第23話 その名を、今ここに
「なんだ……」
フォーマの口元から、笑みが消えない。
「あの時の関係者だったのか」
「……あの時って……?」
バーバラが顔を上げた。
涙で濡れた顔には、怒りと困惑が入り混じっている。先ほどまで国王に向けられていた憎悪が、今は目の前の青年へと向けられていた。
「8年前のことよ!」
バーバラは声を荒らげた。
「隣国のあんたが、なんの関係があるの!?」
「いや」
フォーマは淡々と答えた。
「あの時の豪雨災害は、山崩れが起きていたからな」
「……え?」
「ブライト王国北部の山の一つが、大雨の影響で大規模な土砂崩れを起こした。その土砂崩れて町へ通じる唯一の道を塞いだんだ」
フォーマは、まるで当時の記録を読み上げるかのように語った。
「周辺の川も増水していた。別の道を探そうにも、山道は土砂で埋まり、川沿いの道も危険な状態だった。救助隊が現地へ向かおうにも、陸路から町へ入ることそのものが困難になっていたんだ」
大広間の誰もが、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。
8年前の災害については、この国の人間なら誰もが知っている。
しかし、被害の規模や犠牲者の数を知っていても、救助活動の詳細まで把握している者は多くない。
ましてや、隣国の青年がこれほど具体的に説明できる理由など、誰にも分からなかった。
「もちろん、国王は何もしていなかったわけじゃない」
フォーマは国王へ一瞬だけ視線を向けた。
「災害の報告を受けてすぐ、救助部隊の編成が始まった。救助を必要としている人々がいる以上、助けに向かおうとするのは当然だからな」
「……!」
バーバラの表情が強張る。
「だったら」
震える唇から、声が漏れた。
「だったら、なんで母は死んだのよ!」
悲鳴にも近い声だった。
「国王がすぐに兵を出していれば!もっと早く助けに来てくれていれば、母は……!救助なんて来なかったじゃない!」
バーバラの叫びが、大広間に響き渡る。
フォーマは、すぐには答えなかった。
彼女の怒りを否定することも、泣き叫ぶ彼女を諭すこともしない。
ただ、静かにその顔を見つめていた。
「……救助が遅れた理由は、もう一つあった」
「……何よ」
バーバラが睨みつける。
フォーマは一度、ゆっくりと息を吐いた。
「あの崩れた山には、地下天然ガスを含んだ土壌があったんだ」
「……天然……ガス?」
「ああ」
フォーマは頷いた。
「普段は地中に留まっているガスでも、地盤が大きく崩れれば話は変わる。土砂の移動によってガスの通り道が変化したり、地中に溜まっていたガスが地表へ噴き出したりする可能性があった」
彼は言葉を区切り、続けた。
「さらに、ガスが一定の濃度で空気中に溜まれば、火花や火気をきっかけに爆発を起こす危険もある。救助のために大勢の兵士が立ち入り、道を切り開こうとすれば、かえって大規模な二次災害を引き起こしかねなかった」
バーバラは何も言わなかった。
天然ガス。
二次災害。
聞き慣れない言葉が並んでいる。
けれど、それらが意味することだけは理解できた。
助けに向かった人々まで、命を落とす可能性があったのだ。
「当時、現地の地質を調査した結果、その危険性が指摘された。そこでブライト王国からの要請を受け、我が国の専門家も調査に協力することになった」
「……我が国?」
「そうだ」
フォーマの声は変わらない。
「ゼレノイ帝国は、地下資源や地質災害に関する調査技術を持っている。あの地域の土壌にどれほどのガスが含まれているのか、救助活動によってどのような危険が生じるのか。安全に人員を送り込める状態なのか。それらを確認するために、専門家が派遣されたんだ」
フォーマはそこで一度、バーバラを見据えた。
「そして、調査結果が出るまで、救助部隊を危険な区域へ進入させてはならないという判断が下された」
「……!」
「それが、我が国ゼレノイから出された要請だった」
バーバラの顔から、わずかに血の気が引いた。
「そ……そんな……」
「誤解しないでほしい」
フォーマは静かに言った。
