第14話:異形の聖女、あるいは因果の終着
滅びとは、往々にして内側から、そして最も醜悪な形で始まる。
旧王国の北部鉱山。かつて金や魔石を産出し、国家の繁栄を陰から支えていたその場所は、今や完全に死に絶えていた。
突如として地下深くから噴き出した漆黒の霧――『空虚』の波動は、鉱山にわずかに残っていた労働者や看守たちの魂を瞬時に貪り尽くし、彼らを物言わぬ黒い塩の彫刻へと変えていた。
「……あは、あはははは! 力が、力が溢れてくるわ……!」
その中心で、ソフィア・ローランは狂ったように笑声を上げていた。
彼女の姿は、もはや人間のそれから大きくかけ離れていた。かつて男たちを惑わせた可憐な顔立ちは左右非対称に歪み、肌は死人のように青白く、そこを無数の黒い血管のような魔導回路が這い回っている。背中からは、光を吸い込む漆黒の「影の翼」が幾重にも生え、彼女の足元からは触手のような闇が絶えず蠢いていた。
彼女は『空虚の神々』の器――【虚空の器】へと変質を遂げたのだ。
「待っていなさい、エレナ……。あなたの上品な顔が、絶望に歪む瞬間が楽しみだわ。ジーク様も、みんなみんな、私が正しかったって跪かせてあげる……!」
ソフィアが翼を羽ばたかせると、彼女を包んでいた黒い霧が津波となって押し寄せ、旧王都の方向へと牙を剥いた。彼女の目的はただ一つ。自分を「悪」へと突き落とした世界すべてへの八つ当たりと、自分を無視したエレナへの歪んだ復讐。
旧王都:最後の審判
数時間後、旧王国の王都は、真の地獄へと変貌していた。
防壁も、兵士も、何の意味もなさなかった。ソフィアが率いる影の軍勢は、建物を腐食させ、人々の魂を刈り取りながら、一直線に王宮へと進軍した。
かつてエレナを追い出した象徴である白亜の城は、今や黒い霧に包まれ、まるで巨大な墓標のように佇んでいる。
「ひ、ひぃぃ……っ! 来るな、来るなぁぁ!」
王宮の謁見の間。
ジークフルトは、ボロボロになった玉座の裏に隠れ、ガタガタと震えていた。国王アルベルトはすでに瘴気に当てられ、寝室で息を引き取っている。この国に残された最後の王族であるジークフルトの前に、ゆっくりと、宙に浮いたソフィアが姿を現した。
「ジーク様ぁ……。ソフィアですよ? お迎えに上がりましたわ」
甘ったるい、けれど何百人もの死者の声を重ねたような不協和音が、広間に響く。
「ソ、ソフィア……!? 貴様、その姿は……何なんだ、その化け物は!」
ジークフルトは、かつて自分が「愛した」はずの女を見て、激しい嘔吐感に襲われた。そこには、守ってあげたいと思わせる儚さなど微塵もない。ただ世界を滅ぼすためだけに存在する、純粋な悪意の塊。
「ひどいですわ、化け物だなんて。ソフィアは聖女ですよ? ほら、見てください。あんなに私を苦しめたお部屋も、兵隊さんも、みんな私が『静か』にしてあげましたの」
ソフィアがそっとジークフルトの頬に触れる。その指先は氷よりも冷たく、触れられた部分の皮膚が灰色に変色していく。
「あ……が、ああぁぁぁ!」
「ジーク様、私と一緒に来てくださるでしょう? 二人で、あの生意気なエレナを殺しに行きましょう。あいつを八つ裂きにしたら、また私を一番に愛してくださいね?」
ジークフルトの瞳から、完全に正気が失われていった。
彼はようやく、魂の底から理解した。
自分たちが「本物の聖女」を追い出し、代わりに招き入れたのは、国を滅ぼすためだけの「本物の疫病神」だったのだと。
