第4話 王太子の命令
定期試験の結果が発表されてから、しばらく経った。
フォーマにとっては、相変わらず穏やかな学園生活が続いていた。
授業を受け、友人たちと昼食を取り、放課後には図書室で勉強する。
時には王都の菓子店へ足を運び、ブライト王国の文化についてエカテリーナから話を聞くこともあった。
もちろん、二人きりではない。
いつもニコラスやエレノア、マリアンヌ、アーサーが一緒だった。
「フォーマ様この前言ってたお菓子ですが」
「ん?」
「帝国には似たようなものはあるのですか?」
ある日の昼休み。
中庭のテーブルを囲みながら、エカテリーナがフォーマに尋ねる。
「似たものはあるけど、少し違うね」
「どんな風に?」
「帝国のものはもう少し甘さが強い印象があるな、こっちの菓子は果物の酸味を生かしたものが多いと思う」
「そうなのですね」
エカテリーナは真剣に頷いた。
「じゃあ、今度は帝国のお菓子を食べてみたいわ」
エレノアが言う。
「いいよ。次に帝国から菓子を送ってもらう時に頼んでみる」
「本当に?」
「もちろん」
「楽しみです」
マリアンヌも笑う。
その隣で、エカテリーナも小さく笑っていた。
以前よりも、彼女はよく笑うようになった。
少なくとも、この仲間たちといる時は。
フォーマはそれを嬉しく思っていた。
だが、その穏やかな日々は、ある日突然終わりを告げた。
◇
その日の午後、歴史学の授業が終わった直後だった。
「エカテリーナ」
教室を出ようとしたエカテリーナを、マルケールが呼び止めた。
彼女はすぐに振り返る。
「はい、殿下」
「次の試験では、もう少し努力したらどうだ」
「……努力、ですか?」
「ああ」
マルケールは周囲にいる生徒たちを意識するように、わざと大きな声で言った。
「先日の試験でも、私とは大きく差がついた」
教室に残っていた生徒たちが、何人か振り返る。
エカテリーナは静かに答えた。
「申し訳ございません」
「謝れば済む問題ではない」
「……はい」
「君は私の婚約者だ」
マルケールの声が強くなる。
「将来、王太子妃となる者が私よりはるか下位にいるなど、あってはならないだろう」
エカテリーナの表情が僅かに強張った。
「ですが……」
「何だ?」
「……いえ」
彼女は言葉を飲み込んだ。
フォーマは少し離れたところから、その様子を見ていた。
そして、マルケールが小声で口にした次の言葉に眉を寄せる。
「次の試験でも、私より上に立つな」
「……」
「分かっているな?」
「はい」
エカテリーナは頭を下げた。
「承知いたしました」
マルケールは満足したように頷き、その場を去っていった。
教室に重い沈黙が残る。
「……今の」
ニコラスが小声で呟く。
「聞いたか?」
「ええ」
エレノアの表情が険しくなる。
「また言ったわね」
マリアンヌも心配そうにエカテリーナを見る。
「エカテリーナ様……」
「大丈夫です」
エカテリーナは微笑んだ。
「いつものことですから」
その言葉に、フォーマは胸の奥がざらつくような感覚を覚えた。
──いつものこと。
それを当たり前のように言う。
それほど長く、彼女はこの扱いに耐えてきたのだ。
「カーチャ」
「はい?」
「……何でもない」
フォーマは言葉を飲み込んだ。
ここで怒っても仕方がない。
マルケールはこの国の王太子で、自分はただの留学生。
今の自分が感情に任せて口を挟めば、エカテリーナの立場を余計に悪くする可能性がある。
だからこそフォーマは別の方法を選んだ。
「じゃあ、勉強会に行こう」
「え?」
「今日も図書室を取ってあるんだろ?」
ニコラスが頷く。
「もちろん」
「なら、行こう」
フォーマはエカテリーナに笑いかけた。
「歴史学、俺が分からないところがあるんだ。教えてくれる?」
「……私でよければ」
「君がいい」
その言葉に、エカテリーナが少しだけ目を丸くする。
「では……参りましょう」
「うん」
6人は教室を出た。
◇
それから数日
マルケールの態度は、徐々に露骨になっていった。
食堂でエカテリーナが席につこうとすれば、「そこは私の友人が使う」と別の席へ追いやる。
授業で教師が彼女を褒めれば、「たまたまだろう」と笑う。
魔法実技で良い結果を出せば、「その程度のこと、王太子妃なら当然だ」と言う。
そして、それを聞いていた取り巻きたちも、次第にエカテリーナへ言葉を投げるようになった。
「殿下も大変だな」
「婚約者があの程度ではな」
「公爵令嬢だからって、少し偉そうなんじゃないか?」
「王太子殿下より成績が低いのだから仕方ないだろう」
エカテリーナは何も言い返さない、ただ静かに頭を下げる。
それが、彼らにとっては余計に都合がよかった。
