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【連載版】悪役令嬢ですが、今日は私が王国を救います――ただし婚約破棄の条件付きで  作者:
第二章:宮廷の真実

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第7話:崩れゆく虚飾と、導きの塔

 それは、終わりを告げる「音」だった。


 パキン、と。

 王都を囲む巨大な氷の防壁【氷華のアイリス・ケージ】に、一条の亀裂が走った。

 太陽の光を浴びて宝石のように輝いていたその美しさは、今や急速に透明度を失い、泥を含んだ雪のように脆く崩れ始めている。

 エレナがこの国を去り、その魔力の供給源が物理的な距離によって減衰した結果。そして何より、エレナの心からこの王国への「未練」が消え失せた証左でもあった。


「……溶けている。エレナ様の氷が、溶けていくぞ……ッ!」


 城壁の上で、騎士団副団長のカイル・ヴァン・ブライトは、絶望に満ちた声を上げた。

 彼の目の前には、霧の向こう側から這い出してくる無数の影がある。

 瘴気に当てられ、理性を失った魔獣の群れ。その中には、本来なら深淵にしか生息しないはずの、ランクA指定魔獣『ベヒーモス』の姿さえあった。

 

「おい、魔導師団は何をしている! 早く結界を……以前のような強固な壁を張れ!」


 カイルの怒号に、隣にいた魔導師は泣き出しそうな顔で首を振った。


「無理です! 我々全員の魔力を合わせても、エレナ様が呼吸するように維持していたあの氷壁の、百分の一の強度すら再現できません! あの方は……あの方は、一人で国家規模の魔導炉に等しい出力を維持されていたのです!」


 その事実を突きつけられるたび、カイルの胸には鋭い棘が刺さる。

 なぜ、もっと早く気づけなかったのか。

 彼女がいつも涼しい顔で、完璧な淑女として立ち振る舞っていた裏で、どれほど膨大な「責任」という名の重荷を一人で背負っていたのか。

 彼女を『氷の悪役令嬢』と呼び、その献身を「冷徹な義務感」と片付けていた自分たちの愚かさが、今、王国の滅亡という形で返ってこようとしていた。


 ***


 同じ頃、王宮の謁見の間。


「ソフィア! 貴様の祈りはまだ通じないのか!?」


 国王アルベルトの怒声が、静まり返った広間に響き渡った。

 玉座の前で膝をついているソフィアは、かつての愛らしさは見る影もなく、恐怖で顔を歪めていた。

 彼女の周りには、最高級の香炉が焚かれ、聖女としての儀式のための祭壇が設えられている。だが、彼女がいくら手を合わせ、涙を流して「祈り」を捧げても、窓の外を覆う瘴気が晴れる気配は一切なかった。


「……そ、そんな、はずは……。ソフィアは選ばれた存在なのですわ。ジーク様に愛され、皆に愛される……愛こそが世界を救うと、そう教えられて……」


「愛だと!? ふざけるな!」


 アルベルトが立ち上がり、ソフィアが買い漁らせた宝石の山を蹴散らした。

 

「貴様が『癒やしの聖女』だと名乗り、エレナを追い出した結果がこれだ! 王都の魔導具は半分が停止し、民は瘴気で病に倒れている! 今すぐその『愛』とやらで、あの崩れゆく壁を修復してみせろ! できなければ、貴様を偽聖女として処刑し、その首を魔境へ放り込んでやる!」


「ひっ……! あ、ああぁ……っ!」


 ソフィアは悲鳴を上げて床に伏した。

 彼女の脳裏には、今まで自分が使ってきた「魅了チャーム」の魔法の仕組みが過っていた。

 彼女の力は、相手の好意を増幅させ、自分に都合の良い幻影を見せるだけの、極めて利己的な術式に過ぎなかった。それは「奪う」ための力であり、「与える」ための力ではない。

