第11話 静かな時間と、ひとつの疑念
エカテリーナの診断結果は、思っていたよりも重かった。
「右足首の骨折です」
医師から告げられた言葉に、エカテリーナは目を丸くした。
「骨折……」
「幸い、綺麗に折れています。適切に固定すれば問題なく治るでしょう」
「どのくらいかかりますか?」
「最低でも1ヶ月。無理をすれば長引きます」
「1ヶ月……」
エカテリーナは小さく息を吐いた。
学園生活において、1ヶ月という期間は決して短くない。
授業もあり定期的な実技もある。
そして何より彼女は王太子の婚約者として、学園で多くの役割を担っていた。
「……皆さんに、ご迷惑をかけてしまいますね」
「そんなことを気にしている場合ではありません」
医師が苦笑する。
「まずは治療に専念してください」
「……はい」
◇
それからエカテリーナは1ヶ月間、学園を休むことになった。
最初の数日は、彼女自身も不安だった。
だがそんな不安とは裏腹に学園では、別の変化が起きていた。
「また今日も一緒にいるぞ」
「王太子殿下とルイス嬢?」
「ああ」
昼休みの中庭。
廊下。
図書室。
食堂。
場所を選ばず、マルケールとバーバラが一緒にいる姿が目撃されるようになった。
「殿下、こちらのお菓子、とても美味しいですよ」
「そうか。なら俺も食べてみよう」
「はい!」
人目を気にする様子すらない。
むしろ見せつけるように距離を縮めていた。
「……婚約者が療養中なのに」
誰かが呟く。
「殿下は何を考えているんだ?」
「分からない」
そしてそれはマルケールだけではなかった。
「バーバラ嬢」
「はい?」
「今日は俺たちと昼食を取らないか?」
側近たちまでバーバラを囲むようになっていた。
「いいんですか?」
「ああ」
「嬉しいです!」
まるで彼女を守るように。
いや外部から隔離するように。
王太子とその側近たちが、バーバラを中心に集まっていく。
以前ならエカテリーナの周囲には、これほど多くの人間がいた。
今はその輪が完全に反転していた。
◇
「……随分と露骨になったわね」
ニコルが呟く。
「ええ」
シシリアが頷く。
「エカテリーナ様がいない間に、好き放題というわけね」
ナナリーは窓の外を見る。
そこにはバーバラを囲むマルケールと側近たちの姿があった。
「でも」
ナナリーは静かに言う。
「私たちは、何も変わらないわ」
「そうね」
「エカテリーナ様が戻ってくるまで、私たちが学園で支えればいい」
3人は頷き合った。
◇
一方その頃のフルーネフェルト公爵邸。
「……ここ、分からないんです」
ベッドの上、足を固定されたエカテリーナが、机の上に広げられたノートを見つめていた。
「どこ?」
「魔法理論のこの部分です」
「ああ、そこは」
向かいに座っていたフォーマが、自分のノートを開いた。
「先生は説明を省いていたんだけど、前の授業でやった術式と繋げると分かりやすいんだ」
「……ああ」
フォーマは紙に簡単な図を書いていく。
「この魔力の流れが、こっちへ向かうでしょう?」
「はい」
「ここで術式が一度反転する」
「あっ……」
「だから次の式がこうなる」
「なるほど……!」
エカテリーナの顔が明るくなる。
「分かりました!」
「良かった」
「ありがとうございます」
「礼なんていいよ。俺も暇だから」
「……本当ですか?」
「本当」
フォーマは笑う。
「でも、俺が来るのが迷惑なら遠慮なく言ってね」
「そんなことありません」
エカテリーナは即答した。
「むしろ……」
「うん?」
「とても助かっています」
少しだけ恥ずかしそうに。
「フォーマ様が授業の内容を教えてくださるので、置いていかれずに済みます」
「なら良かった」
フォーマは持ってきたノートを閉じた。
「それと、これ」
「?」
彼が一冊の本を差し出す。
「本?」
「うん。暇つぶしにどうかなって」
表紙には、帝国文字を使った題名が記されていた。
「……読めます」
「さすが」
エカテリーナは本を手に取る。
