第103話:【驚愕】最適化された結納金
佐倉家のリビングでは、いつになく厳かな雰囲気の中で「戦略会議」が幕を開けた。
卓上には、いつも通りの採れたての瑞々しい野菜と新鮮な刺身が並ぶ見事な食卓。だが今日ばかりは、皆が箸を動かす速度もどこか慎重だ。
「……それで、佐藤くん。ご両親は東京からどういう手段で来られるんだ? やはり飛行機か?」
お父様が、職務質問のような鋭い視線を向ける。
「ええ、間違いなく。彼らは移動時間に余計なリソースを割くタイプではありませんから。最短ルート、最速の手段を選択するはずです」
僕の淡々とした回答に、お父様は重々しく頷き、手元のメモ帳――警察官御用達の黒革の手帳に何かを書き込んだ。
「そうか。……よし、わかった。すぐに所轄の警備課に連絡だ。一応、自宅周辺の『警備実施要領』を作成しておく必要があるな」
「はぁ!? お父さん、何を言い出すのよ!」
凛が素っ頓狂な声を上げるが、お父様の目は本気だった。
「何を言っている。外交官とその夫人が来るんだぞ? いわば要人(VIP)の来訪だ。不測の事態があってからでは遅い。不審者のチェック、避難経路の確保、それから周辺車両の通行制限……。警備課が大規模イベントの時に作るマニュアル一式、私が叩き台を作って署に回す!」
「……あの、お父様。僕の両親はあくまで一般人ですので。公務ではありませんし、機動隊の出動は明らかにオーバースペックです……」
冷静にブレーキをかける。
南青山の両親が鳴凪に降り立った瞬間、赤色灯の列に迎えられるという最悪の不具合だけは、なんとしても回避しなければならない。
「お父さん、落ち着いて! 巧くんのご両親を現行犯逮捕するつもり!?」
「逮捕じゃない、警護だ! 鳴凪の治安維持のプライドにかけて、お迎えするんだ!」
そんな騒ぎをどこ吹く風で、お母様だけは真っ赤なフルーツトマトを吟味しながら、静かに、だが確実に「おもてなしの弾薬庫」を補充し始めていた。
「警備なんていいから、お父さんは床のワックスがけでもしてなさい。私はこれから、町一番の腕利き猟師さんにジビエの手配を頼んでくるわ。……外交官の舌に、鳴凪の『野生』を叩き込んであげるんだから」
「……あの、お父様、お母様」
過熱する二人の言葉を遮るように、僕は居住まいを正した。
「母は『クーポンを使いたい』などと不条理なことを申しておりますが……。僕としては、この家でいつもいただいているものを、そのまま食べてほしいと思っています」
「え……?」
お母様が、手に持っていたトマトを置いて僕を見た。
「あの、鯛を……先週いただいた鯛が、本当に驚くほど美味しくて。市場の流通価格や鮮度のデータを超越した、瀬戸内の天然物は違うなと痛感しました。あと、いつも出してくださる煮物も、本当に美味しいです。お米も、全部。この家で食べたものは全て……いえ、もしかしたら、この家で皆さんと一緒に食べたから、これほど美味しく感じたのかもしれませんが」
自分でも驚くほど、論理的ではない言葉が口から出た。
「この温かいご馳走でもてなしてくれるご家族との縁を一過性の物にしたくない。だから……僕は凛さんと結婚したいと、より思ったんだと思います」
普段の僕なら「雰囲気による味覚の補正効果」と片付ける現象を、今はただ、ありのままの事実として伝えたいと思った。
「……ですから、背伸びをしたおもてなしではなく、僕が感じた幸福感を……鳴凪の佐倉家の味を、母たちにも知ってほしいんです。それが、僕にとって最も『納得感のある』顔合わせの形ですので」
自らの口から出た言葉は、これまでの人生で積み上げてきたどんなロジカルな結論よりも、真っ直ぐで、混じりけのない「本音」だった。
一瞬、佐倉家のリビングが完全な静寂に包まれた。
お父様は真っ直に僕を見つめ、お母さんは目元を潤ませて両手を頬に当てている。
そして隣では、凛が顔を真っ赤にして、持っていた箸を食卓の上にポロリと落とした。
「……巧くん。それ、今、このタイミングで言うことですか!?」
「事実を、最も効果的なタイミングで伝えたまでだ。……何か、不都合でもあっただろうか?」
僕は動揺を隠すように鯛のお刺身を口に含むが、自分でも耳の裏まで熱くなっているのが分かった。
「……あ、あはは! まったく、佐藤くんは本当に……」
お父さんが、照れ隠しのようにガシガシと頭をかいた。
警備計画なんていう物騒な言葉で武装していたお父さんの肩から、すっと力が抜けていく。
「よし。分かった!佐藤くん、君のその言葉、しかと受理した。もう警備課なんて呼ばない。……一人の男として、君の親御さんと正面から向き合おうじゃないか」
「……ええ。私も、最高の『いつものご飯』を作るわね。佐藤さんが好きになってくれた、この家の味を」
お母様が、誇らしげに胸を張る。
それは、南青山の高級フレンチにも負けない、鳴凪の台所を預かる母としての、最高の宣戦布告だった。
「……ワン!(よく言った!)」