「我が国が救助を妨害するために止めたわけじゃない。危険性が確認されないまま兵士を送り込めば、救助される側だけでなく、救助する側まで命を落とす可能性があった。だからこそ、安全の確認を優先する必要があったんだ」
彼の声音に、迷いはなかった。
それは誰かの弁明を代わりに語っているような口調ではない。
当時、何が起き、なぜその判断が必要だったのかを、正確に伝えようとしている声だった。
「もちろん、その間にも救助を待つ人々がいたことは事実だ。時間が経てば経つほど、生存できる可能性が低くなる人もいた。それは誰もが理解していたはずだ」
フォーマの眉が、わずかに寄る。
「だからこそ、調査と救助の準備は並行して進められた。危険を取り除き、少しでも早く人々のもとへ向かうために」
「……」
「だが、山崩れによって地盤そのものが不安定になっていた。ガスの流出状況も、二次災害が起こる可能性も、すぐには判断できなかった。安全を確認できないまま進入を許可することはできなかったんだ」
フォーマは、はっきりと言い切った。
「だから、そこの安全を確認できない限り、兵を派遣するなと、我が国ゼレノイからストップをかけたんだ」
「……!」
バーバラの目が見開かれた。
国王を睨みつけていた視線が、行き場を失ったように揺れる。
「それで救助が遅れたのは、致し方ないだろう」
フォーマは、静かにそう告げた。
その言葉は、あまりにも冷静だった。
「そんな……」
バーバラの唇が震えた。
「そんなの……」
何かを言い返そうとした。
国王を責める言葉を、フォーマの説明を否定する言葉を、8年間、自分の中で繰り返してきた憎しみを正当化する言葉を。
けれど、何も出てこなかった。
目の前の青年は、彼女が知らなかった事実を淡々と告げた。
その事実を、彼女は否定できなかった。
バーバラは、力が抜けたようにその場に立ち尽くした。
「母は……」
小さな声が、唇から零れ落ちる。
「母は、助かったかもしれなかったのに……」
バーバラの呟きが、静まり返った大広間に落ちた。
フォーマは何も答えなかった。
彼女の悲しみを否定するつもりはない。けれど、安易に慰めの言葉をかけることもできなかった。
失われた命は戻らない。
どれほど正しい判断だったとしても、残された者の悲しみまで消せるわけではないのだから。
そんなフォーマの横顔を、エカテリーナはそっと見上げた。
「……フォーマ様」
「……」
「……怖い顔をなさっています」
フォーマの眉が、わずかに動いた。
自分では、そんなつもりはなかったけれど、彼女にそう言われて初めて、自分がどれほど険しい表情をしていたのかに気づいた。
「……すまない」
フォーマが振り返る。
「怖がらせてしまったかな」
「いえ……」
エカテリーナは小さく首を横に振った。
「そんなことありません」
そして、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
「ただ……フォーマ様が、そんなお顔をなさるのが珍しかったので」
「……そうか」
フォーマは一瞬だけ目を伏せた。
いつもなら、もっと上手に笑えたはずだった。
彼女を不安にさせず、周囲にも悟られず、何事もなかったかのように振る舞うことだってできたはずだ。
けれど今は、どうにも表情を取り繕う気になれなかった。
そんな彼の心を察したのか、エカテリーナはそれ以上何も尋ねなかった。
ただ、そこにいてくれた。
フォーマは彼女を見つめると、その瞳がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……ありがとう」
その言葉は、彼女にしか聞こえないほど小さかった。
ほんの一瞬だけ2人の間に、静かな時間が流れる。
大勢の人間が見守る大広間の中央で、まるでそこだけ別の世界になったかのようだった。
だが、その穏やかな空気を壊す者がいた。
「……くだらない」
「?」
低く、吐き捨てるような声。
王太子マルケールだった。
拘束されたままの彼は、憎悪を隠そうともせず、2人を睨みつけていた。
「何をしている!」
突然の怒声に、周囲の人々が肩を震わせる。
「こんな状況で、何を呑気に話している!私が誰だと思っているんだ!まだ終わっていないぞ!」
兵士たちがマルケールを押さえ直す。
しかし、彼はなおも喚き続けた。
