第5話:氷華の決別、あるいは新天の幕開け
夜の帳を切り裂き、私は宙を舞った。
背後で宿の窓枠が砕ける音が響き、騎士たちの荒々しい怒号が遠ざかっていく。
本来、風系統の飛行魔法は高度な魔力制御を要し、宮廷魔導師ですら数分間の維持が限界とされる術式だ。けれど、今の私を支えているのは、建国王の石碑から受け継いだ「誇りの共鳴」と、極限状態で覚醒した魔力回路。
夜風を翼に変え、私はゼフィリアの街の屋根を飛び越えていく。
「……逃がさん! 全兵に告ぐ、エレナ・フォン・リヒテンベルクを包囲せよ! 魔法障壁を展開、空路を塞げ!」
階下から響く指揮官の声。見れば、街の至る所から松明の火が揺れ、王国の正規騎士団が蟻の這い出る隙もないほどの包囲網を形成していた。
これほどの手勢を、たった一人の令嬢のために。
王家がいかに焦っているかが、手に取るようにわかる。
彼らは今になって気づいたのだ。私が去った後の王都で、結界の強度が目に見えて落ち、魔導具の心臓部が次々と停止している事実に。私という「供給源」を失った王家がいかに無力であるかという、残酷な真実に。
「無駄よ。あなたたちが私に触れることは、もう二度と叶わないのだから」
私は空中で静止し、マントを翻して騎士団を見下ろした。
広場には、重装歩兵と弓兵が並び、その中心には見覚えのある顔があった。王立騎士団副団長、カイル・ヴァン・ブライト。かつてジークフルト様の側近として、私にも剣術の稽古の際に礼を尽くしていた男だ。
「エレナ様! お願いです、止まってください! 我々はあなたを傷つけたくはない。陛下は、すべては誤解だったと、一度王都に戻り話し合いたいと仰っています!」
カイルの声には悲痛な響きがあった。
誤解?
話し合い?
ああ、なんと耳に心地よく、そして空虚な言葉だろう。
あの大広間で、私がどれほど孤独に、剥き出しの悪意に曝されていた時、彼らはどこにいたのか。
ジークフルト様が私を罵り、ソフィア様が勝ち誇った笑みを浮かべていた時、騎士団の誰一人が私を庇おうとしたか。
「カイル様。……誤解など、一つもございませんわ。私は確かにジークフルト殿下から『不要』と告げられ、公爵家からも除名されました。それは、この場にいる兵士の多くが目撃した事実ではありませんか?」
「それは……殿下が一時的な感情に流されただけで……!」
「感情に流されて国権を動かすような方に、私はもう一生を捧げるつもりはありません。……それに、忘れたのですか? 私と王家が交わした『魔法誓約書』の内容を」
私が右手を高く掲げると、虚空に黄金の文字が浮かび上がった。
ジークフルト様のサインと、王家の紋章が刻まれた、不可逆の契約書。
「『いかなる事態が起ころうとも、王家は私に一切の助力を求めず、私もまた王家に関わりを持たない』。――この誓約に背き、私を強制的に連れ戻そうとすれば、それは『助力の強要』に当たります。その瞬間に何が起こるか……賢明なあなたなら、理解できるはずですわ」
カイルの顔が土気色に変わった。
魔法誓約は、この世界の物理法則さえも上書きする絶対のルールだ。
王家がこの契約を破れば、王家の血統に刻まれた加護は失われ、この国そのものが呪いに沈む。
「ですが……このままでは、王国は……!」
「王国の心配なら、新しい『救世主』であるソフィア様に任せればよろしいでしょう? 彼女には、私にはない『愛される才能』があるのでしょうから」
私は冷たく言い放つと、魔力を練り上げた。
周囲の大気が急激に凍りつき、美しい氷の華が宙に舞う。
それは攻撃のための魔法ではない。
追っ手を物理的に阻むための、絶対不可侵の結界。
「【氷華の檻】」
パキパキと音を立てて、ゼフィリアの街と国境の門を隔てるように、巨大な氷の壁がそそり立った。
騎士たちの剣や槍では傷一つつかない、ダイヤモンドよりも硬い氷。
「な……なんだ、この魔力量は……!」
「嘘だろ、エレナ様は魔導師団の誰よりも強いのか……!?」
驚愕の声が上がる。
当然だ。私は今まで、自分の力を「ジークフルト様の功績」として偽装するために、常に半分以下に抑えていたのだから。
主を失った氷の魔力は、今や私の意志のままに、奔放に世界を塗り替えていく。
