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【連載版】悪役令嬢ですが、今日は私が王国を救います――ただし婚約破棄の条件付きで  作者:
第二章:宮廷の真実

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第9話:冬の女王の凱旋、あるいは幕引きの序曲

 静寂。

 それが、燃え盛る王都に訪れた最初の「異変」だった。


 数秒前まで、そこには地獄の喧騒があった。魔獣の咆哮、崩れ落ちる建物の音、そして死を覚悟した人々の悲鳴。

 だが、月光を背負い、一人の女性が天から舞い降りたその瞬間、世界は凍りついたかのように音を失った。


 宙から舞い落ちる氷晶は、火の粉を吸い込み、灼熱の熱気を清冽な冷気へと塗り替えていく。

 教会の前で立ち竦んでいた避難民たちは、自分たちの前に立つ「背中」を、ただ呆然と見つめていた。

 かつて誰もが見知っていた、燃えるような赤髪。けれど、その身に纏うのは公爵令嬢の華美なドレスではなく、光の粒子を織り込んだような、神聖にして不可侵な純白の法衣。


「……グルルッ……ガァァァッ!」


 三つの首を持つ巨犬、ケルベロスが殺意を剥き出しにして唸り声を上げる。

 その巨大な爪が石畳を砕き、中央の首が再び灼熱の業火を溜め込み始めた。先ほどまで、騎士団を一瞬で炭化させていた「地獄の炎」だ。


「エレナ様! 逃げてください!」


 瓦礫に埋もれていた騎士の一人が、喉を枯らして叫ぶ。

 だが、エレナは微動だにしない。

 彼女はただ、翡翠色の瞳に虚無的なまでの静穏を湛え、迫りくる死の奔流を冷ややかに見据えていた。


「逃げる? ……なぜ、私がそんな無駄な労力を使わねばならないのかしら」


 その声は、小さくも戦場全体に染み渡るほど透き通っていた。

 エレナが右手を、ゆったりと差し出す。

 瞬間、ケルベロスの口から放たれた極大の火柱が、彼女の数歩前で、目に見えない壁に衝突したかのように霧散した。


 ――いいえ。霧散したのではない。

 「炎」という現象そのものが、その瞬間に「凍結」したのだ。


 赤く揺らめいていた火柱が、一瞬にして朱色の氷の彫刻へと変貌し、カラカラと音を立てて砕け散る。

 物理法則を根底から否定する、神の領域の魔力。


「……私の前で『熱』を語るのは、一万年早いわ」


 エレナが指先を小さく弾いた。

 【万物凍結ワールド・エンド・フリーズ】。

 

 バキバキバキッ!!

 

 大地から巨大な氷の棘が噴き上がり、ケルベロスの三つの首を同時に貫いた。

 ランクS魔獣。一国を滅ぼしかねないその怪物が、悲鳴を上げることすら許されず、一瞬にして巨大な氷の塊へと封じ込められる。

 

 氷の中に閉じ込められたケルベロスの瞳には、死の直前の「理解不能」という名の恐怖だけが焼き付いていた。


「な……な……」


 生き残った騎士たち、そして教会の避難民たちが、震える膝をついた。

 それは救われたことへの安堵ではない。

 目の前にいる存在が、自分たちと同じ人間であるという事実を、本能が拒絶したことによる「畏怖」だった。


 そこへ、背後から銀色の残像が走った。

 銀狼シルが、氷漬けになった魔獣の残骸を軽やかに踏みつけ、エレナの隣に跪く。

 その神聖な獣の姿を見て、人々は確信した。

 彼女は、自分たちが追い出した「悪役令嬢」などではない。

 この地を統べるために降臨した、真の「冬の女王」なのだと。


 ***


 一方、王宮の最上階。

 魔法投影機に映し出されたその光景を、国王アルベルト、そして王太子ジークフルトは、言葉を失って凝視していた。


「……ああ……ああ……」


 ジークフルトの口から、魂が抜けたような呻きが漏れる。

 画面の中で、エレナが軽く手を振るだけで、王都を埋め尽くしていた魔獣の群れが次々と氷晶へと変わっていく。

 彼が「無能」と断じ、「醜い」と蔑んだ女が。

 自分を、そしてこの国を支えるために、どれほど巨大な「暴力」を自制心で押さえ込んでいたのか。


 彼女は、自分を殺そうと思えば、いつでも、指先一つでできたのだ。

 それをしなかったのは、彼女が慈悲深かったからではない。

 彼女の「誇り」が、そんな無価値な男に力を振るうことさえ、汚らわしいと禁じていただけなのだ。


「陛下! 殿下! エレナ様が……エレナ様がこちらへ向かっておられます!」


 伝令の兵士が転がり込んでくる。

 ジークフルトの心臓が、跳ね上がった。


「そ、そうか! やはり、エレナは私を……私を助けに来てくれたのか! あんなに冷たくされても、まだ婚約者としての情が残っていたのだな!」


 彼の瞳に、浅ましい希望の光が宿る。

 彼は立ち上がり、乱れた衣服を整えようとした。

 

「そうだ、まだ間に合う! 彼女に謝罪し、王妃の座を改めて約束すれば、彼女はこの力を再び私のために使うはずだ! ソフィアなどどうでもいい! あの力を手に入れれば、我が王国は大陸最強の……!」


「――おめでたい頭をしておられるのね。ジークフルト殿下」


 その声は、部屋の入り口から響いたのではない。

 密閉されていたはずの部屋の中に、直接、冷気が染み出すように現れた。


 ジークフルトが振り返ると、そこには、テラスの窓枠に腰掛け、夜風に髪をなびかせているエレナの姿があった。

 

「エレナ! ああ、エレナ! よく来てくれた! 済まなかった、今までのことはすべて私の間違いだった! あの男爵令嬢にたぶらかされていたのだ! 今すぐ彼女を地下牢に叩き込み、君との婚約を元通りに……」


 ジークフルトが這いつくばるようにして、エレナの足元に歩み寄ろうとする。

 だが。


 ガウッ……!