自分の罪が暴かれ、王太子としての地位も失おうとしている。
それなのに、目の前の2人は自分など存在しないかのように振る舞っている。
その事実が、彼の自尊心をさらに深く傷つけていた。
だが、フォーマは振り返りもしなかった。
「そろそろ頃合いだろう」
ぽつりと呟く。
「……え?」
エカテリーナが不思議そうに彼を見つめた。
フォーマは、ゆっくりと彼女へ向き直る。
先ほどまでバーバラに向けていた、底知れない笑みはもうなかった。
そこにあるのは、穏やかで、真剣な眼差し。
そして、何かを決意した者の静かな覚悟だった。
フォーマは一歩、前へ出た。
「……?」
エカテリーナが目を瞬かせる。
彼は彼女の前で足を止めると、そのまま、そっと膝を付いた。
「……フォーマ様?」
思いがけない行動に、エカテリーナの声がかすかに揺れる。
フォーマは彼女の手を取ることなく、まずは真っ直ぐにその瞳を見つめた。
逃げも、誤魔化しもしない。
今から告げる言葉だけは、何よりも誠実に伝えたかった。
「エカテリーナ・フルーネフェルト嬢」
「……はい」
彼女の返事は、ほとんど息のような声だった。
周囲のざわめきが、少しずつ消えていく。
何が始まろうとしているのか。
その場にいた誰もが、まだ確信を持てずにいた。けれど、フォーマの表情を見れば、冗談ではないことだけは分かった。
ニコラスが目を見開きアーサーが思わず身を乗り出した。
エレノアとマリアンヌは顔を見合わせ、ニコル、シシリア、ナナリーの3人も、息を呑んだまま2人を見つめている。
フォーマは、そんな周囲の反応を気にする様子もなかった。
彼の視線に映っているのは、ただ1人。
長い間、誰にも本当の自分を見せられず、笑うことさえ忘れかけていた少女。
それでも、自分の力で立ち上がり、他者を思いやることをやめなかった人。
初めて彼女の笑顔を見たときから、もっと笑っていてほしいと思った。
彼女が傷つけば、守りたいと思った。
彼女が何かを成し遂げれば、自分のことのように嬉しかった。
そして、気づけば、彼女が隣にいない未来など、考えられなくなっていた。
「俺と結婚してほしい」
「────」
時間が止まった。
「……え?」
エカテリーナの目が、大きく見開かれる。
彼女はフォーマを見つめたまま、瞬きすら忘れていた。
今、自分は何を聞いたのだろう。
結婚。フォーマと、自分が。
その意味を理解した瞬間、彼女の頬がみるみる赤く染まっていく。
そして、会場全体から。
「───え?」
声が漏れた。
全員が目を丸くしていた。
つい先ほどまで、王太子の罪を裁く緊迫した空気に包まれていた大広間である。
誰もが予想していなかった告白に、驚きのあまり言葉を失っていた。
「フォーマ、様……?」
エカテリーナが、震える声で彼の名を呼ぶ。
夢ではないのかと確かめるように。
自分の聞き間違いではないのかと疑うように。
けれど、フォーマは微笑んだ。
いつものような、少し悪戯っぽい笑みではない。
彼女の不安も、戸惑いも、すべて受け止めると告げるような、優しい笑顔だった。
「俺は君と共に生きたい」
「……っ」
「君が笑っている時も、辛い時も」
フォーマの声が、大広間に静かに響く。
「君が自分の力を信じられなくなった時も、何かに迷って立ち止まった時も。君がどんな未来を選んでも、その隣にいたい」
エカテリーナの瞳に、みるみる涙が浮かんでいく。
これまで彼女は、誰かの期待に応えるために生きてきた。
望まれる姿を演じ、自分の気持ちを押し殺し、傷ついても笑顔を作らなければならなかった。
けれど、フォーマは違った。
彼は彼女に、何かを求めるのではなく。
彼女が彼女らしく生きることを、望んでくれた。
「だから」
フォーマが、ゆっくりと手を差し出した。
その手は、彼女がこれまで何度も助けられた手だった。
傷ついた時に支えてくれた手。
笑顔を取り戻すきっかけをくれた手。
そして、彼女が自分自身の人生を歩き始めるまで、ずっと傍らにいてくれた手。
今、その手が、彼女の未来を共に歩みたいと告げている。
「俺と結婚してほしい」
「……」
エカテリーナは、差し出された手を見つめた。
涙が一粒、頬を伝う。
けれど、その唇には、確かな笑みが浮かんでいた。
