第104話:【湿度】モーニングペロペロ
結局、全員がエラーを起こしたようなテンションのまま、なし崩し的に酒宴が再開された。
お父様は、もはや「結納金」という言葉を直視するのをやめたらしい。
「……一千万か。そうか、一千万……。佐藤くん、もう一杯いこう。この際だ、その一千万で鳴凪に新しい警察署でも建てないか? 私が署長で……」
「お父さん! 酔っ払いすぎ! 巧くん、そのスマホしまって! アプリの画面を見るだけでお母さんの血圧が上がるから!」
凛の制止も虚しく、お父様の「鳴凪防犯インフラ計画」は止まらない。
お父様は僕のコップに地酒を注ぎ足しながら、僕の肩をがっしりと掴んだ。
「佐藤くん、君は副署長だ。その頭脳で、鳴凪のサイバー犯罪を完全掌握してくれ。……よし、決まりだ。凛、お前は地域課な! 原付で町内をパトロールして、お年寄りに声をかけるんだ。巡回連絡だ!」
「なんで巧くんが副署長で、私が現場なのよ!勝手に仕事変えないで! 」
「……副署長、ですか。悪くないポジションですね」
「巧くんまで乗っからないで! その『副署長』は結納金でポストを買った汚職警官だからね!?」
凛の絶叫も、もはや深夜の佐倉家では心地よいBGMでしかなかった。
お父様と「一千万の有効活用(主に地域防犯)」について、そして「新署における予算配分」について午前二時過ぎまで議論させらた。
結局リビングのソファで、重厚な地響きのようないびきを聞きながら眠りにつくことになった。
(……僕は毎週佐倉家で、未来の署長と太郎のダブル重低音に挟まれて泊まる定めなのかな)
微睡む意識の中で、来週ここに突撃してくる我が家の「最高監査責任者(母)」の顔を思い浮かべた。
(……母がこの『新署建設プラン』を聞いたら、おそらく設計図から修正(赤入れ)を始めるだろうな……ふふ。なんか、どうにでもなる気がしてきたな……)
思考回路がオーバーフローした末に、僕は思いがけず、清々しいほどにふっきれていた。
「……はぁ、巧くん」
不意に、名前を呼ばれた気がした。
重い瞼を数ミリだけ持ち上げると、視界の端に薄暗いリビングの明かりを背負ったシルエットが映る。
「……ん?」
そこには、呆れたような、けれどそれ以上に困ったような慈愛に満ちた表情で、僕を見下ろす凛がいた。
彼女がそっと、僕の肩まで毛布をかけてくれるのがぼんやりと見えた。
「一千万なんて言い出して、お父さんたちをパニックにさせて……。本当に、このハイスペックポンコツ……」
文句を言いながらも、毛布の端を整える手つきは驚くほど優しい。
いつもの凛なら「なんですかこれ!」と怒鳴るところだろうが、寝静まった深夜の空気のせいか、その声は鳴凪の波音のように穏やかだった。
(……ああ、そうか。この初めてばかりの幸福を、僕は絶対に手放したくないんだな)
一千万の結納金も、新署建設のロジックも、今の僕にはもうどうでもよかった。
ただ、この柔らかい毛布の感触と、少しだけ鼻をくすぐる彼女の香りが、どんな資産価値よりも僕の心を幸福にさせてくれる。
「……おやすみ、巧くん」
額に、柔らかい体温がほんの一瞬だけ触れた気がした。
――そして、数時間後。
ペロ、ペロペロ。
……ん? 凛の愛情表現が、少々「過剰」ではないだろうか。
口の回りを激しく、音を立てて愛撫される。
湿り気の強度が明らかに上がっているし、なんなら舌が侵入して……いや、待て。
なんだか、とても「野性的」な香りがする。
ペロペロペロペロ!!
