第1話:氷の令嬢、あるいは王国の守護者
シャンデリアの光が、まるで私を嘲笑うかのように煌々と降り注いでいた。
王立学院の卒業記念パーティー。七年間の厳しい研鑽を終えた若者たちが、輝かしい未来を夢見て杯を交わすこの夜、会場である大広間は、百合の香水の甘い香りと、高揚した談笑の声に包まれていた。
本来であれば、私もその輪の中にいるはずだった。この国の第一王子であるジークフルト様の婚約者として、次期王妃としての気品を纏い、皆の羨望を一身に集めながら。
――けれど、現実は無慈悲な音を立てて崩れ去る。
「エレナ・フォン・リヒテンベルク! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
鼓膜を突き刺したのは、かつて愛を誓い合ったはずの婚約者の、憎悪に満ちた怒声だった。
会場の楽隊が奏でていた優雅なワルツが、不協和音を奏でて止まる。水の引くような静寂。その中心で、ジークフルト様は隣に寄り添う可憐な少女――男爵令嬢ソフィアの肩を抱き寄せ、私を指差していた。
「……婚約、破棄。左様でございますか」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
背筋を伸ばし、顎を引き、扇を閉じる。指先一つ、眉根一つ動かさない。それは私が七年間、この国の次期王妃として相応しくあるために、血の滲むような思いで身につけてきた「誇り」そのものだ。
ドレスの裾を揺らすことなく、私は静かに彼を見据えた。ジークフルト様の瞳には、かつて私に向けられていた穏やかな光はなく、ただ浅はかな正義感に酔いしれる男の、醜い陶酔だけが宿っている。
「貴様の悪行はすべて把握している! ソフィアへの執拗な嫌がらせ、教科書を破り、私物を捨て、あまつさえ階段から突き落とそうとしたばかりか、先日は茶会で毒まで盛ろうとしたそうだな! これほどの証言がありながら、まだしらばっくれるつもりか!」
「……そのような事実は、一点の曇りもなくございません」
「黙れ! 証拠なら、この健気なソフィアの涙が、そして彼女を守ろうとする友人たちの証言が物語っている! 貴様のような、嫉妬に狂った醜い氷の女など、王妃の座に座る資格はない。我が王国の汚点め!」
周囲から冷たい視線が、刃のように突き刺さる。
「さすがは『氷の悪役令嬢』だ、あんなに冷徹な顔をして」
「ソフィア様があんなに怯えていらっしゃるのに、なんて面の皮が厚いのかしら」
「名門リヒテンベルク公爵家の面汚しめ。家柄を鼻にかけて、やりたい放題だったのよ」
ひそひそと、けれど確実に聞こえるように囁かれる誹謗中傷。
ああ、実におかしい。思わず乾いた笑いが漏れそうになるのを、私は懸命に抑えた。
私はこの七年間、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで机に向かった。王妃教育の合間を縫って、王家の予算書に紛れ込んだ使途不明金を見つけ出し、無駄な贅沢を削って治水事業の予算に回した。干ばつが続いた年には、私財を投じて領民に食料を配り、疫病が流行れば古文書を漁って治療薬の配合を突き止めた。
ジークフルト様が騎士ごっこの訓練に明け暮れ、夜な夜な遊び歩いている間、彼の執務を肩代わりしていたのは誰だと思っているのか。
対して、今彼の腕の中で震えているソフィア様は何をしていただろうか。
難解な法学の講義を「頭が痛い」とサボり、王宮の庭園でジークフルト様を誘惑し、ただ「守ってあげたくなる弱さ」という武器だけで、この国の中心に居座った。
努力が、正当な評価をされる場所ではない。
実績が、感情論という濁流に押し流される。
この王国は、いつの間にかそれほどまでに腐り果てていたらしい。
「エレナ、何か言い残すことはあるか? 潔く罪を認め、地に這い蹲って謝罪するならば、温情をもって国外追放だけで済ませてやってもいいのだぞ」
ジークフルト様が勝ち誇ったように笑う。その姿は、英雄にでもなったつもりなのだろうか。
私は、視線を彼ではなく、会場のさらに先――王城の地下、そしてこの大地全体を巡る「脈動」へと向けた。
私だけに備わった特別な魔力感知が、破滅の足音を捉えている。
(……限界だわ。結界の「核」が、もう悲鳴を上げている)
この王国を建国以来、千年にわたって守り続けてきた『古の大結界』。
それは歴代の王族が魔力を注ぎ込み維持してきたとされるが、真実は違う。それは建国王が遺した、極めて特殊な「誇りの共鳴路」によって維持されてきたのだ。