エカテリーナは震える手で、その手を取ろうとした。
「貴様……!」
怒声が広間に響き渡った。
「この私の婚約者に求婚するだと!?」
マルケールが憤怒の形相でフォーマを睨みつける。
しかし、当のフォーマは涼しい顔を崩さなかった。
「元、なんだろう?」
「……は?」
「2ヶ月前に、正式に婚約は解消されている」
「な、なんだと……?そんなハッタリが通用すると思っているのか!」
マルケールは慌てて国王へと振り返った。
その顔には、父である国王が否定してくれるという確信があった。
「事実だ」
国王の声は、あまりにも静かだった。
「フルーネフェルト公爵との協議の結果、2ヶ月前にエカテリーナ嬢とマルケールの婚約を秘密裏に解消した」
「なっ……!?」
マルケールの顔から血の気が引いていく。
さらに王妃が、冷ややかな眼差しを息子へ向けた。
「エカテリーナ嬢本人の同意も得ております。あなたには、この卒業パーティが終わるまで伏せておりました。今回、あなたの拘束が決まっていたためです」
「は、母上……?」
信じられないものを見るように、マルケールが母を見つめる。
王妃は表情ひとつ変えなかった。
「国の不利益となるのならば、息子であろうと切り捨てる。それが国王と国母というものですよ、マルケール」
「そ、そんな……」
マルケールの膝が、わずかに震えた。
自分を守ってくれるはずの両親が、もう味方ではない。
その事実を、彼はようやく突きつけられたのだった。
「という事だ。カーチャ、返事をくれるかい」
フォーマが穏やかな笑みを浮かべ、エカテリーナを見上げる。
「あ……えっと」
突然の求婚に、彼女の頬がみるみる赤くなった。
答えようと口を開きかけた、その時。
「フンッ!身分も知れぬ底辺留学生風情が!」
マルケールが吐き捨てるように笑った。
「公爵令嬢を妻にするなど、片腹痛い!」
フォーマは何も言わない。ただ、静かにマルケールを見つめていた。
「エカテリーナも落ちぶれたものだ!」
マルケールは嘲笑う。
「よりにもよって、どこの馬の骨とも知れぬ男に──」
「マルケール殿下!!」
大きな声が広間に響き渡った。
誰もが息を呑んだ。
声の主は、エカテリーナだった。
彼女が声を荒らげる姿など、これまで誰ひとりとして見たことがなかった。いつも礼儀正しく、感情を押し殺すように微笑んでいた彼女が、今は真っ直ぐにマルケールを睨みつけている。
「いけません……!」
その声は震えていた。
恐怖からか、それとも別の感情からか。握り締めた拳は白くなり、唇もわずかに震えている。
それでも、彼女は決して目を逸らさなかった。
「それ以上おっしゃってはいけません!」
「な、何だと?」
「それ以上フォーマ様を侮辱なされば……!」
エカテリーナは震える声で、それでもはっきりと告げた。
「不敬罪で……!この王国が潰されてしまいます!」
「…………」
静寂が落ちた。
マルケールの顔から、笑みが消える。
「……何を言っている?」
その言葉に、フォーマが小さく息を吐いた。
「……やれやれ」
そして、困ったように眉を下げ、エカテリーナを見つめる。
「どうやら君は、気づいてしまっていたようだね」
「……はい」
「いつから?」
エカテリーナは少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「……カーチャと呼ばれた時から」
「……!」
「最初は、ただの愛称だと思って違和感程度しか感じませんでした」
エカテリーナは続ける。
「ですが……ゼレノイ帝国の文化について調べるうちに」
フォーマを見つめる。
「その呼び方が……とても独特なものだと知って」
「……」
「決定的なのは、骨折の療養中に本を渡してくれた日でした」
小さく微笑む。
「もしかして、フォーマという名前は……ヴァルフォロメイから来ているのではないかと」
フォーマが僅かに目を細める。
「そうか……よく気づいたね」
フォーマは優しく微笑んでから静かに目を閉じる。
「なら、もう隠す必要もないか」
瞬間。
──ドクン。
空気が震えた。
「……!」
膨大な魔力がフォーマの身体から溢れ出す。
青白い光が彼を包み込み、足元から波紋のように広がっていった。
