第2話:絶望の丘に咲く一輪の誇り
王都の北端に位置する「絶望の丘」。
かつて建国王がこの地に結界を張る際、あまりの魔力の奔流に周囲の草木が枯れ果てたことからその名がついたという。今では、罪人が処刑されるのを待つ場所か、あるいは私のような、居場所を失った者が最後に辿り着く場所に相応しい、荒涼とした岩場が広がっている。
夜風は鋭い刃のように私の頬を切り裂き、夜会のための薄いドレス一枚では、凍てつくような寒さが骨まで染み渡る。
けれど、今の私にはその寒さすら心地よかった。
あの熱気に浮かされた、偽善と虚飾に満ちたパーティー会場に比べれば、この静寂と冷気こそが、私という「氷の令嬢」には相応しい。
「……ふう。少し、歩きすぎたかしら」
私は岩場に腰を下ろし、一度だけ深く息を吐いた。
足元を見れば、夜会用のヒールはボロボロに削れ、絹の靴下には血が滲んでいる。令嬢としての生活を捨てると決めたとはいえ、この格好で岩山を登るのは少々無茶が過ぎたかもしれない。
だが、止まるわけにはいかなかった。
空を見上げる。
そこには、常人には見えないはずの「景色」が広がっている。
夜空を覆い隠すように張り巡らされた、巨大な幾何学模様の魔法陣。王国の空を千年間守り続けてきた『古の大結界』だ。
かつては白銀の輝きを放っていたであろうその模様は、今や煤けたようにどす黒く変色し、至る所にガラスが砕けたような亀裂が入っている。
――ピキ、ピキィッ。
空気が鳴いている。
結界の強度が限界を超え、外側の「魔境」から漏れ出した瘴気が、王都の美しい街並みをじわじわと侵食し始めていた。
「ジークフルト様……あなたは、この音すら聞こえないのですね」
胸の奥が、ちりりと疼く。
それは彼への未練ではない。私が守ろうとしてきたものが、これほどまでに無惨に崩れようとしていることへの、悲劇に対する憤りだ。
この七年間。
私は彼を支えるために、自分という人間を押し殺してきた。
彼が「勉強は苦手だ」と笑えば、私が彼の三倍の量をこなし、彼が署名すべき書類の要約を完璧に仕上げた。
彼が「民衆の不満がうるさい」と眉を潜めれば、私が直接領地に足を運び、施策を練り、暴動の芽を摘み取った。
彼が「ソフィアは癒やしてくれる」と私を避けても、私は彼に相応しい王妃となるべく、社交界での地盤を固め、リヒテンベルク公爵家の威光を王家に捧げ続けた。
その結果が、あれだ。
『氷の悪役令嬢』。
感情を殺し、ただ義務と責任のために動き続けた私につけられた、蔑称。
そして、ソフィアという「愛」の前に敗北した、「嫉妬に狂った女」というレッテル。
――いいえ。もう、そんなことはどうでもいい。
私は立ち上がり、岩場の中心に置かれた古びた石碑の前に立った。
苔むしたその石碑には、建国王が遺した「最後の警告」が刻まれている。
『我が子孫よ。もし、この結界が潰えんとする時、王座に座る者がその資格を失っていたならば、誇り高き「外なる者」に委ねよ。
理不尽に耐え、泥を啜り、それでも魂の煌めきを失わぬ者。
その者の涙と決意こそが、世界を繋ぎ止める真の楔となる』
私は石碑にそっと触れた。
その瞬間、氷のように冷たかった石碑が、心臓の鼓動のような脈動を始めた。
まるで、千年の時を超えて、私を待っていたかのように。
「リヒテンベルクの名において命じます。……顕現なさい、誇りの残滓」
私の体から、膨大な魔力が解き放たれた。
それは、ジークフルト様や宮廷魔導師たちが持っているような「形」ある魔力ではない。もっと根源的で、もっと純粋な、私の魂そのものが削れるような輝き。
ゴオォォォォ……ッ!