今の王族に、その結界を修復する術はない。彼らは結界が「あるのが当たり前」だと思い込み、メンテナンスの重要性すら忘却していた。
このまま夜が明ければ、結界は完全に霧散する。そうなれば、国境を接する魔境「奈落の森」から、数万の魔獣がこの王都へとなだれ込むだろう。
そして、その結界を修復する方法を記した隠し石碑を見つけたのは、学院の図書館の地下深く、蜘蛛の巣の張った禁書庫で、誰にも知られず調査を続けた私だけだった。
『不当に扱われながらも、誇りを失わなかった者のみが、この結界を修復できる』
その言葉の意味を、私はずっと考えていた。なぜ、これほどまでに残酷な条件が必要なのか。
だが今、この地獄のような断罪の場で、すべてが理解できた。
愛する者に裏切られ、信頼していた臣下たちに嘲笑われ、家族からも見捨てられようとしている今。
泥を塗られ、底辺に落とされてもなお、「私は私である」という魂の矜持を捨てなかった者にしか、この国を繋ぎ止める力は与えられない。
これは、王家にすら見捨てられた「悪役」にしか果たせない、究極の救済なのだ。
「……ジークフルト様。一つ、条件がございます」
「何だと? 条件だと!? この期に及んで、まだ往生際悪く交渉するつもりか!」
「ええ。婚約破棄、慎んでお受けいたします。これまでの七年間、あなたを支えるために費やした私の時間は、すべて無価値であったと認めましょう。ですが、その条件として――今この瞬間、私が『王家にとって不要な存在であり、今後いかなる事態が起ころうとも、王家は私に一切の助力を求めず、私もまた王家に関わりを持たない』ことを、国王陛下とこの場にいる全員の名において、魔法誓約書にて証明していただきたいのです」
私の言葉に、会場が激しくどよめく。
普通なら、公爵家の娘として、あるいは一人の女性として、必死に婚約維持を請う場面だ。それを自分から「二度と関わりを持つな」と、それも魔法的な拘束力を持つ誓約を求めたのだから。
「ふん、強がりを! 公爵家からも除名され、路頭に迷うことが決まっている貴様に、誰が助力を求めるというのだ! よかろう、望み通りにしてやる!」
ジークフルト様は、自らの勝利を確信したように、側にいた王室魔導師に命じて即座に魔法羊皮紙を用意させた。
彼が自らの指先から血を出し、サインを刻印する。魔法の光が走り、契約が成立した。
――これで、私は自由だ。
そして同時に、この無能な王子が私の背中に「救世主」としての最後の鍵を差し込んでくれた。
「……ありがとうございました。これで、心置きなくお別れができますわ」
私は、リヒテンベルク公爵家としての家紋が刻まれたブローチを外し、無造作に床へ投げ捨てた。カラン、と虚しい音が響く。それは、私が「令嬢」という役割を捨て、「一人の魔導師」として生きる決意の音だった。
「エレナ、どこへ行く! まだ兵士に連行される前だぞ!」
「どこへ行こうと、私の勝手ではございませんか? 先ほどの誓約書通り、あなた方は私に関与しないとお決めになった。……ジークフルト様、ソフィア様。どうぞ、せいぜい短い『平和』をお楽しみくださいませ」
私は深々と、そしてこれ以上ないほど優雅に一礼した。
その所作のあまりの美しさに、野次を飛ばしていた貴族たちの声が止まる。
誰もが、目の前にいる女が「犯罪者」であるはずがないという、本能的な恐怖に似た違和感を抱き始めていた。
だが、もう遅い。
私は踵を返し、一度も振り返ることなく大広間を後にした。
背後でジークフルト様が「不愉快な女だ! すぐに追い出せ!」と叫んでいるが、その声はもう、遠くの犬の遠吠えほどにも響かない。
夜風が吹き抜けるバルコニーから、庭園へ。そして王城の外郭へと、私は迷いなく歩みを進める。
足元から伝わる大地の振動が、次第に大きくなっている。
王城の周囲を囲む見えない壁――『古の結界』が、ガラスのようにひび割れ、そこから黒い瘴気が漏れ出している。
時刻は午前零時。
夜明けまで、あと六時間。
私は、誰もいない王都の裏路地を抜け、結界の起点である「絶望の丘」へと向かった。
誰にも気づかれず、誰にも感謝されず。
明日になれば「逃げ出した臆病者」と罵られるかもしれない。
それでも構わない。
私は、私が愛したこの国の景色を、泥をかけられても守りたかった。ただそれだけなのだ。
「さて……始めましょうか。悪役令嬢による、この世で最も孤独な『恩返し』を」
暗闇の中で、私の瞳が青白く発光する。
膨大な魔力が私の体内を駆け巡り、解き放たれる瞬間を待っていた。
リヒテンベルクの誇りに懸けて。
私を捨てたこの国を、私が救い上げよう。