太郎が今日一番の力強い声で吠えた。尻尾の回転速度は、もはやヘリコプターの離陸寸前だ。
僕は、隣で真っ赤な顔をして俯いている凛の手を、食卓の下でそっと握った。
少しだけ震えているその手の温かさが、これから始まる「歴史的衝突」を乗り越えるための、何よりのエネルギー源になるような気がした。
そんな「いい話」の余韻に包まれる中、部屋の隅っこで体育座りをしていた蓮くんだけは違った。
彼は手元のスイッチの画面から一切目を離さず、激しくボタンを連打しながら、誰にともなく、だがはっきりと聞こえる音量で毒づいた。
「……チッ。佐藤、なんだよ、今の……。キモすぎんだろ……」
その声は、感動に浸る家族への露骨な抗議だった。
画面の中では、僕が贈賄したゲームソフトのキャラクターが派手なエフェクトと共に勝利を収めている。
「プロポーズなら外でやれよ……。メシが不味くなるっつーの。……っていうか、結婚してもこのゲーム機、絶対に返さねーからな。これは俺の正当な所有権だかんな……!」
顔は真っ赤。
たぶん、彼なりに姉の幸せや僕の真剣さに当てられて、どう反応していいか分からず、精一杯の悪態で照れを隠しているのだろう。
(ガキだな……、いつか君にもその時がくるんだよ)
「……受理した。そのソフトのライセンスは、君に無期限で供与する」
僕が冷静に返すと、「……うるせーよ! 集中してんだから話しかけんな!」とさらに激しい連打音が響いた。
警察官の父、料理人の母、照れ屋な弟、そしてプロペラ尻尾の犬。
このバラバラで、けれど強力なポートフォリオを持つ佐倉家に、来週、我が家の「最強の監査官」が突撃してくる。
お父さんの受理宣言とお母さんの決意、そして凛の温かな手の感触。
リビングがそんな「いい話」の余韻に包まれる中、僕はもう一つ、避けては通れない「重要課題」を切り出した。
「お父様、お母様。……もう一つ、ご相談というか、仕様の確認をさせていただきたいのですが」
「ん? なんだい、佐藤くん」
「この瀬戸内エリアの慣習を調査したところ、結納金の約一割をその場でお返しする『おため』という文化があると」
僕の言葉に、お父さんは「ああ」と苦笑いして手を振った。
「なんだ、そんなことか。今はもう令和だし、今時の子たちのやり方でいいよ。うちはそんなの気にしないから」
「そうよ、佐藤さん。そんな堅苦しい形式なんて抜きにしましょう?」
お母さんも優しく微笑む。だが、僕はあえて首を横に振った。
「いえ、そういう伝統的なプロセスを軽んじることは、将来的に両家の間で軋轢を生む火種になりかねません。それに僕の両親も、おそらく『佐藤家として恥じない、世間一般的な礼節』を踏みたいと考えているはずです」
「……ええ。まあ、佐藤くんがそこまで言うなら、気持ちだけでも合わせようか。……君が言っているのは『おため返し』の準備のことだね?」
お父様は「しっかりした青年だ」と感心したように頷いた。
「では、顔合わせ後の結納までに、お返しとして百万円をご用意願います」
……一瞬、リビングから全ての音が消えた。
お父様の手から箸が落ちる。
「ひゃ、百万……っ!? 佐藤くん、今、百万と言ったか!?」
「はい。百万円です。それが最も端数の出ない、美しい返礼の形になるかと」
「な、何を言ってるのよ! そんな大金、すぐに用意できるようなもんじゃ……」
お母様が絶句し、凛が真っ青な顔で僕の肩を揺さぶる。
「ちょっと巧くん! 百万って何!? 『一割』を返すのが慣習なんでしょ? なんでそんな額になるのよ!」
「……? 計算が合いませんか? 『おため返し』が一割であるという前提条件に基づき、僕が用意する結納金から逆算したのですが」
僕は不思議そうに、スマホの口座アプリを開きちゃぶ台に置いた。
「僕が持参する結納金は、一千万円です」
「い……一千万円……!?」
お父様の絶叫が、静かな鳴凪の夜に木霊した。
警察官として数々の事件現場を見てきた父の目が、かつてないほど泳いでいる。
「本来なら競馬の配当の六千万円全額お渡ししたかったのですが……流石に六百万のご用意は申し上げにくいので、この額に。したがって、その一割である百万円をご用意いただくのが、このプロトコルにおける正解かと」
「さ、佐藤くん……。君は、結納に一千万も持ってくるというのか……?」
「はい。凛さんの価値を考えれば、これでも保守的な見積もりなのですが……。何か、計算にミスがありましたか?」
「ミスがあるのは巧くんの金銭感覚だよ!!!結婚詐欺みたいな事になってるよ!!!」
「そ、、そうよ!凛言うとおり、窓口で引くときに行員さんになんて説明したら……。おため返しになんて言ったらその場で通報されるわ!」
凛とお母様のツッコミが炸裂する中、部屋の隅では蓮くんが「……一千万。一千万あれば、あのガチャ何回回せるんだ……」と、白目を剥きながらブツブツと呟いていた。
僕が良かれと思って計算した「誠意の逆算」は、佐倉家の家計に、未曾有の大混乱を招いたのだった。




