第10話 守った手、その代償
バーバラ・ルイスの暴走は、止まらなかった。
フルーネフェルト公爵家から正式な抗議が届いた後も、彼女は態度を改めるどころか、ますますエカテリーナへ執拗に付きまとうようになっていた。
「エカテリーナ様!」
「……」
廊下を歩いているエカテリーナの後ろから、バーバラが駆けてくる。
「少しお話しませんか?」
「申し訳ありません。これから授業がありますので」
「じゃあ、授業が終わったら!」
「その後は友人たちと予定がございます」
「……いつも誰かと一緒ですね」
バーバラが不満そうに呟く。
エカテリーナは答えなかった。
それが、今の彼女にできる最善だった。
バーバラと二人きりにならない、不用意な会話をしない、何かあれば、必ず誰かに証言してもらう。
ニコル、シシリア、ナナリーをはじめとする令嬢たち。
ニコラスやエレノア、マリアンヌ、アーサー、そして、フォーマ。
誰かしらが必ずエカテリーナの側にいる。
だからバーバラは思うように彼女を追い詰めることができずにいた。
「……どうして」
廊下の向こう、エカテリーナを囲むように歩く生徒たちを眺めながら、バーバラは小さく呟く。
「どうして、みんなあの人の味方をするの……?」
◇
数日後の昼休み。
エカテリーナは図書室へ向かっていた。
今日は珍しく、一人だった。
ニコルたちは教師に呼ばれており、フォーマも別の授業の課題を提出するため教員棟へ向かっている。
「……少しだけですもの」
図書室へ行き、必要な本を借りる。
すぐに皆と合流するつもりだった。
階段を上ったその時だった。
「エカテリーナ様」
「……!」
振り返るとそこには、バーバラが立っていた。
「ルイス嬢……」
「やっと一人になりましたね」
その言葉にエカテリーナの背筋を、冷たいものが走った。
「何かご用でしょうか?」
「ええ」
バーバラは笑った。
「少しだけ、お話がしたくて」
「……」
エカテリーナは警戒しながらも、階段の端へ寄る。
「私は、あなたに何かしたつもりはありません」
「そうですか?」
「はい」
「でも、みんな私を悪者にするんです」
「それは……」
「あなたがいるからです」
バーバラの笑顔が消える。
「あなたさえいなければ」
エカテリーナの瞳が揺れた。
「殿下は私を選んでくれるのに」
「……」
「だから」
一歩、バーバラが近づく。
「あなたには、いなくなってほしいんです」
「バーバラ嬢……」
その瞬間バーバラの足が階段の端へ向かった。
「きゃっ──!」
身体が大きく傾く。
──演技のつもりだった。
「えっ──?」
エカテリーナに突き落とされたように見せる。
それで今度こそ彼女を失脚させる。
そのはずだった。
「──危ない!」
バーバラの身体が、本当に階段から落ちかけた。
「……っ!」
エカテリーナは考えるより先に手を伸ばした。
風が渦巻く。
「風よ!」
咄嗟に放った魔法が、バーバラの身体を包み込む。
落下速度が一気に落ちる。
バーバラの身体が階段の途中でふわりと浮いた。
「え……?」
しかし魔法を発動した反動でエカテリーナの身体が大きく前へ引っ張られた。
「──あっ……」
足が滑る。
「エカテリーナ様!」
バーバラの声、そして、階段を転げ落ちる音が響いた。
「エカテリーナ嬢!」
その瞬間、階下から駆け上がってきたフォーマの目に彼女の姿が映った。
「──!」
フォーマは息を呑んだ。
長い髪が乱れ、身体が階段を転がり、最後にエカテリーナが床へ落ちた。
「カーチャ!」
フォーマが駆け寄る。
周囲にいた生徒たちも、次々に集まってきた。
「エカテリーナ様が……!」
「今、風魔法でバーバラ嬢を助けたぞ!」
「バーバラさんが落ちそうになって、それをエカテリーナ様が助けた!」
「なのに……エカテリーナ様が落ちた!」
証人はいくらでもいた。
◇
「エカテリーナ!」
マルケールが駆けつけた。
その目に映ったのは階段の下で倒れているエカテリーナ。
そして無事に立っているバーバラ。
「バーバラ!」
「殿下……」
「大丈夫か!?」
「はい……」
バーバラは震える声を出す。
「私は……」