私は氷の壁の頂上に降り立ち、そこからさらに先――王国の外へと続く暗い森を見つめた。
そこは魔境。あるいは、他国の領土。
リヒテンベルクの令嬢として生きてきた私にとって、そこは「未知」という名の恐怖の場所だった。
けれど今、私の胸にあるのは恐怖ではなく、清々しいほどの高揚感だった。
「カイル様、王都に戻ったら伝えてください。……エレナ・フォン・リヒテンベルクは死にました。今ここにいるのは、ただの『エレナ』。自由を愛し、誇りを抱く、一人の人間です」
私はそう告げると、指先に残っていた微かな「慈悲」を込めて、空中に光の文字を刻んだ。
それは、王都の結界を維持するための最後の「式」。
私が国境を越える瞬間に発動し、一時的に王都の守りを安定させるためのもの。
これが、私がこの国に与える最後の施しだ。
「さようなら。……二度と、相まみえることのないように」
私は氷の壁から、闇の中へと身を投げた。
重力に従い落下する感覚。
背後でカイルが私の名を叫ぶ声が聞こえたが、それもすぐに風の音にかき消された。
森の中へと着地した私は、一度だけ、遠くに光るゼフィリアの街の灯りを振り返った。
あの光の向こうには、私が過ごした十七年間のすべてがある。
厳格だった父。
優しかった母の思い出。
そして、命を懸けて守ろうとしたジークフルト様。
それらすべてを、私は今、この森に置いていく。
――ガサリ。
茂みの奥から、何かがこちらを窺う気配がした。
魔境の魔物。あるいは、この地の守護者か。
私は逃げる代わりに、静かに杖を構えた。
もう、誰にも守ってもらう必要はない。私には、この身一つで運命を切り拓く力があるのだから。
「……誰かしら。出てきなさい」
暗闇の中から現れたのは、銀色の毛並みを持つ巨大な狼だった。
その瞳には知性が宿り、私を敵としてではなく、対等な「強者」として見定めている。
狼は私の前で足を止めると、驚くべきことに、その頭を静かに下げた。
まるで、新しい主君を迎える騎士のように。
「……私について来たいというの?」
狼は短く吠え、私のマントの裾を優しく咥えた。
ふふ、と喉の奥で笑いが漏れる。
王宮の人間たちよりも、魔境の獣の方が、よほど私の価値を理解しているらしい。
「いいでしょう。私の名はエレナ。……今日から、よろしく頼むわね」
私は狼の背に手を置き、共に森の深淵へと足を踏み入れた。
夜明けの光が、木々の隙間から差し込み始める。
それは王国の終わりを告げる光ではなく、エレナという一人の女性が、自らの足で歩み出す「真実の物語」の始まりを告げる光だった。
第一章「断罪と出発」――完。
【第二章「宮廷の真実」へのプロローグ】
その頃、王都。
エレナが国境を越えた瞬間に、王宮の地下にある『古の結界』の核が、耳を劈くような音を立てて砕け散った。
「な……なんだ!? 揺れているのか!?」
執務室で書類の山に埋もれていた国王アルベルトが、椅子から転げ落ちる。
「陛下! 大変です! エレナ様の魔力反応が、完全に消失しました! 同時に、結界の維持システムが停止……現在、魔境からの瘴気が王都へ流れ込んでいます!」
駆け込んできた宮廷魔導師の顔は、死人のように白い。
アルベルトは震える手で窓の外を見た。
あんなに美しかった王都の空が、どす黒い雲に覆われ始めている。
一方、ジークフルトの寝室。
彼はソフィアの髪を撫でながら、自分に言い聞かせていた。
「大丈夫だ、ソフィア。エレナがいなくても、我々には愛がある。彼女の代わりなど、いくらでも……」
だが、その瞬間。
部屋に置かれていた、エレナが魔力を供給し続けていた「永遠に枯れない花」の魔導具が、一瞬にして灰へと変わった。
ソフィアが悲鳴を上げる。
ジークフルトの背筋に、今まで感じたことのないような冷たい汗が流れた。
「……エレナ。本当に、行ってしまったのか……?」
彼の問いに答える者は、もう誰もいない。
彼らが手放したものが、どれほど巨大な守護であったのか。
それを思い知るための「真実の物語」が、ここから残酷に幕を開ける。
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