第107話:【濃密】二十七歳の甘えん坊
「ご馳走様でした。……大変素晴らしいおもてなしで御座いました。また改めて、結納の日取りを調整させていただきたく思います」
母が、再びとなる完璧な外交用会釈を繰り出す。
だがその声には、初対面の時のような「査察」の鋭さはもうなかった。
「ええ、こちらこそ! またよろしくお願いします!」
凛と佐倉家の面々が、千切れんばかりに手を振って見送る。
良家の両親が静かに挨拶を交わし、僕たちは嵐のような「佐倉家の温度」を後にして、タクシーへと乗り込んだ。
――タクシー車内。
車内は、先ほどまでの喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。窓の外、点々と流れる夜景を、母はただじっと見つめている。
「……巧。覚悟はしておきなさいよ」
不意に、母が夜景から目を離さずに呟いた。
「え……?」
「あなた海外勤務希望しているでしょう。現在、中東の情勢は極めて不透明……ホルムズ海峡の混乱、エネルギー地政学のリスクは増す一方よ」
母の横で、父もまた静かに、けれど重みのある口調で続けた。
「巧。その時が来たら、お前が最優先で守るべきは、凛さんの……家族の命だ。……いいな?」
それは、厳しい忠告であると同時に、父と母が「凛とあの家族」を、息子が命を懸けて守るに値する存在だと認めた、何よりの証拠だった。
僕は、鳴凪の潮の香りと、ケーキの甘い残香を胸に抱きながら、力強く頷いた。
「ああ、分かっているよ。父さん、母さん」
二十七歳の火を吹き消した僕は、再起動したように新たな責任を背負い始まるのだ。
翌日、10時。
空港。
「じゃあ、また日程は連絡するよ」
「ええ、早急に。ただし、次から突然のアポイントメントは受け付けませんからね」
「はは、分かっているよ。……本当に、ありがとう。母さん、父さん」
ゲートへ向かおうとする二人の背中を見送ろうとした、その時だった。
「はぁ、はぁ……! 間に合った、良かったです……!!」
「凛……?」
エスカレーターを駆け上がってきたのは、息を切らした凛だった。
母は足を止め、少しだけ驚いたようにサングラスをずらす。
「凛さん。……巧を、よろしくお願いしますね」
「よろしくしないといけないのは、私の方です……っ!」
凛の全力の回答に、母が「ふっ」と鼻で笑う。
それは拒絶ではなく、どこか親愛を含んだ呆れの色だった。
「あの、これ、うちの母が! お口に合うか分かりませんが……『いかなごのくぎ煮』のおにぎりです!あとぬか漬けも!」
凛が差し出した包みを見て、僕は耐えきれず吹き出しそうになった。
(こ、小女子……!)
出向直後、凛が小職や小生達に対して放ったあの「小女子宣言」。
今思えば、僕の論理的な世界が彼女によって狂いだしたのは、あの瞬間だった。
「巧? 何を笑っているのよ、失礼ね」
「い、いや……本部とのメールのやり取りを思い出して」
「ええー? なんですか、それ?」
凛にとっては日常の些細な一幕だったのかもしれない。
けれど、僕は確信している。
恐らくあの頃からすでに、僕は「予測不能」な君に惹かれていたのだ。
「まあいいわ、ありがとう。嬉しいわ。機内で頂くことにするわね」
母が包みを受け取ると、凛は次に父へと向き直った。
「それから、お父さんにはこれを!!」
「……おや?」
手渡されたのは、例のゆるキャラがアバンギャルドに魔改造され、転写されたマグカップ。
かつて凛が制作していたサンプル品の何からしい。
「前に作っていたものがあったので、プレゼントです!」
「……ああ、……素晴らしい。実にいいデザインだ。職場で使わせてもらうよ。また同僚たちに羨ましがられてしまうな」
父は、まるで国宝を授かったかのような真剣な眼差しでマグカップを見つめ、本当に嬉しそうに微笑んだ。
(父さん……。その『褒められる』の定義、職場で絶対にズレてるからね)
ゲートへと消えていく、呪いのバッグを揺らす父と、小女子を大切に抱えた母。
その後ろ姿は、僕が知るいつもの両親よりも、穏やかで幸せそうだった。
「……行っちゃいましたね、先輩」
「ああ。……さて、凛。僕たちの『新しいプロジェクト』も、いよいよ本格始動だ」
僕は隣で少し寂しそうに笑う彼女の手をしっかりと握りしめた。
展望デッキに立つと、潮風を孕んだ空気が二人の間を通り抜けていく。
「あの飛行機でしょうかね? お母さんたちの乗ってるの」
「そうだね。……無事に離陸したようだ」
滑走路の向こうを指差し、隣の凛に訪ねる。
「あの目の前の建物は何?ずっと気になってたんだけど……」
「ああ、あれは『こどもの国』ですよ。中にプラネタリウムがあったり、色んなイベントをやっていて……地元の家族連れの定番スポットです!蓮が小さい頃、よく行ってました!」
「へぇ……」
凛が少しだけいたずらっぽく僕の顔を覗き込む。
「こどもの国……行きたいですか?」
「僕は……こう見えて、大人だから……。今はまだ、管轄外(ターゲット外)だよ」
凛は「ふふっ」と笑い、僕の手をぎゅっと握りしめて言った。
「子どもができたら、一緒に入ってみましょう!」
「……そうだね。そのプランは、将来の最優先事項に登録しておこう」