反論しない、怒らない、泣かない。
だから何を言ってもいい。
そんな空気が、少しずつ広がっていた。
◇
ある日の放課後
廊下で一人の男子生徒がエカテリーナの前に立った。
「おい、公爵令嬢」
「……何でしょうか?」
「王太子殿下に迷惑をかけるなよ」
「私は何も──」
「成績も悪いくせに、殿下の婚約者という立場だけは立派だな」
「……」
エカテリーナの顔から笑みが消える。
「殿下が言っているんだ。お前は自分より上に立つなってな」
「それは……」
「だったら大人しくしていればいい」
「──おい」
低い声が響いた。
男子生徒が振り返ると、そこにはフォーマが立っていた。
その後ろにはニコラス、エレノア、マリアンヌ、アーサーもいる。
「何だ、留学生」
「今の、もう一度言ってみて」
フォーマは笑っていなかった。
「この国の王太子がやっているんだから平気だ、とでも?」
「そうだ」
男子生徒は鼻で笑った。
「殿下が許しているんだ。お前に口出しされる筋合いはない」
「……そう」
フォーマは一歩近づく。
「じゃあ聞くけど」
「何だ?」
「王太子が誰かを殴ったら、君も殴っていいの?」
「は?」
「王太子が盗みを働いたら、君も盗むの?」
「そんな話をしているんじゃ──」
「同じだろ」
フォーマの声は静かだった。
「王太子がしているから、自分もしていい。そんな理屈が通るなら、法律なんていらない」
「留学生風情が……!」
「留学生だからこそ分からないんだよ」
フォーマは真正面から彼を見る。
「君たちの国では、王太子が命令すれば、人を傷つけても許されるのか?」
「……」
「もしそうなら、俺の国とは随分違うね」
男子生徒は言葉を詰まらせた。
その隙にエレノアが口を挟む。
「それ以上になさいな」
「……!」
「私も、あなたがエカテリーナ様にそのような口を利くのは見過ごせませんわ」
マリアンヌも静かに続ける。
「私も同意します」
「俺もだ」
アーサーが頷く。
ニコラスは男子生徒の肩を叩いた。
「ほら、もう行けよ」
男子生徒は舌打ちし、その場を去っていった。
静かになった廊下。
フォーマはエカテリーナを見る。
「大丈夫?」
「……はい」
「本当に?」
「……」
エカテリーナは少しだけ俯いた。
「以前は……」
「うん?」
「このようなことを言われても、何も感じませんでした」
フォーマは黙って聞く。
「ですが、最近は……少しだけ苦しいと思うようになってしまって」
エカテリーナの声が震える。
「皆様とお話しするようになってから……以前よりも、自分が惨めに思えてしまうのです」
フォーマはしばらく黙っていた。
「それは、君が弱くなったんじゃないよ」
「……え?」
「逆だと思う」
フォーマは穏やかに言った。
「今まで何も感じなかったのは、傷つかないように諦めていただけなんじゃないかな」
「……」
「でも今は、君をちゃんと見てくれる人がいる」
ニコラスを、エレノアを、マリアンヌを、アーサーを見る。
「だから、傷つくことを知ったんだと思う」
エカテリーナの瞳が揺れる。
「……それは、良いことなのでしょうか?」
「少なくとも」
フォーマは笑った。
「俺は、君が何も感じない人になるよりずっといいと思うよ」
エカテリーナは何も言わなかった。
ただ目元に浮かんだ涙を、そっと指で拭った。
「……ありがとうございます」
「うん」
「フォーマ様」
「何?」
「私は……」
エカテリーナは何かを言いかけた。
けれど、結局首を振った。
「いえ。何でもありません」
「そっか」
フォーマは追及しなかった。
ただ、彼女の隣に立ち、ニコラスたちも自然にその周囲へ集まる。
誰も何も言わない、それで十分だった。
◇
その日の夜
エカテリーナは自室の窓から、王都の明かりを眺めていた。
長い間、何を言われても、何をされても、自分さえ我慢すればいいと思っていた。
婚約者だから、王太子だから、未来の王太子妃だから。
そう言い聞かせてきた。
けれど最近は違う。
フォーマと出会って、エレノアたちと話すようになって、自分にも、笑っていい時間があるのだと知った。
だからこそ今まで気づかなかった苦しさまで、感じるようになった。
「……私」
胸元に手を当てる。
「本当は……嫌だったのかもしれません」
そんな言葉を口にしたのは、初めてだった。
そして同じ頃、王宮では。
「最近、エカテリーナの周囲に妙な連中が集まっているようだな」
マルケールが不機嫌そうに呟いていた。
「特に、あの留学生……フォーマ・バイエンスとかいう男」
その目には、これまでにはなかった苛立ちが浮かんでいた。
「余計なことを吹き込まれなければいいが」
誰にも聞こえないほど小さな声でマルケールは呟いた。




