第3話:さらば愛しき、愚かなる王国よ
視界が、赤く染まっていく。
それが、空を埋め尽くす魔獣の血の色なのか、あるいは限界を超えて魔力を放出し続けた私の、瞳の毛細血管が弾けた結果なのか、今の私には判別がつかなかった。
「……はぁ、はぁ、……まだ、足りない……っ」
絶望の丘に立つ私の周囲には、数え切れないほどのヘルハウンドの死骸と、氷像と化したガーゴイルの残骸が積み上がっている。
王都を守る氷の防壁【絶対零度の監獄】を維持しながら、同時に千年の時を経て朽ち果てた『古の大結界』を再構築する。
その行為がどれほど狂気じみているか、一流の魔導師が見れば即座に気絶するレベルの暴挙だろう。
通常、大規模な結界の修復には、数十人の高位魔導師が数ヶ月の儀式を経て、国家予算の半分にも及ぶ魔石を消費して行うものだ。
それを、卒業パーティーを追い出されたばかりの、ドレスをボロボロにした令嬢が一人で成し遂げようとしている。
心臓が、早鐘を打つように激しく脈動している。
魔力回路が焼けるような熱さを放ち、指先の感覚はとうの昔に消失していた。
それでも、私は石碑に触れる手を離さない。
(ここで私が倒れれば……すべてが終わる)
私が守りたかったのは、この国の未来だ。
ジークフルト様やソフィア様、私を蔑んだ貴族たちの命ではない。
この国で懸命に生きる、名もなき人々。私が幼い頃、視察で訪れた領地で「将来の王妃様、頑張ってくださいね」と笑いかけてくれた老夫婦や、私が整備した孤児院で文字を覚えた子供たちの笑顔だ。
彼らには何の罪もない。王家の無能のツケを、彼らが払わされる道理はない。
――ピキィィィィン!
頭上で、ひときわ高い音が響いた。
黄金の光が、私の青白い魔力と溶け合い、結界の最後の「穴」を塞いでいく。
その瞬間、建国王の石碑が眩いばかりの輝きを放ち、私の脳内に、直接誰かの声が響いた。
『――見事だ、我が志を継ぐ者よ。理不尽を誇りで塗り潰した貴き魂よ。契約は成された。この結界は、これより再び千年の眠りにつくだろう。ただし……』
声は、そこで一度途切れた。
『……ただし、この結界は「貴女」の魂と共鳴している。貴女がこの国に絶望し、真に「不要」と断じた時、あるいは貴女がこの地を離れた時、結界の強度は貴女の存在に比例して減衰するだろう。愛なき王家に、守護の資格はないのだから』
「……皮肉な、ことね」
私は自嘲気味に呟いた。
私はこの国を救うために力を尽くした。だが、その結果として、この国の存亡は、私がこの国を「愛しているか、いないか」という一点に委ねられることになったのだ。
そして、あの夜会での誓約により、私はこの国と縁を切った。
夜明けの光が、東の地平線から漏れ出してくる。
結界は完全に修復され、空を覆っていた魔獣の群れは、光に焼かれるように消滅していった。
王都を包んでいた絶対零度の冷気も、私の魔力の減衰と共に霧散していく。
私は、震える足で立ち上がった。
ドレスの裾は泥と血で汚れ、髪は乱れ、とても公爵令嬢とは思えない姿。
けれど、私の心は、かつてないほど澄み渡っていた。
「……これで、私の役目は終わりよ」
私は石碑の前に、自分が付けていた最後のリヒテンベルク家の刻印指輪を置いた。
それは、「エレナ・フォン・リヒテンベルク」という存在が、この地で死に、新しい何かに生まれ変わったという象徴。
私は踵を返し、朝日が照らし始めた王都とは逆の方向、隣国へと続く森の道へと歩き出した。
一度も、振り返ることはしなかった。
***
同じ頃。王立学院の大広間は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「な、何なんだ……今の光は!? 結界が直ったのか!?」
「報告します! 空を覆っていた魔獣の群れが消失しました! 結界の強度は、以前の十倍以上に跳ね上がっています!」
魔導端末を握りしめた宮廷魔導師が、震える声で叫ぶ。
貴族たちは安堵の溜息を吐き、あるいは腰を抜かして床に座り込んでいた。
その中心で、ジークフルトは真っ青な顔をして立ち尽くしていた。彼の隣にいるソフィアは、恐怖でガタガタと震え、ジークフルトの腕にしがみついているが、今の彼にはそれを労る余裕すらない。
「陛下! 国王陛下がいらっしゃいました!」
重厚な扉が開き、国王アルベルトが近衛兵を引き連れて姿を現した。その顔は怒りと焦燥に満ちている。
「ジークフルト! これはどういうことだ! 『古の結界』が一時崩壊の危機に瀕したという報告を受けたぞ! なぜこれほどの緊急事態に、貴様はパーティーなど開いている!」