 エレナの影から現れた銀狼が、鋭い牙を剥き、低く唸った。

 その圧倒的な捕食者の気配に、ジークフルトは悲鳴を上げて尻もちをつく。


「……私の名を気安く呼ばないでくださる? 耳が汚れるわ」


 エレナは窓枠から静かに降り立ち、大理石の床を踏み締めた。

 彼女が歩くたび、床に美しい氷の華が咲いていく。


「エレナ……様。リヒテンベルク公爵家の……」


 国王アルベルトが、震える声で呼びかける。

 だがエレナは、かつての臣下としての礼など、微塵も見せなかった。


「アルベルト陛下。建国王が遺した『システムの真実』……拝見いたしましたわ」


 その言葉に、アルベルトの顔が土気色を通り越して、死人のように青ざめた。


「……気づいて……いたのか。あの子たちが、生贄いけにえだったことに……」


「ええ。この国が、一人の娘の尊厳を削り、憎悪を煽ることで成り立っていたという醜悪な真実。……あなた方は、私たちが受けてきた苦痛の上に、あぐらをかいて平和を享受していたのね」


 エレナの周囲の冷気が、さらに鋭さを増す。

 ジークフルトは、何が起きているのか理解できず、ただガタガタと震えながら叫んだ。


「な、何の話だ! そんなことはどうでもいい! エレナ、早くこの瘴気を消してくれ! 部屋が寒いんだ! お前の魔法で、元通りの快適な王宮に……!」


「……本当に、救いようのない方」


 エレナは、虫でも見るような軽蔑の眼差しをジークフルトに向けた。


「私はあなたを助けに来たのではありません。……ただ、私の遺した『氷華の檻』が破られた責任を感じて、後片付けをしに来ただけですわ。……そして、あなた方との契約を、最終確認しに来たのです」


 エレナが魔法誓約書を虚空に呼び出した。

 そこには、ジークフルトが自らの血でサインした「王家は私に関与しない」という文言が刻まれている。


「この誓約がある限り、私への『助力の要請』は不可能。……つまり、私がこの国の瘴気を払おうが、魔獣を狩ろうが、それは私の『趣味』で行うことであり、あなた方にその恩恵を享受する権利はないということ。……理解できまして?」


「な、何を言って……! 私は王太子だぞ! 命令だ、エレナ! 今すぐこの国を救え!」


 ジークフルトが逆上し、エレナに手を伸ばそうとした。

 

 瞬間。

 

 カキィィィィンッ!!

 

 彼の指先がエレナに触れる寸前、ジークフルトの腕が肘から先まで氷漬けになった。


「あ……が、あ、ああぁぁぁぁぁッ!!」


「忘れたのですか? 私に触れようとすれば、それは『助力の強要』となり、契約の代償として呪いが発動すると」


 エレナは、のたうち回るジークフルトを冷淡に見下ろした。

 その痛みは、肉体的なもの以上に、魂を削る契約の呪縛だ。


「……私は、この国の民を救うことに決めました。……彼らは、あなた方のシステムの被害者であっても、共犯者ではないからです」


 エレナは、そのまま国王と王太子に背を向けた。


「あなたたちは、その『空っぽの王座』で、凍えながら見ていなさい。……私が、あなたたちのいない『新しい王国』を、どこに築くのかを」


「ま、待ってくれ! 見捨てないでくれ! エレナ!」


 アルベルト王の叫びも、ジークフルトの泣き声も。

 エレナは、一度も振り返ることなく、再び夜空へと舞い上がった。


 王宮のバルコニーから見下ろす王都は、すでにエレナの魔力によって、幻想的な氷の街へと生まれ変わりつつあった。

 瘴気は消え、魔獣は全滅し、人々は空から降る黄金の雪を、神の祝福として見上げている。


 そこには、もはや「王家」の居場所など、どこにも残されていなかった。


 ***


 王宮の影で、その様子を隠れて見ていたソフィアは、膝を震わせて立ち尽くしていた。

 

(……嘘よ。あんなの、人間じゃないわ……。どうして、どうしてあんなに綺麗なの……!?)

 

 彼女がどんなに画策し、どんなに「愛」を演じても。

 エレナが放つ、絶対的な「誇り」という名の光には、一分いちぶの隙もなかった。

 ソフィアは、自分が手に入れようとしていた王妃の座が、エレナという太陽が照らしていたからこそ輝いて見えた「ただの石ころ」に過ぎなかったことを、ようやく悟った。


 そして、ソフィアの背後に、冷たい影が差す。

 

「……ソフィア様。陛下がお呼びです」


 それは、先ほどまでエレナの強さに圧倒されていた、死刑執行人のような冷酷な瞳をした騎士たちだった。


「ひ……っ!」


 偽りの聖女の、本当の地獄が、ここから始まる。

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