「ん、んん……? ……うわぁ!!」
跳ね起きるように目を開けると、そこにあったのは凛の美貌ではなく、視界いっぱいに広がる太郎の巨大な鼻面だった。
「太郎……っ! お前、いつからそこに……! うぇぇ、口の中まで……」
ハッハッハと満足げに尻尾をドタドタ鳴らす太郎。どうやら、ソファで眠る「副署長(予定)」の起床を、彼なりに全力で補佐してくれたらしい。
「あはは! 巧くん、おはよう! 太郎、お手柄!」
キッチンの向こうから、エプロン姿の凛が爆笑しながら顔を出した。
お父様のいびきは止まり、家の中には炊き立てのご飯と味噌汁の、暴力的に食欲をそそる香りが充満している。
「……今、太郎の舌が……」
「あははは! さっきご飯食べてたから臭いですよね! ほら、さっさとシャワー浴びて来てください。今日のご飯は、鯵の開きです!」
僕は口の水分を拭いながら、朝日を浴びて輝くリビングを見渡した。
(大丈夫……。まさか僕のように、最高監査責任者たる母が酔い潰れてソファで寝るなんて失態を犯すはずはない……はずだ)
◇
空港の到着ゲート。
そこには、瀬戸内ののどかな空気を一瞬で凍らせるような、ネイビーのセットアップに身を包んだ母・貴子の姿があった。
そしてその隣には、空気と同化しながらも隠しきれない気品を漂わせる父。
……だが、僕の視線は父の「手元」に釘付けになった。
「父さん。……その、右手に提げている物体は、何かな」
「ん? ああ、これか。例のアンケートで当たったバッグだよ。意外と使い勝手が良くてね。同僚からも『独創的なデザインだ』と、かなりの頻度で声をかけられるんだ」
そこには、凛が魔改造を施した例の「不気味なゆるキャラ」が、ドヤ顔でプリントされていた。
外交官の父が、鳴凪の狂気を東京のど真ん中で撒き散らしていた事実に、僕は眩暈を覚えた。
「それは……忖度だ、父さん。みんな、あなたの役職に怯えて、それを指摘できないだけだ。今すぐ、その『呪いの装備』を僕が預かるよ」
「何を言ってるんだい、巧。これは私の正当な当選品だ。……さあ、行こうか。あのアバンギャルドなダンス動画を企画した、素晴らしい運営者に会えるのが楽しみだよ」
(……お父さん、そのバッグだけは、玄関前で隠してくれ。それを制作した張本人に会った瞬間、どんな化学反応バグが起きるか、僕には予測不可能なんだ……)
母がiPadを小脇に抱え、獲物を狙う監査官の目で僕を見た。
母の中では、凛は「ユニークなクリエイター」であり、父の中では「独創的なバッグの製作者」だ。
だが、その正体は、母の寿命を百才、父の寿命をあと十一年に設定した、あの「アホ毛の電波塔」なのだ。
「母さん。……一応、伝えておくけど。佐倉家には『チワワ』はいません。いるのは、プロペラのような尻尾で暴風を巻き起こす、柴犬もどきの太郎だけです」
「何言ってるの、巧……。鳴凪に行ってから、やっぱり変よ?確かにカノンのような血統と、あの繊細なリズムを刻む子は、ここにはいないでしょうけれど……まあいいわ。逆にその太郎?とやらが気になるわ」
(((だ、駄目だ。完全に僕は動揺して、母さんの言う通りだ。変なことを口走っている……)))
タクシーに乗り込むと、母は車窓から見える穏やかな街並みを、まるで「品定め」するように眺め始めた。
「……中心部は中々最新鋭のマンションが建ってるわね。平地が多いから戸建てが多いかと思ったけれど。意外にこのエリアもマンションの需要があるわね」
「母さん。……マンション投資の市場調査をしに来たわけじゃないんだ。今日は、佐倉家との顔合わせで……」
「わかっているわよ。ただ、このエリアの地価と、供給されているレジデンスのクオリティを確認しているだけ。……ほら、あそこの『オーシャンビュー鳴凪・壱番館』かしら。あんなところに、大手デベロッパーの支店長クラスを送り込めば、この町の『格』も少しは変わるんじゃない?」
(…… 母さん、それはもう「侵攻」だよ。すでに佐倉家は警察組織から家計までひっくり返っているんだ)
母の頭脳は、常に「最適化」を求めている。
母にとって、のどかな鳴凪の風景は、まだ開発の余地がある「不完全なポートフォリオ」に過ぎないのだと言っているようだった。
「……巧。あそこかしら?誰か立ってるわよ、家の前で」
「え?(わざわざ外で出迎えをしてくれるのか?)」
母の指さす先、佐倉家の門の前。
……僕は絶句した。
そこには、直立不動で敬礼をしているお父様の姿があった。
しかもその隣では凛が、あの絶妙にダサい「鳴凪支店ジャンパー」を羽織って整列している。
「……あ、アバンギャルドね。巧」
母がiPadを握る手に力を込めた。
僕は震える手でドアを開ける。
父の手元では呪いのバッグが揺れ、門の前では署長(予定)が敬礼し、隣にはDXチーム(一人)が立っている。
鳴凪の野生と、南青山の監査。
ついに、回避不能の歴史的衝突が幕を開けた。




