第6話:残された者たちの沈溺
王都の朝は、かつては希望の色をしていた。
東の空から昇る太陽が、白亜の城壁を黄金色に染め上げ、王立学院の鐘の音が清々しく響き渡る。それが、この王国が享受してきた「平和」という名の日常だった。
だが、エレナ・フォン・リヒテンベルクがこの国を去ってから三日。
王都を包む空気は、重く、淀み、鼻を突くような硫黄の臭いが混じり始めていた。
「……何なのだ、この空の色は! 宮廷魔導師団は何をしている!」
王宮の回廊に、王太子ジークフルトの苛立ちを含んだ怒声が響く。
彼が窓から見下ろす街並みは、どんよりとした灰色の霧に包まれていた。それはただの霧ではない。魔境から漏れ出した「瘴気」だ。
本来であれば、建国王の結界がこれを完全に遮断し、清浄な大気が維持されるはずだった。だが今、結界はその機能を失い、穴の開いたバケツのように魔気を王都へと流し込んでいる。
「で、殿下……。魔導師団は不眠不休で修復にあたっております。ですが、あの大結界の術式があまりに複雑で……。鍵となる『魔力周波数』が完全に書き換えられており、我々の魔力では受け付けられないのです」
傍らに控える魔導師が、冷や汗を拭いながら報告する。
ジークフルトは舌打ちをし、拳を壁に叩きつけた。
「エレナだ……あの女が、去り際に余計な細工をしたに違いない! 自分がいなければこの国が立ち行かないと思い込ませるための、浅ましい嫌がらせだ!」
「……ですが殿下、エレナ様が施した『氷華の檻』がなければ、今頃王都は魔獣の餌食になっていたのも事実でして……」
「黙れ! 貴様、私を批判するのか!?」
ジークフルトの瞳には、かつての余裕など微塵もなかった。
彼は信じていたのだ。エレナという「重苦しい義務」を排除し、愛するソフィアを隣に置けば、すべてがバラ色に変わると。
だが現実はどうだ。
エレナがいなくなったその日から、王宮内の魔導設備――自動清浄機、照明器具、さらには王族の食事を管理する保冷庫に至るまで、その大半が停止した。
それらはすべて、エレナが日々の執務の合間に、自らの魔力を注ぎ込んで維持していたものだった。彼女はそれを「王妃教育の一環ですから」と事もなげに言っていたが、実際には国家予算の数パーセントを浮かせるほどの大事業を、一人で、無償でこなしていたのだ。
その事実を、ジークフルトは認めようとしなかった。いや、認めるわけにはいかなかった。彼女を「無能な悪女」として追放した自分の正当性が、根底から崩れてしまうからだ。
「ジーク様ぁ……。お部屋がとっても寒いですわ。それに、このお水、なんだか変な味がしますの」
そこへ、可憐な足取りでソフィアが近づいてきた。
彼女の着ているドレスは、以前ならエレナが差配して用意させた最高級の絹だったが、今はどこか薄汚れ、シワが寄っている。王宮の洗濯用魔導具が止まり、メイドたちも瘴気の影響で体調を崩し、十分な給仕ができなくなっているのだ。
「ああ、ソフィア。すまない、今魔導師たちに直させているところだ。もう少しの辛抱だ」
「嫌ですわ。ソフィア、お肌が荒れてしまいましたもの。エレナ様がいらした時は、いつも魔法でお部屋を暖かくして、お花も綺麗に咲かせてくださったのに……。あ、でも、あの方は意地悪でしたから、わざと壊して行かれたのかしら?」
ソフィアの唇から漏れる、無邪気を装った棘のある言葉。
ジークフルトは、その言葉にいつもなら「そうだね、彼女は酷い女だ」と同意していた。だが、今の彼の耳には、その甘ったるい声が、得体の知れない「不協和音」として響き始めていた。
(エレナなら……こんな時、文句を言う前に自分で解決していただろう)
不意に浮かんだ思考を、ジークフルトは慌てて打ち消した。
比較してはいけない。ソフィアは守るべき存在であり、エレナは自分を縛り付ける枷だったはずだ。
だが、ソフィアは不満を口にするばかりで、この危機的状況を打破するための「光の魔力」を一度も示そうとしない。
彼女は自分を「聖女のような癒やしの力がある」と言っていたはずではなかったか。
「ソフィア。君のその……不思議な力で、この瘴気を払うことはできないか? 君が祈れば、皆が救われると言っていたじゃないか」
「えっ……? そ、それは……今、ソフィアは体調が優れませんの。ジーク様が浮気なさらないか心配で、胸が苦しくて……。だから、力がうまく出せないんですわ」
ソフィアはわざとらしく胸を押さえ、潤んだ瞳で彼を見上げる。
今までのジークフルトなら、ここで彼女を抱きしめ、「すまない、私が悪かった」と謝罪していただろう。
