第8話:審判の咆哮と、忘れ去られた真実
地獄の門が開く音とは、これほどまでに乾き、そして冷酷なものだっただろうか。
ドォォォォン……ッ!
王都北門が、巨大な質量によって紙細工のように押し潰された。
立ち込める土煙を切り裂き、現れたのは三つの首を持つ巨犬――ランクS魔獣『ケルベロス』。その六つの瞳は血のように赤く、吐き出す息は周囲の石畳を瞬時に黒く焦がしていく。
かつてエレナが維持していた【氷華の檻】。その残滓が消え失せた隙間を突くように、魔獣たちの王が王都という「温床」へ足を踏み入れた。
「ひ……っ、ひいいぃぃ! 化け物だ! 化け物が出たぞぉぉ!」
逃げ惑う市民たちの叫びが、夜の静寂を無惨に引き裂く。
王都を守るはずの騎士団は、そのあまりの威圧感に足を竦ませていた。彼らが持つ銀の剣は、エレナが施していた「聖属性の付与」が失われた今、ただの重い鉄の塊に過ぎない。ケルベロスの硬質な皮膚を傷つけることすら叶わず、騎士たちは一人、また一人と紅蓮の炎に呑み込まれていく。
「退くな! 退くことは許されん! 王太子殿下がお守りくださるのだ! 聖女ソフィア様が癒やしてくださるはずだ!」
中隊長が必死に鼓舞するが、その声は空虚に響くだけだった。
彼らが縋る「希望」の象徴であるジークフルトとソフィアは、今、この最前線から最も遠い場所で、震えていたのだから。
***
王宮、最上階の避難の間。
「ジーク様、怖い……怖いですわ! あんな恐ろしい叫び声、ソフィア、もう耐えられません!」
ソフィアは豪華な寝椅子の隅で丸まり、ジークフルトの腕にしがみついて泣き喚いていた。
その顔に、かつて多くの男たちを虜にした可憐な微笑みはない。涙で化粧は崩れ、鼻を啜る姿は、ただの醜い現実逃避者に過ぎなかった。
「……黙れ。静かにしろ」
ジークフルトの声は、ひどく掠れていた。
彼の目には、先ほどバルコニーから見た「火の海」が焼き付いている。
王都の北側が、燃えている。
自分が「愛」のために、そして「窮屈な義務からの解放」のために切り捨てた女――エレナが、たった一人で抑え込んでいた絶望が、今、津波となって自分たちを飲み込もうとしている。
「ソフィア、お前の力はどうした……。聖女の力で、あの化け物を追い払うと言ったではないか。お前の祈りが国を救うと、そう信じて私はエレナを……!」
「そんなの、嘘に決まっていますわ!」
逆上したソフィアが叫び返した。その言葉に、ジークフルトの思考が停止する。
「ソフィアは、ただジーク様に可愛がられたかっただけですもの! あんな化け物と戦うなんて、そんなの、エレナ様みたいな可愛げのない女がやればいいことですわ! どうしてあの方はいないの!? どうして勝手にいなくなってしまったの!? あの人がいれば、ソフィアはこんなに怖い思いをしなくて済んだのに!」
「……何、だと?」
ジークフルトの体から、力が抜けていく。
エレナが勝手にいなくなった?
追い出したのは、他でもない自分だ。
彼女を「悪女」と決めつけ、人々の前で恥辱を与え、二度と関わるなという魔法誓約まで結ばせたのは、自分だ。
――エレナなら、今頃。
不意に、脳裏に浮かぶのは、自分を冷ややかに見下ろすエレナの瞳。
彼女なら、今頃は冷静に戦況を分析し、魔導師団を指揮し、自ら先頭に立ってあのケルベロスを氷漬けにしていただろう。
彼女がいた頃、自分は一度も「恐怖」を感じたことがなかった。
それは自分が勇敢だったからではない。
彼女という、圧倒的な強さと献身が、自分の周囲を絶対的な「聖域」に変えていたからなのだ。
「ああ……ああぁぁぁッ!」
ジークフルトは頭を抱えて、床に蹲った。
遅すぎた後悔が、毒のように全身を回っていく。
***
一方その頃。
遥か北の地、『導きの塔』の最上階。
エレナは、現世の喧騒が嘘のように静かな、白銀の書庫にいた。
壁一面を埋め尽くすのは、紙ではなく「記憶の結晶」でできた輝く記録媒体。
彼女は、その中心に浮かぶ一冊の魔導書を手に取っていた。
それは建国王が残した、この王国の「真の成り立ち」を記した禁断の書。
「……信じられない。これが、リヒテンベルクの……悪役令嬢の正体なの?」
エレナの瞳が驚愕に揺れる。
書に記されていたのは、あまりにも残酷な「システムの真実」だった。
千年前、建国王はこの国を築く際、一つの呪いをかけた。
王国の繁栄と平和を維持するためには、莫大な「負の感情」を浄化するための触媒が必要だった。
王族が「光」として君臨するためには、誰かがその影で「闇」を、すなわち国民や王族からの憎悪を一身に受け、それを魔力へと変換し、結界の糧にしなければならなかった。
その触媒こそが、代々のリヒテンベルク公爵家の娘たち。
彼女たちは、幼い頃から完璧であることを強要される。
そして、成長するにつれ、周囲から疎まれ、嫉妬され、理不尽に虐げられるように、術式によって運命が誘導される。
