第4話:国境の街と、名もなき平穏
ガタゴトと揺れる荷馬車の振動が、心地よい。
かつて王都で乗っていた、魔導仕掛けのサスペンションと最高級の羽毛クッションを備えた豪華な馬車とは比べものにならないほど、それは無骨で、硬く、土の匂いがした。
けれど、今の私にとっては、この不自由さこそが、自分が「自由」であることの何よりの証だった。
「嬢ちゃん、顔色が良くなったな。さっきまでは死人のようだったが」
御者台から、人の良さそうな初老の男――ベックさんが声をかけてくれる。
彼は隣国へと野菜を運ぶ行商人で、街道の脇でボロボロになって歩いていた私を、不審に思いながらも乗せてくれた恩人だ。
「ええ……。少し、眠ったおかげですわ。ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「気にするな。こんな美人が道端で倒れてたら、誰だって放っておけねえよ。しかし、あんた……言葉遣いからして、どっかの上等な家のお嬢様なんだろ? そんなボロボロのドレスで、一体何があったんだい」
「……少し、身の程知らずな夢を見ていただけです。ようやく、目が覚めましたの」
私は、窓の外を流れる深い森の景色を見つめながら、静かに答えた。
夢。
そう、この国の王妃になり、ジークフルト様を支え、民を豊かにするという私の志は、ただの独りよがりな「夢」に過ぎなかったのだ。
彼らは私を求めていなかった。
彼らが求めていたのは、都合のいい労働力であり、自分たちの失態を押し付けられる「悪役」という生贄だった。
私は、膝の上に置いた自分の手を見つめた。
爪は割れ、指の至る所に切り傷がある。結界の修復で使い果たした魔力はまだ回復しておらず、体中の芯が重く痺れている。
けれど、胸の奥にある「誇り」だけは、今までで一番輝いているように感じた。
私は、隠し持っていた小さな布袋を開けた。
そこには、万が一の国外脱出を想定して、七年前から少しずつ貯めていた金貨と、リヒテンベルク家の家紋が入っていない宝石が数点入っている。
『氷の悪役令嬢』として完璧に振る舞いながらも、私はどこかでこうなる日を予見していたのかもしれない。
人を信じきれず、常に最悪を想定して動く――ジークフルト様が「可愛げがない」と嫌った私のこの性格が、皮肉にも今、私の命を繋いでいる。
「さあ、見えてきたぞ! 国境の街、ゼフィリアだ!」
ベックさんの弾んだ声に、私は顔を上げた。
目の前には、険しい山々に抱かれた石造りの街並みが広がっていた。
王都のような洗練された美しさはないが、力強く、どこか開放的な空気が漂っている。ここは王国と隣国、さらには自由貿易都市を繋ぐ要衝だ。
私は馬車を降りる際、ベックさんに金貨を一枚渡そうとしたが、彼は「嬢ちゃんのこれからの門出だ」と言って、頑として受け取らなかった。
代わりに、彼は自分の弁当だったという黒パンを私に握らせてくれた。
「しっかり食べな。これからは、自分のために生きるんだぞ」
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。
王宮で受け取っていたどんな高価な贈り物よりも、その堅い黒パンの重みが、私の心に深く染み渡った。
***
ゼフィリアの街に入った私は、まず古着屋へと向かった。
ボロボロの夜会ドレスは、今の私にはあまりにも不釣り合いで、目立ちすぎる。
店先に並んだ、丈夫な麻のワンピースと、フード付きの旅人用マントを買い、店主の許可を得て裏手で着替えた。
鏡に映った自分の姿は、まるで別人のようだった。
燃えるような赤髪はマントのフードに隠れ、灰被りのような質素な格好。
けれど、そこにはもう「王太子の婚約者」という重圧に押し潰されそうな少女はいなかった。
「……ふう。これでようやく、足が地に着いた気がするわ」
私は、切り裂かれたドレスを店のゴミ箱へと捨てた。
未練はない。