だが、窓の外に広がる灰色の絶望と、鼻を突く異臭が、彼の理性を冷酷に呼び覚ましていた。
「……体調、か。そうだな。君はいつも、肝心な時に体調を崩すな」
ジークフルトの言葉に、ソフィアの表情が一瞬だけ強張った。
彼女の脳裏には、昨日、国王アルベルトから投げつけられた罵声が響いていた。
『聖女だと? 笑わせるな! エレナが整えた予算を使い込み、宝石を買い漁っていただけの小娘が! 明日までに結界の一部でも修復できなければ、貴様を魔境へ放り込んでやる!』
ソフィアには、結界を修復する力などない。
彼女にあるのは、他人の好意を吸い取り、自分をよく見せるための「魅了」に近い天性の人心掌握術だけだ。
だが、その魔力も、本物の絶望の前では無力だった。
***
一方その頃。
王国の国境を越えた先――古の森の深淵で、エレナはかつてない解放感の中にいた。
「……ふう。やっぱり、外の空気は美味しいわね」
彼女は小さな焚き火を囲み、銀色の狼――シルと名付けたパートナーの背に寄りかかっていた。
周囲は魔物たちが蠢く危険地帯だが、シルが放つ神聖な威圧感により、低級な魔獣は近づくことすらできない。
エレナは手元の鍋で、森で採れた薬草と、持参していた干し肉を煮込んでいた。
王宮のような贅沢なスパイスはない。けれど、自分で見つけ、自分で調理した食事は、驚くほど体に染み渡る。
「シル、あなたも食べる? お肉は多めに入れておいたわ」
シルは短く「クゥ」と鳴き、エレナの手から直接肉を食んだ。
その信頼しきった瞳に、エレナは微かな微笑みを浮かべる。
「王宮ではね、誰かを信じることさえ、命懸けの賭けだったのよ。……でも、ここでは、私とあなただけ。嘘も、裏切りも、義務も、ここには届かない」
エレナは自分の掌を見つめた。
昨日まで枯渇していた魔力が、この森の濃密なマナを吸収し、驚異的な速度で回復している。
それどころか、以前よりも魔力の質が変質していた。
冷たく澄み渡った氷の魔力の中に、黄金色の粒子が混じり始めている。
(これは……建国王の力? それとも……)
彼女が意識を集中させると、周囲の空間が微かに振動した。
焚き火の火の粉が空中で静止し、一瞬にしてダイヤモンドの粉のように輝く氷晶へと変わる。
物理法則を超越した、魔力の「純化」。
かつて彼女を縛っていた「リヒテンベルクの令嬢」という役割から解き放たれたことで、彼女の魂が、真の覚醒を遂げようとしていた。
「……あら?」
ふと、エレナは北の空へと視線を向けた。
そこには、人間には到底踏み込めないと言われている、険しい絶壁がそびえ立っている。
その頂に、古びた、けれど巨大な「塔」のような影が見えた。
「建国王の石碑にあった……『真の居場所』。もしかして、あそこにあるのかしら」
エレナの中に、知的好奇心が湧き上がる。
かつての彼女なら、そんな危険な場所へ行くなど、王太子の婚約者として許されないと自分を律していただろう。
だが、今の彼女は自由だ。
「行きましょう、シル。……あの塔の先にあるものが、私の本当の物語かもしれないわ」
彼女は立ち上がり、マントを翻した。
泥に汚れたブーツ。
乱れた赤髪。
けれど、その立ち姿は、王都のどの貴婦人よりも気高く、凛としていた。
***
数時間後。
王都の地下、大結界の心臓部にて。
「ひっ、ひいいぃぃ……っ!」
無理やり結界の核に魔力を流し込まされていた宮廷魔導師の一人が、激しい拒絶反応を起こして吹き飛ばされた。
核からは、エレナの魔力の残滓であった「青い光」が完全に消失し、代わりに禍々しい「黒いヒビ」が広がっていく。
「団長! もうダメです! 核が……核が崩壊します!」
グレイ団長は、震える手で核を見つめていた。
彼にはわかっていた。
この結界は、エレナ・フォン・リヒテンベルクという「愛と誇り」を糧にする特殊な術式だったのだ。
彼女を傷つけ、追い出したこの国に、もはや守護の資格はない。
バリンッ!
乾いた音と共に、核の一部が砕け散った。
その瞬間、王都全域に、地獄の底から響くような魔獣の咆哮が木霊した。
結界が、完全に死んだ。
その夜、王都の外壁には、数百の魔獣が群がっていた。
エレナが遺した「氷華の檻」のおかげで、まだ市街地への侵入は防げている。
だが、その氷も、エレナが遠ざかるにつれて、少しずつ、少しずつ透明度を失い、溶け始めていた。
パニックに陥る市民。
責任をなすりつけ合う貴族。
そして、暗い寝室で震えるジークフルト。
王国が積み上げてきた「偽りの平和」が、崩壊の序曲を奏で始めていた。
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