第10話:氷華の旅立ち、あるいは神域の建国
王都の夜明けは、かつてないほどに静謐だった。
街中を埋め尽くしていた魔獣の死骸は、エレナの放った魔力によって塵一つ残さず氷晶へと変わり、朝日を浴びてダイヤモンドのように輝きながら空へと溶けていく。
だが、その美しさは同時に、この国の「終わり」を告げる死装束でもあった。
「……行くのか。エレナ」
王宮の正門。
這いつくばるようにして現れたジークフルトが、枯れた声で問いかけた。
彼の右腕は未だに肘から先が氷に閉ざされ、解ける気配はない。それは彼がエレナとの「契約」を破ろうとした代償であり、今の彼に残された唯一の「エレナとの繋がり」という皮肉な呪いだった。
エレナは、銀狼シルの背に揺られながら、一度だけ振り返った。
その瞳には、もはや憎しみすら宿っていない。ただ、遠くの景色を眺めるような、透徹した無関心があるだけだ。
「ええ。ここはもう、私の居場所ではありませんもの。……そして、あなたたちが守るべき場所でもなくなるでしょうね」
「待ってくれ! 頼む! 民はどうなる! 私一人の過ちのために、この国を見捨てないでくれ!」
ジークフルトの叫びに、エレナの唇が微かに弧を描く。
「勘違いしないで。私は『見捨てて』などいませんわ。……ただ、『選択の自由』を与えただけです」
エレナが指し示した先――。
王宮の門前には、数千、数万という王都の民が集まっていた。
彼らは武器を手に持っていない。持っているのは、僅かな家財道具を詰めた袋と、そして強い意志を宿した瞳だ。
「……俺たちは、エレナ様についていく!」
「王家は見捨てたが、エレナ様は俺たちを救ってくれた!」
「氷の女王様の元へ! あそこなら、本当の平和があるはずだ!」
地を揺るがすような民衆の唱和。
ジークフルトの顔から、血の気が引いていく。
国とは、土地ではない。そこに住まう「人」こそが国なのだ。
エレナは王位を奪うなどという野暮な真似はしなかった。ただ、国民たちの「心」という、国家の根幹を根こそぎ奪い去ったのだ。
「……さあ、行きましょう。新しい時代へ」
エレナが右手を掲げると、空から黄金の光の道が降り注ぎ、北の果てへと続いていく。
それは、伝説の『導きの塔』を越えた先にある、人跡未踏の地への招待状だった。
***
数日後。
エレナ一行が辿り着いたのは、万年雪に閉ざされた峻険な山々に囲まれた、巨大なカルデラ湖の跡地だった。
そこはかつて、建国王が「真の理想郷」として隠蔽した、高濃度のマナが霧となって漂う神聖な領域。
「シル、ここね」
エレナがシルの背から降り、大地に手を触れる。
彼女の脳裏には、塔で継承した『真理の知識』が奔流となって駆け巡っていた。
【事象再定義:術式展開】
対象:半径10kmの空間
基底言語:古代リヒテンベルク魔導言語
目的:居住空間の創造および永続的結界の構築
エレナの瞳が、翡翠色から絶対的な白銀へと変わる。
彼女の周囲で、幾何学的な魔法陣が幾層にも重なり、巨大な曼荼羅となって天を覆った。
「――我が誇りを糧に。我が意志を礎に。ここに、凍てつく楽園を具現せよ」
E = mc²
(※質量はエネルギーに、エネルギーは秩序ある構造へと再編される)
轟音と共に、大地が脈動した。
湖の底から、透き通った青い氷で作られた巨大な「城」が、バベルの塔のように天を突いてそびえ立つ。
周囲の山々はエレナの魔力と共鳴し、外敵を一切寄せ付けない『絶対零度の防壁』へと変貌した。
続いて、広大な平原に氷と魔石で構成された美しい街並みが、まるで開花するように次々と形成されていく。
ただの氷ではない。それはエレナの魔力が物質化した、永久に溶けることのない『聖氷石』。