エレナ・フォン・リヒテンベルクは、昨夜、あの絶望の丘で死んだのだ。
宿を探して歩き始めると、街の広場に設置された「魔導掲示板」に、緊急の告知が流れているのが目に入った。
『緊急告知:エレナ・フォン・リヒテンベルク嬢の行方を捜索中。有力な情報には莫大な報奨金を与える。また、彼女を発見した者は、傷一つ負わせることなく保護し、直ちに王都へ連行せよ。国王令である』
広場にいた人々が、その掲示を見てざわついている。
「おい、これってあの『氷の悪役令嬢』だろ? なんでも婚約破棄されて、ショックで失踪したって話だが……」
「馬鹿を言うな。噂じゃ、彼女がいなくなった途端、王宮の魔導具が半分以上止まったらしいぜ。結界も不安定で、魔導師たちが泣きついてるっていうじゃないか」
「へえ、悪役令嬢がいなきゃ何もできないなんて、王家も情けない話だなぁ」
人々の無責任な噂話を聞きながら、私はフードを深く被り、その場を通り過ぎた。
――遅いのよ、お父様。そして、ジークフルト様。
あの魔法誓約書は、王家の血統そのものに刻まれる「呪い」だ。
私を探すことはできても、私に強制的な命令を下すことはできない。私を王宮に連れ戻そうとした瞬間に、彼らは自分たちの王位を、あるいは命を失うことになる。
彼らは今頃、自分たちが手放したものの大きさに、震えながら気づき始めていることだろう。
***
その夜、私は街の外れにある静かな宿に部屋を借りた。
久しぶりに浴びる温かいお湯が、強張った筋肉を解きほぐしていく。
体を洗い流しながら、私は石碑で聞いた「建国王の声」を思い出していた。
『結界の強度は貴女の存在に比例して減衰する』
私がこの国を離れれば離れるほど、王国の守護は薄れていく。
それは私が望んだ復讐ではない。
ただの「因果応報」だ。
私という犠牲の上に成り立っていた平和を、彼ら自身の手で壊したのだから、その結果を受け入れるのも彼らの責任だ。
風呂上がり、私はベックさんに貰った黒パンを齧りながら、窓辺に腰掛けた。
夜空には、昨夜のような禍々しい魔気はない。
けれど、私が展開した【絶対零度の監獄】の余韻は、今も微かに大気を冷やしているはずだ。
ガリ、と黒パンを噛み砕く。
決して美味とは言えない。けれど、自分の意志で、自分の力で手に入れた食糧は、どんな王宮のフルコースよりも滋味深かった。
「……明日からは、どうしようかしら」
選択肢はいくらでもある。
このまま隣国へ渡り、名前を変えて一介の魔導師として生きることもできる。
あるいは、私の知識を活かして商売を始めるのもいいかもしれない。
ふと、部屋の隅にある姿見に目をやった。
そこには、かつての「悪役令嬢」が持っていた鋭い眼光はそのままに、どこか晴れやかな表情をした一人の女性がいた。
「……そうね。まずは、自分の目で世界を見て回りましょう。王宮の窓からではなく、この足で」
その時だった。
宿の階下が、急に騒がしくなった。
重い鉄靴が石畳を叩く音。怒号。
「検問だ! 王命による緊急捜索である! 宿泊客の名簿を出せ!」
私はパンを飲み込み、即座に窓の外を確認した。
宿の周囲を、王国の騎士団が取り囲んでいる。
(もう、ここまで追手が来たというの? 早すぎるわ……)
だが、私は焦らなかった。
もし、無理やり私を捕まえようとするなら、それは彼らにとって死の宣告となる。
私は静かに杖を手に取り、部屋の灯りを消した。
暗闇の中で、私の瞳が薄く青色に発光する。
「お望み通り、『悪役』らしく振る舞ってあげましょうか。……ただし、今度はあなた方の救世主としてではなく、一人の自由な魔導師として」
扉が荒々しく叩かれる音と同時に、私は窓を蹴り破った。
夜風がマントを大きく翻す。
月光の下、私は重力に逆らうように空へと舞い上がった。
それは、エレナの第二の人生における、最初の「逃避行」であり、最初の「勝利」の始まりでもあった。