周囲の空気が一変した。
私の足元から青白い魔法陣が広がり、絶望の丘全体を包み込んでいく。
その時だった。
「グガァァァァァッ!」
結界の亀裂から、最初の「獲物」が落ちてきた。
漆黒の毛並みに、血のように赤い三つの瞳。ランクBの魔獣『ヘルハウンド』。
本来ならば、一国の騎士団が小隊を組んで挑むべき化け物だ。
それが、一匹ではない。二匹、三匹……十匹。
結界の崩壊が進むにつれ、その数は瞬く間に増えていく。
「あら、ごめんなさい。今はあなたたちの相手をしている暇はないの」
私は石碑に魔力を注ぎ込んだまま、冷ややかに背後を振り返った。
私に向けられる殺意。涎を垂らし、飢えた獣たちが飛びかかってくる。
「……凍てつきなさい」
パチン、と指を鳴らす。
瞬間、私の周囲の空気が絶対零度へと叩き落とされた。
飛びかかってきたヘルハウンドたちは、空中で姿勢を固定されたまま、美しい氷像へと変わった。
地面に落ちた衝撃で、彼らは粉々に砕け散る。
私はかつて、誰にもその魔法を見せなかった。
ジークフルト様が「女が攻撃魔法を誇示するなど、淑女のすることではない」と不快感を示したからだ。
だから私は、この強大な力を、結界の維持や災害の予測といった「裏方」の仕事にだけ使ってきた。
けれど、今はもう、誰に遠慮する必要もない。
「次から次へと……。この国の騎士団がどれだけ怠慢だったか、よくわかるわね」
空を見上げれば、結界の穴はさらに広がり、今度は翼を持つ魔獣『ガーゴイル』の群れが雲のように現れた。
彼らの狙いは、王都の市街地。
あそこには、今も何も知らずに眠る民がいる。
そして、私を笑いものにしたあのパーティー会場で、今頃は「悪役がいなくなった」と祝杯を挙げている者たちもいる。
助ける価値があるのかと問われれば、正直に言って、今の私には答えられない。
彼らを見捨てて、このまま私一人でどこか遠い国へ逃げれば、私は私の人生を謳歌できるだろう。
王家との縁は、あの誓約書で断ち切った。
私には、この国を守る「義務」など、一欠片も残っていないのだ。
――けれど。
「義務がなくても、私は私を裏切れない」
私は、自分が嫌いになるような生き方だけはしたくなかった。
七年間、この国のために尽くしてきた私の努力を、単なる「無駄」として終わらせたくなかった。
私が守りたかったのは、あの愚かな王子でも、私を嘲笑った貴族たちでもない。
朝焼けに染まる広場の美しさや、市場で元気に働く子供たちの声、そして、私が必死に予算を組んで整備した、あの穏やかな街並みなのだ。
「【絶対零度の監獄】」
私は両手を広げ、天に向かって魔力を奔流させた。
王都全体を覆うほどの巨大な氷の防壁が、古い結界の内側を補強するように展開される。
ガーゴイルたちが激突し、次々と氷の壁に阻まれていく。
だが、その代償は重い。
視界がふらつき、鼻から血が垂れる。
一人で、国を覆う結界を代行する。それは神の領域に等しい暴挙だ。
……意識が遠のく。
けれど、私は膝を折らなかった。
「私は、エレナ・フォン・リヒテンベルク。……誇りだけは、誰にも譲らないわ」
石碑から放たれる黄金の光が、私の魔力と混じり合い、螺旋を描いて天へと昇っていく。
崩壊しかけていた結界の亀裂が、少しずつ、けれど確実に修復されていく。
一方、その頃。
王宮のパーティー会場では、異変が起き始めていた。
「な、なんだ!? この寒さは!」
「見てください! 空に巨大な氷の壁が……!」
窓から見える異常な光景に、貴族たちがパニックに陥る。
さっきまでソフィアと踊っていたジークフルトが、不快そうに顔を歪めた。
「何事だ! 宮廷魔導師は何をしている! 演出にしても悪趣味だぞ!」
「で、殿下……! 大変です! 結界が……『古の結界』が崩壊しかけています! 今、何者かが莫大な魔力でそれを食い止めていますが……このままでは王都が!」
報告に来た魔導師の顔は土気色だった。
ジークフルトは信じられないといった様子で、窓の外を見る。
そこには、彼が見たこともないほど冷徹で、そして神々しい「青い輝き」が夜空を支配していた。
「まさか……。いや、そんなはずはない。あんなことができる人間など、この国には……」
彼の脳裏に、たった今追い出したばかりの、一人の女の顔が浮かぶ。
いつも冷静で、一度も弱音を吐かず、自分を支え続けてきた『氷の令嬢』。
「エレナ……? いや、あんな嫉妬深い女に、こんな真似ができるはずが……!」
ジークフルトは否定するように叫んだ。
だが、その声は空を裂く魔獣の咆哮にかき消される。
彼らが「平和」だと思い込んでいた日常が、実は一人の女の献身によって支えられていたという事実に、彼らはまだ気づいていない。
絶望の丘で、私は血を吐きながら笑った。
「……さあ、夜明けまであと少し。せいぜい、私が遺した最後の『慈悲』を噛み締めなさい」
私の体は、次第に透き通るような白光に包まれていく。
それは、この国からの「出発」の合図。
結界の修復と引き換えに、私はこの王都から姿を消す。
それが、私が自分自身に課した「婚約破棄」の本当の代償だった。