「……これが、私の王国。――【氷華帝国エル・リヒテン】」
ついてきた民たちは、その神業とも言える光景を前に、涙を流して跪いた。
彼らは理解した。自分たちは今、歴史が塗り替えられる瞬間に立ち会っているのだと。
***
一方、民の大半と守護の要を失った旧王国。
「……そんな……。嘘だと言ってくれ……」
王宮の会議室。国王アルベルトは、近隣諸国から届いた書簡の山を前に、椅子から転げ落ちた。
エレナが去ったという情報は、またたく間に大陸全土を駆け巡った。
『守護の盾』を自ら壊した愚かな王国。
周辺国にとって、それは「どうぞ侵略してください」と言っているに等しかった。
かつて同盟を結んでいた帝国は軍を動かし始め、東の軍事国家は国境付近に布陣を完了させている。
「陛下! 国庫が……国庫が底を突きました! エレナ様が個人的に融通していたリヒテンベルク公爵家の資産がすべて引き上げられ、我が国の通貨価値は紙屑同然です!」
「……ああ……。ああああ……!」
さらに追い打ちをかけるように、扉が乱暴に開かれた。
現れたのは、ボロボロの罪人服を着せられたソフィアだった。
「離しなさい! 私は聖女よ! ジーク様、助けて! ジーク様ぁ!」
引きずられてきた彼女の首には、魔力を封じる重い枷がはめられている。
ジークフルトは、もはや彼女を見ることさえなかった。
「……ソフィア・ローラン。貴様を、国家を欺いた罪、および魔物招慰の疑いで、鉱山での終身刑に処す」
冷淡なジークフルトの宣告。
だが、ソフィアは狂ったように笑い出した。
「あはは……! 鉱山? もう鉱山なんて残ってないわよ! 労働者たちはみんな、エレナ様のところへ逃げ出したもの! この国に残っているのは、あなたたちみたいな、何もしないで威張っているだけのゴミクズだけよ!」
「黙れ! 連れて行け!」
叫び声を上げながら引きずられていくソフィア。
だが、彼女の言葉は、その場にいた貴族たち全員の胸に、残酷な真実として突き刺さった。
彼らが「当然のもの」として享受していた贅沢。
彼らが「無能」と見下していたエレナが、一人で支えていた世界の重み。
ジークフルトは、自分の感覚を失った右腕を見つめた。
氷の冷たさは、じわじわと彼の肩へ、そして心臓へと浸食している。
(……済まなかった、エレナ……。どうか、戻ってきてくれ……。お前がいない世界が、これほどまでに暗いなんて……)
だが、その祈りが届くことは二度とない。
***
エル・リヒテンの玉座の間。
エレナは、氷の玉座に深く腰掛けていた。
彼女の隣には、側近として選ばれたかつての優秀な文官や騎士たちが、誇らしげに控えている。
「エレナ陛下。周辺諸国から、我が国への『親善訪問』の要請が殺到しております。……特に、帝国は我が国を『大陸の新たな中心』として認めるとの密書を送ってきました」
「……ふふ。現金なものね」
エレナは、翡翠色の瞳を細めた。
彼女の手元には、かつての王家が必死に守ろうとしていた「偽りの平和」の残骸など、もう何一つ残っていない。
彼女が作り出したのは、誰もが自分自身の誇りを持って生きられる、新しい理。
「いいわ。すべて受け入れましょう。……ただし、旧王国の人間だけは、一歩たりともこの神域へ入れることは許しません」
エレナは窓の外に広がる、輝かしい氷の街を見つめた。
「私は『悪役令嬢』として捨てられた。……ならば、この世で最も美しく、最も残酷な『女王』として、永遠に君臨してあげるわ」
銀狼シルの遠吠えが、透き通った冬の空にどこまでも響き渡った。
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