肌を撫でる魔力の奔流に、周囲の者たちが思わず息を呑む。
「な……」
誰かの声が掠れた。
髪色が、瞳の色が、そして顔立ちすら、ゆっくりと変わっていく。
纏っていた魔力の質そのものが変化していく。
それは、長い間フォーマ・バイエンスという青年を作り上げていた変装魔法が、一枚また一枚と花びらのように剥がれ落ちていく光景だった。
偽りの姿が消え、本来の姿が露わになっていく。
やがて、光が一際強く輝いた。
誰もが目を細める。
そして光が消えたそこに立っていたのは、フォーマ・バイエンスではなかった。
堂々とした佇まい。
縹色の髪に、スモークバイオレットの瞳。
先ほどまでの青年とは異なる、気品と威厳を備えた顔立ち。
その場にいる誰もが、息をすることさえ忘れていた。
フォーマの部下だった男子生徒の一人が、静かに歩み寄る。
彼が差し出したのは、帝国の紋章が刻まれたマントだった。
男はそれを肩に纏う。
途端、溢れ出す魔力が大広間を満たした。
圧倒的な存在感。
その姿は、この国の誰もが一度は目にしたことのある、ゼレノイ帝国第一皇太子の肖像画そのものだった。
彼はゆっくりと周囲を見回す。
静寂。
誰も言葉を発せない。
その瞬間、会場の端に控えていた帝国の護衛たちが一斉に跪いた。
床に膝をつく音が、波のように広がっていく。
マントを渡した側近が、声を張り上げた。
「──ゼレノイ帝国第一皇太子、ヴァルフォロメイ・ザイン・ゼレノイ殿下に、敬礼!」
「敬礼ッ!」
大広間がビリビリと揺れた。
その声は、単なる挨拶ではない。
彼こそが帝国の次代を担う皇太子であると、ここにいる全員へ告げる宣言だった。
「皇……太子……?」
マルケールの顔から、完全に血の気が引いた。
「そんな……」
「嘘……」
「フォーマ様が……?」
ニコルたちも言葉を失っている。
先ほどまで親しく言葉を交わしていた青年が、まさか一国の皇太子だったなど、すぐに受け入れられるはずもなかった。
だが、エカテリーナだけは違った。
驚きに目を見開きながらも、どこか納得したように彼を見つめている。
思えば、思い当たる節はいくつもあった。
彼の知識の深さ。
何気ない言葉に滲む、国を背負う者としての視点。
そして時折、隠しきれずに垣間見えた、誰かを守る者の威厳。
──ああ、やっぱり。
胸の奥で、何かが静かに腑に落ちた。
ヴァルフォロメイは、そんな彼女へ穏やかに微笑む。
その笑みだけは、フォーマだった頃と何ひとつ変わらなかった。
そして彼は、マルケールへ視線を戻した。
「そうだよ、マルケール殿下」
静かな声だった。
しかし、その一言だけで広間の空気が張り詰める。
ヴァルフォロメイは一歩、前へ出た。
「君がさっきまで散々侮辱していた男の正体だ」
マルケールは何も言えない。
つい先ほどまで、身分も知れぬ留学生と嘲笑っていた相手。
その男が、自分よりも遥かに高い地位にある隣国の皇太子だったのだ。
──いや、地位だけの問題ではない。
彼は、エカテリーナを侮辱するなと警告していた。
それでも嘲り続けた。
その結果、自分が何を敵に回したのか、ようやく理解したのだろう。
その場にいた誰もがただ、目の前の男を見つめていた。
隣国、ゼレノイ帝国。
その第一皇太子。
それが、これまで3年近くエカテリーナの隣で笑っていたフォーマ・バイエンスの正体だった。
そして彼は、もう一度エカテリーナへ手を差し出す。
「改めて」
優しく、けれど今度は誰にも邪魔させないという強い意志を込めて。
「エカテリーナ・フルーネフェルト嬢」
「……はい」
「俺と結婚してほしい」
エカテリーナの瞳から、一粒の涙が零れた。
ずっと欲しかった言葉だった。
誰かに選ばれることではない。
誰かの望む姿を演じることでもない。
ただ、ありのままの自分を見つめてくれる人と、共に生きていくこと。
彼はずっと、それを教えてくれた。
だからこそ、今度は彼女自身の意思で、その手を取る。
エカテリーナは微笑んだ。
「……喜んで」
その瞬間、大広間を大きなどよめきが包み込んだ。
ヴァルフォロメイは彼女の手を取り、そっと口づける。
その眼差しは、帝国の皇太子としてではなく。
ただ一人の男として、愛する人を見つめていた。




