見つめていた。
僕はそれを無視して、添付されたメンバーリストを開く。
そこには「北米戦略エネルギー調達室」の暫定メンバーリストが並んでいる。
(……この面々、本気だな)
リストに並ぶのは、社内でも屈指の英語堪能者。
それもただ話せるだけではない、契約書の微細な表現一つで数億ドルの損失を防ぐリーガルのスペシャリストや、ガスの複雑なスワップ取引に精通した調達の鬼、そして巨大タンカーの航路を分刻みで管理する物流のプロたちだ。
(この「精鋭チーム」の中に、僕が調達戦略のコアとして組み込まれている……。つまり、僕が導き出す数式一つに、日本のエネルギー供給の命運が懸かっているということだ)
まさに栄誉だ。
僕が求めていた、最高のポジションだ。
かつての僕なら、この栄誉に歓喜していただろう。
平和な鳴凪の街で、彼女と歩むはずだった残された一年と3ヶ月。
それが、砂漠の向こうの地政学リスクという「全世界を巻き込んだ混沌」によって奪われていく。
(……三ヶ月。僕に許された猶予は、あとこれだけか)
僕はそれを無視して、添付されたメンバーリストを開く。
そこには「北米戦略エネルギー調達室」の暫定メンバーリストが並んでいる。
(……この面々、本気だな)
リストに並ぶのは、社内でも屈指の英語堪能者。
それもただ話せるだけではない、契約書の微細な表現一つで数億ドルの損失を防ぐリーガルのスペシャリストや、ガスの複雑なスワップ取引に精通した調達の鬼、そして巨大タンカーの航路を分刻みで管理する物流のプロたちだ。
(この「精鋭チーム」の中に、僕が調達戦略のコアとして組み込まれている……。つまり、僕が導き出す数式一つに、日本のエネルギー供給の命運が懸かっているということだ)
まさに栄誉だ。
僕が求めていた、最高のポジションだ。
かつての僕なら、この栄誉に歓喜していただろう。
平和な鳴凪の街で、彼女と歩むはずだった残された一年と3ヶ月。
それが、砂漠の向こうの地政学リスクという「全世界を巻き込んだ混沌」によって奪われていく。
(……三ヶ月。僕に許された猶予は、あとこれだけか)
嘘ではない。
だが、世界を救うための「精鋭チームの数式」と、彼女の隣に居続けるための「幸福の数式」は、今この瞬間、決定的に乖離してしまった。
(恋と任務の両立不可能説……)
(……このバグは、二十七歳の僕にはまだ、処理しきれそうにないな……)
本来、内々示は社内で漏らすことは厳禁だ。
だが、家族ならば話は別だ。
家族と相談した結果、やむを得ず辞退する人間だっている。
(……さっきの言葉は、冗談では済まなくなったな)
凛は一昨日、正式に僕の婚約者になった。
(伝えても大丈夫な、はずだ。……だが)
「ついてきてほしい」と即座に言えるほど、僕は楽観的ではなかった。
脳裏をよぎるのは、あの青い空とツインタワーの記憶。
世界の激動が日常を一瞬で焼き尽くす光景。
エネルギーの最前線、特に「戦時」に近い情勢下の北米に、彼女を連れて行くリスクを僕は計算し続けてしまう。
何より、鳴凪で育むはずだった一年以上の時間が、たった三ヶ月に圧縮された。
いくらバイタリティの塊である彼女でも、この速度には戸惑うだろう。
僕はExcelの別シートを立ち上げ、既存のタスクとは隔離された「凛への対応プロトコル」を入力し始めた。