「ち、父上……それは、その……」
「陛下、お待ちください!」
割り込んだのは、王室魔導師団の団長、グレイ・ベルモンドだった。彼は手にした魔力測定器の数値を凝視しながら、愕然とした表情で告げる。
「結界が修復されました。ですが……これは我々の知る魔力ではありません。この魔力の波形は……今夜、この場を去ったはずの、エレナ・フォン・リヒテンベルク様のものです!」
その言葉に、会場にいた全員が凍りついた。
「何を馬鹿なことを! あんな悪女に、結界を修復するような力があるはずがないだろう!」
ジークフルトが必死に叫ぶ。だが、グレイ団長は冷ややかな視線を王子に向けた。
「殿下、いい加減に現実を見なさい。この国で、建国王の術式を解読し、一人でこれほどの魔力を精密に制御できる人間が、エレナ様以外に誰がいるというのですか? ……そして、見てください。この記録を。結界の核である『絶望の丘』に、一人で向かった人影があります。彼女は、ご自身を断罪したこの国を救うために、たった一人で魔獣の群れの中に飛び込まれたのです!」
広間の壁に設置された魔法投影機が、夜明け前の絶望の丘の映像を映し出した。
そこには、ドレスを切り裂かれ、血を流しながらも、神々しいまでの青い光を放ち、巨大な魔獣を次々と凍らせていくエレナの姿が映っていた。
彼女の表情は、怒りに満ちているわけではない。
ただ、悲しいほどに静かで、誇り高かった。
「……ああ、なんてことだ……」
貴族の一人が、がっくりと膝をついた。
「私たちは、何をしていたんだ……。あんなにも気高く、あんなにも献身的な彼女を……『悪役』と呼び、泥を投げつけたというのか……」
映像の中のエレナが、最後に石碑の前に指輪を置き、去っていく。
その背中は、どんなに美しい宝石よりも輝いて見えた。
「ま、待て! エレナを連れ戻せ! 今すぐだ!」
国王が絶叫する。
「彼女がいなければ、この結界の維持はできないのだな!? 今すぐ兵を出して、彼女を保護……いや、平伏して謝罪しろ! リヒテンベルク公爵! お前の娘だろう、何とかしろ!」
指名されたリヒテンベルク公爵は、顔を覆って震えていた。
「……無理です、陛下。私は先ほど、彼女に『親子の縁を切る』と宣告してしまいました。彼女も、それを承諾し、家紋入りのブローチを捨てていきました……」
「そんなものは無効だ! 私が認めん!」
「いいえ、陛下。無効にはなりません」
グレイ団長が、床に落ちていた一枚の羊皮紙を拾い上げた。それは、ジークフルトが先ほど高らかにサインした『魔法誓約書』だった。
「これをご覧ください。『いかなる事態が起ころうとも、王家は私に一切の助力を求めず、私もまた王家に関わりを持たない』……王家の血と紋章による魔法契約です。これがある限り、我々は彼女に接触することすら叶いません。もし無理やり連れ戻そうとすれば、契約の代償として、王家の血統そのものが呪いによって絶たれるでしょう」
ジークフルトの手から、力が抜けた。
隣にいたソフィアが、「私、私は関係ありませんわ!」と声を上げるが、その声に答える者は誰もいない。
「……私は、何を……」
ジークフルトは、自分の両手を見つめた。
その手で、彼は王国最強の盾を、最高の王妃を、そして自分を心から愛し、支えてくれていた唯一の存在を、永遠に捨て去ってしまったのだ。
窓の外では、残酷なほど美しい朝日が昇っていた。
平和を取り戻したはずの王都。だが、その平和を支えていた基盤は、すでに失われている。
救世主を追い出した王国の、これが長い「後悔」の始まりだった。
***
その頃、エレナは国境の森を抜ける小さな馬車の荷台に揺られていた。
傷ついた体を癒やすための、簡素な治癒魔法をかけながら。
御者台に座る初老の男が、不思議そうに尋ねてくる。
「嬢ちゃん、そんなボロボロの格好でどうしたんだい? 悪い奴にでも襲われたのか?」
「……いいえ」
エレナは、僅かに微笑んで答えた。
「自分を縛り付けていた、重い鎖を外してきただけですわ」
「そうかい。なら、おめでとう。これからは自由だ」
「ええ……本当に」
エレナは目を閉じ、朝日を全身に浴びた。
彼女の指には、もうリヒテンベルクの紋章はない。
けれど、その魂に刻まれた「誇り」は、どんな宝石よりも強く、気高く、新しい世界を照らし始めていた。
断罪された悪役令嬢による、本当の自由。
それはまだ、始まったばかりだ。