「ゼレノイ帝国の歴史を題材にしたミステリー?」
「そう」
「面白そうです」
「帝国の歴史を知らないと少し難しいけどね」
「頑張ってみます」
「分からないところがあったら聞いて」
「はい」
そのやり取りがエカテリーナにとっては、とても心地よかった。
王太子の婚約者として、公爵令嬢として。
優秀でいなければならない。
常に誰かの期待に応えなければならない。
そんな日々の中で、フォーマと話している時だけは、ただの一人の少女でいられる気がした。
◇
「では、今日はこの辺で」
「もう帰るんですか?」
「授業の復習もあるからね」
「……そうですか」
エカテリーナが少し寂しそうな顔をする。
フォーマは思わず笑った。
「明日も来るよ」
「……!」
「だからそんな顔しないで」
「し、していません!」
「してたよ」
「してませんってば!」
二人の小さな笑い声が部屋に響く。
「それじゃあ、また明日」
「はい」
「お大事に」
「ありがとうございます」
扉が閉まる。
エカテリーナはしばらく、その扉を見つめていた。
「……また明日…」
小さく呟く。
そして机の上に置かれた本へ目を向けた。
◇
その日の夜。
エカテリーナはベッドの上で、フォーマから借りた本を読んでいた。
物語は、ゼレノイ帝国の古い貴族家で起きた不可解な事件を追う歴史ミステリー。
帝国の古い風習。
皇族に伝わる逸話。
貴族たちの独特な名前。
読んでいるうちにエカテリーナはふと手を止めた。
「……そういえば」
ページから目を離す。
「フォーマって……」
彼の顔が浮かぶ。
緑色を含んだ黒髪、翠の瞳。穏やかな笑顔。
そして時折見せる、異様なほど鋭い観察眼。
「フォーマ……」
その名前を口の中で何度か転がしてみる。
「……フォロメイ?」
ゼレノイ帝国には独特な愛称文化がある。
特に皇族や貴族の名前では、正式名称からは想像もつかないほど短い愛称が使われることも珍しくない。
そして以前からフォーマは彼女のことを。
「カーチャ」
そう呼んだ。
エカテリーナの愛称。
帝国の言語では知られた呼び方の一つだ。
けれどそれを知っているだけなら、帝国の文化に詳しい外国人でも不思議ではない。
「フォーマ……」
しかし今日エカテリーナは眉を寄せた。
「もしかして……フォロメイから?」
そして一つの名前が頭に浮かんだ。
──ヴァルフォロメイ。
ゼレノイ帝国の皇太子。
帝国の次代を担うとされる人物。
エカテリーナも当然、その名を知っている。
「……まさか」
エカテリーナは首を横に振った。
「そんなわけないわよね」
ゼレノイ帝国の皇太子がわざわざ身分を隠して他国へ留学するなんて。
しかもよりにもよって王太子の婚約者である自分の前に現れるなんて。
「……ないわよね」
自分に言い聞かせる。
「フォーマ様はフォーマ様だもの」
そう言って再び本へ視線を戻す。
だが文字が頭に入ってこない。
「……」
ページをめくる。また戻す。
そしてもう一度。
「フォーマ……」
名前を呟く。
胸の奥に小さな疑念が生まれていた。
もし、もしも。
フォーマという名前が単なる偽名ではなく、ヴァルフォロメイという名から取られたものだとしたら?
エカテリーナは、ふるふると首を振った。
「……考えすぎよ」
そう言いながら、頬が少し熱くなっていることに気づく。
「でも……」
フォーマが持つあの落ち着き、あの知識、あの魔法技術。
そして何より、時折見せる誰にも真似できないほどの威圧感。
「……まさかね」
エカテリーナは本を閉じた。
けれどその夜、彼女はなかなか眠れなかった。
そして同じ頃、王都の別の場所では。
フォーマも静かに夜空を見上げていた。
「……そろそろかな」
彼の視線の先、月明かりの中に淡い魔力の糸が浮かんでいた。
その糸は王太子マルケールのいる方向へ伸びている。
そしてその先には王家の紋章を刻んだ魔力の痕跡。
「王家も動き始めたか」
フォーマは小さく笑った。