 守護。修復。慈悲。

 それら、膨大な魔力を他者のために使い続けるという自己犠牲の極致は、ソフィアという女の魂には、初めから備わっていなかったのだ。


「……ジーク様、助けて……ジーク様……!」


 ソフィアは縋るような視線を、傍らに立つジークフルトに向けた。

 だが、ジークフルトの瞳は、泥のように濁っていた。

 彼はソフィアを見ているようで、その実、何も見ていなかった。

 彼の耳には、ソフィアの甘ったるい声よりも、去り際にエレナが残した言葉が、呪いのように鳴り響いていた。


『どうぞ、せいぜい短い「平和」をお楽しみくださいませ』


 平和。

 それは、エレナという盤石な土台の上に築かれた、砂上の楼閣だったのだ。

 ジークフルトは、自分の腰にある宝剣を握りしめた。だが、その剣に宿る魔力さえも、エレナがいなくなったことで急速に力を失っていることに、彼はまだ気づきたくなかった。


 ***


 一方、絶望の王国を遥か遠くに離れた、古の森。


「――あれが、導きの塔」


 エレナは、目の前にそびえ立つ漆黒の巨塔を見上げていた。

 雲を突き抜け、天空へと至るその塔は、現世のいかなる建築技術も超越した、神話の時代の遺物。

 塔の表面には、複雑な魔導回路が脈動するように淡い青光を放っており、エレナの持つ魔力と共鳴して、空気を微かに震わせている。


「シル、あなたはここで待っていて。……ここから先は、私一人の『誇り』が試される場所だわ」


 銀狼シルは、理解したように静かに座り込み、その金色の瞳でエレナを励ますように見つめた。

 

 エレナは深呼吸をし、塔の入り口と思われる巨大な石扉の前に立った。

 扉には、何も刻まれていない。ただ、手をかざすための窪みが一つあるだけだ。


(……もし、私に資格がないのなら、ここで私の旅は終わる)


 迷いはなかった。

 かつての彼女なら、失敗を恐れ、周囲の期待を裏切ることを恐れて、足が震えたかもしれない。

 だが今の彼女は、自分自身の意志でここに立っている。誰のためでもない、自分の魂の証明のために。


 エレナが窪みに手を差し込んだ瞬間。

 

 ドォォォォン……ッ!


 重厚な振動と共に、塔全体が輝き始めた。

 青い光は次第に白銀、そして黄金へと変質し、エレナの体内に向かって膨大な「知識」が流れ込んでくる。


『――理不尽を飲み込み、それでも気高さを失わなかった娘よ』


 脳裏に響くのは、建国王のそれよりもさらに古く、神々しい声。


『貴女が守ろうとした世界は、貴女を裏切った。貴女が愛した人々は、貴女に石を投げた。……それでも尚、貴女はこのちからを望むか? 再び「守護」という名の呪いを背負う覚悟はあるか?』


 エレナは、閉じた瞳の裏で、かつての自分を思い出していた。

 血を吐くような努力。

 報われない日々。

 孤独な夜の冷たさ。

 

 そして。

 

 それらすべてを乗り越えて、今、この森の風を「自由」だと感じている今の自分を。


「……勘違いしないでください」


 エレナは、誰に聞かせるでもなく、はっきりと告げた。

 

「私はもう、誰かのために自分を殺すつもりはありません。……私は、私が美しいと思う世界を、私のために守りたいだけ。私が歩む道の邪魔をするものを、この手で排除したいだけです。……それを『守護』と呼ぶのなら、喜んでその力を受け取りましょう」


 その瞬間、石扉が音もなく左右に分かれた。

 

 塔の中から溢れ出したのは、純白の魔力。

 それはエレナを包み込み、彼女のボロボロだった旅装を、光の糸で紡がれたような神聖な装束へと変えていく。

 赤髪はさらに鮮やかさを増し、その瞳には、万物を支配することわりの片鱗が宿った。

 

「【真理の継承者】……。それが、今の私の名前かしら」


 エレナが塔の一歩を踏み出した時、彼女の足元から、黄金の氷晶が花開くように広がった。

 それは、失われつつある王国の結界とは比較にならないほど、根源的で、強大な力。


 ――ピリッ。


 エレナは不意に、はるか南――かつての母国の方向を見やった。

 彼女の指先にある見えない糸が、激しく震えている。

 それは、彼女が遺した『氷華の檻』が、ついに魔獣の王によって食い破られた合図だった。


「あら……。思ったより、持たなかったわね」


 彼女の口角が、微かに、冷酷なまでに美しく上がった。

 それは慈悲深い聖女の笑みではない。

 自分を裏切った世界が崩壊していく様を、ただ冷ややかに見つめる「超越者」の笑みだった。


「せいぜい、足掻いてごらんなさい。……あなたたちが捨てた『悪役』が、どれほどの重みだったのかを、その身で刻むがいいわ」


 エレナはそのまま塔の階段を昇り始めた。

 背後で石扉が閉まり、彼女は現世から完全に切り離された。

 

 ***


 その瞬間。

 王都の北門が、轟音と共に爆砕した。


「ガァァァァァァァッ!」


 立ち込める煙の中から、三つの首を持つ巨犬、ランクS魔獣『ケルベロス』が姿を現した。

 エレナの氷が溶けきったその場所は、もはやただの無防備な入り口に過ぎなかった。


「あ……ああ……」


 城壁の上で、カイルが力なく剣を落とした。

 目の前に広がるのは、地獄の風景。

 

 王都崩壊まで、あと数時間。

 

 救世主を自らの手で放逐した愚かな王国に、最初で最後の、本物の「審判」が下ろうとしていた。

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