「エレナ……エレナ……すまない、私が間違っていた……。私を、私を助けてくれ……エレナァァァッ!」
ジークフルトが狂ったように叫んだその瞬間、ソフィアの影の触手が彼の体を貫き、その魂を強引に引き摺り出した。ジークフルトの肉体は生気を失い、泥のようになって床へ崩れ落ちる。
彼は最後まで、自分が捨てたものの大きさに絶望し、身悶えしながらその哀れな生涯を閉じたのだった。
「アははは! ジーク様も私の『中』に入りましたわ! さあ、次はあなたよ、エレナ……!」
旧王国を完全に滅ぼした「偽りの聖女」は、莫大な負のエネルギーを吸収し、さらなる巨大な影の怪物となって、北の『エル・リヒテン』へと進路をとった。
氷華帝国エル・リヒテン:絶対王者の調律
同じ頃、エル・リヒテンの最深部。
世界の魔力基盤を上書きする作業は、最終段階を迎えていた。
エレナは、空中に出現させた数万行に及ぶ魔導言語のコードを、超高速で書き換えていた。彼女の周囲には、物理法則と魔導術式を融合させた、絶対的な秩序の障壁が展開されている。
L = -1/4 F_μν F^μν + i ψ(bar) D-slash ψ + |D_μ φ|^2 - V(φ)
(※世界を構成する全粒子の相互作用を、エレナの『氷の理』によって再定義するためのラグランジアン密度関数である。これにより、異界からの干渉をシステムレベルで遮断する)
「……これで、世界のアップデートは完了よ」
エレナが最後のコードを確定させると、大陸全土の大気が、一瞬にして清冽な、けれどどこか優しい冷気へと満たされた。異界の亀裂は完全に氷の格子によって封印され、世界はエル・リヒテンという新たな心臓によって、再び正しい脈動を始めたのだ。
「エレナ、南から『大きなゴミ』が近づいているぞ」
傍らに控えていたシルが、窓の外を睨みながら低く告げた。彼の金色の瞳には、すでに戦いを楽しみにするような、神獣としての獰猛な光が宿っている。
「ええ、感知しているわ。旧王国の怨念と、空虚の残滓が混ざり合った、実に醜悪なエネルギーね」
エレナは静かに立ち上がり、純白の法衣を翻した。
彼女の表情には、焦りも恐怖もない。あるのは、実験室に迷い込んだ害虫を処理するかのような、淡々とした作業意識だけだ。
「ソフィア……。あなたは最後まで、誰かのリソースを奪うことでしか、自分を証明できないのね」
エレナが城のバルコニーへと出ると、エル・リヒテンの国境沿いに、天を突くほどの巨大な黒い影の巨獣が迫っているのが見えた。その中心には、狂気と憎悪に染まったソフィアの顔が浮かんでいる。
『エレナァァァッ! 私の全てを奪った泥棒猫ォォッ! 死ね! 死んで私に跪きなさい!』
ソフィアの絶叫と共に、大陸をへし折らんばかりの闇の奔流が、エル・リヒテンの国境『絶対零度の防壁』へと叩きつけられた。
ドォォォォン……ッ!!
世界が揺れるほどの衝撃。しかし、エレナはただ、冷徹にその光景を見下ろしていた。
「泥棒猫? ……滑稽ね。私はあなたから、何一つ奪ってなどいませんわ。あなたが勝手に、私のいた場所の重さに耐えかねて、自滅しただけでしょう?」
エレナが右手の杖を、そっと大理石の床へと突いた。
「さあ、お片付けの時間よ。……偽物の聖女に、本物の『世界の理』がどれほど冷酷か、その魂に刻んであげるわ」
エル・リヒテンの全魔導炉が共鳴し、黄金の氷晶が夜空を埋め尽くしていく。
世界を裏切られた悪役令嬢と、世界を騙そうとした偽りの聖女。二人の因縁に、今、完全なる終止符が打たれようとしていた。