空港を後にし、凛の車で僕のマンションへ向かう。
車内を流れる空気は、昨日までの緊張が嘘のように穏やかだった。
「おじゃまし……ひゃあっ!?」
玄関に入った瞬間、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「巧くん、どうしました? お母さんたちが帰って、寂しくなっちゃいましたか?」
ふふふ、と笑いながら、凛が僕の背中をポンポンと優しく撫でてくれる。
その手の温かさに、張り詰めていたリミッターが完全に外れた。
「……ベッド、連れていっていい?」
「え!! っ……ひゃあ!!」
驚く凛を、僕は「お姫様抱っこ」の要領で抱え上げる。
「く、靴! まだ靴脱いでる途中ですよぉ!」
そのまま寝室へ向かい、柔らかなマットの上に彼女をそっと降ろした。
「……巧くん?」
「いや……ここ最近、君の誕生日以来、ずっと急展開気味だったから。特にこの一週間は顔合わせの準備とかで……。ようやく二人きりになれた気がして」
凛は少し顔を赤くしながらも、楽しそうに笑った。
「ふふふ。そうですね。なんかずっとトップスピードでガンガンいってますねぇ、私たち。……私、先月まで彼氏すらいませんでしたもん。あははは!」
自虐的に笑う彼女の唇を、僕はキスで塞いだ。
「……ぁふっ」
理詰めで構築された僕の世界が、君の熱い吐息によって、再び心地よく溶かされていく。
二十七歳の新しい世界には、もう「孤独」という単語は存在しなかった。
「……もっと、ギュッてしますか?」
腕の中で凛が、少しだけ鼻声を混ぜて囁く。
潤んだ瞳が、至近距離で僕を捉えて離さない。
「……うん。……逃さないから」
「……あ、あの……」
「どうしたの?」
不意に凛が頬を赤くし、視線を泳がせた。
「……今日、あの消防士さんの下着じゃないです」
「あれはいいよ。……目の毒すぎる」
かつて僕の脳をショートさせたあの「勝負下着(物理的な意味で)」を思い出し、二人で小さく笑い声を漏らす。
だが、その笑い声はすぐに、互いの鼓動を確かめるような深い静寂へと溶けていった。
シーツの擦れる音と、重なり合う熱。
君の肌の温もりを感じるたびに、僕の中の「論理」は消失し、ただひたすらに「凛」という存在だけを熱量として処理していく。
「……巧くん……熱い……」
「僕もだ。……おかしく……なるくらい、君に夢中だよ」
ハイスペックでも何でもない、ただ一人の男としての渇望。
「巧くん……っ、そこ……」
不意に漏れた凛の甘い声に、僕の最後のリミッターが外れた。
鳴凪の海のような深く、激しい情動。
絡める指先から伝わる振動が、二人の境界線を曖昧にしていく。
自分でも驚くほど切実な声を漏らしながら、愛おしい感情のすべてを、その肌に刻み込んでいった。
「巧くん……あっ、わた、し、幸せです……」
「僕もだ。……この先、どんな事があっても、僕が君を幸せにすることを証明し続けるよ」
重なる鼓動の音だけが、静かな部屋に溶けていった。
「ふぅ……」
凛の溜め息のような呼吸が落ち着くのを待ちながら、背後からその柔らかな体を抱き寄せた。
肌に伝わる彼女の余熱が、先ほどまでの激しさを物語っている。
「巧くん……体力、有り余りすぎです……っ」
「……何、その言い方」
苦笑しながら腕に力を込めると、彼女はむき直って、僕の胸に顔をうずめてきた。
上目遣いで僕を窺う仕草が、反則なまでに可愛い。
「あの……『予行演習』は、いつからにしますか?」
「そうだね。年末の休みからなら、まとまった時間が取れると思うけど。どうかな?」
「そうですねぇ……。あ、でも、いきなり全部引っ越しちゃうのは大変かも……」
少し不安そうに眉を下げる彼女の額に、軽くキスを落とす。
「いいよ、全部じゃなくて。まずは少しずつ、君の『お気に入り』を僕の部屋に移してもらって……。徐々にここを、二人の場所にしていこう」
「少しずつ……。それなら、家族も寂しくないですね」
「僕にとっては、その『少しずつ』も待ちきれないくらいの最優先事項だけどね」
僕は再び、愛おしい熱を帯びた彼女を、壊れ物を扱うように、けれど確かな強さで抱きしめ直した。
「巧ちゃまは甘えん坊でちゅね」
「……っ!?」
「…………誰が甘えん坊だって?」
わざと少し低い声で聞き返す。
「……君がそんなこと言うから、僕の心拍数がまたイレギュラーな数値を叩き出してるんだけど。……責任、取ってくれるの?」
自分でも驚くほど甘えたがっている自覚はある。
けれど、それを言葉にするのはまだ「ハイスペックな僕」のプライドが邪魔をする。
そう囁きながら見つめると、凛は顔を林檎のように真っ赤にして、潤んだ瞳で僕をじっと見つめ返してきた。
その視線には、僕の理性を跡形もなく焼き切るほどの破壊力がある。
「……後悔しても知らないよ」
「そうなったら……また、お風呂まで連れてってください……」
僕は再び、吸い寄せられるように彼女の唇を塞いだ。
深く、深く、互いの吐息を飲み込み合うような口づけ。
先ほどよりもさらに甘く、より濃密な熱が、二人の間に再び火を灯し、僕はただ愛おしい未来の伴侶を、より深くその身に刻み込んでいった。