世間が彼女たちを「悪役令嬢」と呼び、泥を投げつけるたびに、彼女たちの魂は悲鳴を上げ、そのエネルギーが結界を強化する。
つまり、エレナが婚約破棄され、断罪されたことさえも、王国の「延命措置」の一つとして組み込まれたプログラムだったのだ。
「……私たちは、守護者ですらなかった。ただの、燃やされるための薪だったというのね」
エレナの乾いた笑いが、書庫に響く。
愛されないことも。
誰よりも努力しても報われないことも。
最後には愛する者に裏切られる運命も。
すべては、この国を温々と生かすための、巧妙な装置に過ぎなかった。
だが、建国王は計算を一つだけ誤っていた。
それは、エレナ・フォン・リヒテンベルクという魂が、あまりにも強靭すぎたことだ。
本来なら、断罪された時点で精神が崩壊し、その苦悶の絶叫と共に結界は最大出力を出すはずだった。しかし、エレナは誇りを捨てず、魔法誓約という手段で「システム」から自らを強制的に切り離した。
薪が火を拒み、竈から飛び出したのだ。
その結果、火を失った王国は、今、急速に冷え込み、滅びようとしている。
『――娘よ。真実を知り、何を感じるか』
虚空から、建国王の思念が問いかけてくる。
エレナは静かに本を閉じると、塔の窓から遥か南の空を見つめた。
そこには、かつて自分がいた場所が、紅蓮の炎に染まっているのが見える。
「……滑稽ね。自分たちが踏みにじっていた者が、自分たちを生かしていた唯一の心臓だったなんて。……今の私に、あそこへ戻る理由が一つでもあるかしら?」
『ない。貴女は既に、呪いから解き放たれた自由な魂だ。このままこの塔の知識を継承し、神に近い存在として永劫の時を生きることもできる。あるいは、あの塵芥のような国が滅ぶ様を、高みの見物とするのもいいだろう』
「……ええ、そうね。それが一番『悪役令嬢』らしい報復だわ」
エレナは一度、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、王宮の冷たい石床。
ジークフルトの嘲笑。
ソフィアの嘘。
――けれど。
それと一緒に、市場で買った安っぽい黒パンの味。
荷馬車を引いてくれたベックさんの温かい手。
そして、自分に頭を下げた銀狼シルの、透き通った瞳。
エレナはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、恨みや憎しみを超越した、絶対的な「個」としての輝きが宿っていた。
「……私は、あそこには戻らない。リヒテンベルクの令嬢としても、王国の盾としても。……けれど、建国王様。一つだけ教えてあげましょう」
エレナは右手を掲げた。
彼女の指先で、黄金の氷晶が激しく渦巻き始める。
「私は、薪として燃やされるのはお断り。……でも、世界を塗り替える『冬の女王』としてなら……あの戦場に降り立ってあげてもいいわ」
彼女が選んだのは、救済でも、復讐でもなかった。
それは、自分を貶めた世界の理を、自分の力で根底から破壊し、再定義するという「傲岸不遜な支配」。
「シル、行きましょう。……本当の『氷の令嬢』の力、あの方々に見せつけてあげなくては」
塔の最上階から、一条の光が放たれた。
それは魔境の夜空を昼間のように照らし出し、一直線に燃える王都へと向かっていく。
***
王都、北門付近。
ケルベロスの吐き出す火炎が、ついに避難民たちが隠れる教会へと向けられた。
「お助けください……神様……エレナ様……っ!」
誰かが上げたその悲痛な叫びに、空が答えた。
――パキィィィィンッ!!
灼熱の業火が届く直前、空間そのものが凍りついた。
教会の前に、巨大な氷の蓮華が咲き誇り、ケルベロスの火炎を完璧に霧散させる。
「な……なんだ!? 雪か……!? この暑さの中で……雪が降っているのか!?」
空から舞い落ちるのは、宝石のような輝きを持つ氷の粒。
その中心、月光を背に受けて、一人の女性が舞い降りた。
かつての質素なドレスではない。
光を織り込んだような純白の装束を纏い、神聖な威圧感を放つ銀狼を従えた、伝説の再来。
「……無様ね。主を失っただけで、これほどまでに脆いとは」
響き渡る、鈴の音のように冷たく、美しい声。
その声を聞いた瞬間、騎士たちも、市民たちも、そして遠く離れた王宮で震えていたジークフルトも、一様に息を呑んだ。
「エ、エレナ……様? エレナ様なのか!?」
エレナは誰の問いにも答えず、ただ静かにケルベロスを見据えた。
三つの首を持つ獣が、本能的な恐怖に身を震わせ、後退りする。
「さあ、始めましょう。……『悪役』がいない世界がどれほど退屈か、教えてあげるわ」
エレナの杖が石畳を叩いた瞬間、王都全域が、黄金の氷華によって支配された。
それは、王国の終わりではなく、エレナという名の「新しい真実」が君臨する瞬間の始まりだった。