そしてマルケールが振り返った。
「エカテリーナ!」
怒声。
「お前、何をした!」
「……違います」
エカテリーナは痛みに顔を歪めながら答える。
「私は……バーバラ嬢を……」
「バーバラは悪くない!」
マルケールが叫んだ。
「お前が何かしたんだろう!」
その瞬間、周囲の空気が凍った。
「……」
誰も何も言わない。
ただ冷たい視線がマルケールへ向けられる。
コツ。
コツ。
誰かが歩いてくる。
フォーマだった。
「……」
フォーマは何も言わない。
ただ倒れているエカテリーナの前に膝をつく。
「カーチャ」
「……フォーマ、様」
「怪我は?」
「……足が、痛くて……」
その声を聞いた瞬間、フォーマの顔から、完全に表情が消えた。
「分かった」
彼はエカテリーナの身体へ腕を回す。
「え……?」
「医務室へ行こう」
そして彼女を横抱きに抱き上げた。
「……!」
周囲の生徒たちが息を呑む。
だがそれ以上に、フォーマから放たれているものに、誰もが言葉を失った。
──殺気。
これまでの穏やかな留学生とは、まるで別人だった。
冷たく鋭い、凍りつくような怒気。
マルケールでさえ思わず言葉を失った。
「……」
フォーマは何も言わない。
ただエカテリーナを抱えたまま、医務室へ向かって歩き始めた。
「……フォーマ様」
「喋らなくていいよ」
「でも……」
「今は何も考えなくていい」
「……はい」
エカテリーナはフォーマの胸元へ、そっと手を置いた。
その手が僅かに震えている。
「道を開けて!」
ニコルの声が響く。
「怪我人が通ります!」
シシリアが周囲へ声をかける。
「先生を呼んで!」
ナナリーが走り出す。
「医務室へ!」
三人の令嬢たちは、フォーマの前後を囲むようにして人を退かせていく。
誰もが道を開けた。
その中央をフォーマはエカテリーナを抱いたまま歩いていく。
「……」
誰も口を挟まない。
マルケールさえ何も言えずに、ただフォーマの背中を睨みつけている。
◇
医務室。
「足首を痛めていますね」
医師が診察する。
「骨折の可能性があります。動かさないでください」
「……分かりました」
フォーマはベッドの横に立っていた。
エカテリーナは不安そうに彼を見る。
「フォーマ様」
「うん?」
「……怒っていますか?」
「……」
フォーマは少し黙った。
「怒ってるよ」
「……私に?」
「違う」
即答だった。
「君に怒る理由なんてない」
エカテリーナの瞳が揺れる。
「じゃあ……」
「君を傷つけた状況そのものに腹が立ってる」
「……」
「君は」
フォーマは静かに言った。
「自分が落ちるかもしれないのに、バーバラ嬢を助けたんだろ?」
「……はい」
「どうして?」
「だって……」
エカテリーナは困ったように笑った。
「人が落ちそうになっていたら、助けるでしょう?」
「……そうだね」
フォーマは目を伏せた。
「君はそういう人だよ」
◇
その頃。
階段にはまだ多くの生徒が残っていた。
バーバラが落ちそうになり、エカテリーナが風魔法で彼女を助けたこと、そしてその直後にエカテリーナ自身が階段から転落したことを、誰もが目撃していた。
もはや誰も『エカテリーナがバーバラを突き落とした』などとは思わなかった。
「……まただ」
誰かが呟いた。
「また、エカテリーナ様が悪者にされるところだった」
「でも今回は……」
「みんな見てたわ」
「言い逃れできないよ」
その言葉は瞬く間に広がっていった。
そしてこの日、学園内で決定的に変わったものがあった。
エカテリーナへの同情ではない。
“バーバラへの不信感だった“
そしてマルケールへの疑念もまた、これまで以上に大きくなっていた。
◇
医務室の外。
フォーマは一人、窓の外を見ていた。
手のひらを握る。
「……」
脳裏に階段から落ちるエカテリーナの姿が焼き付いて離れない。
フォーマは静かに目を細める。
「……」
もう、ただの観察では済まさない。
エカテリーナが傷ついた。
その事実だけでフォーマが動くには十分だった。
そして彼の中で、一つの決意が固まり始めていた。
──この国で何が起きているのか全部、調べる。
そして彼女をこれ以上、誰にも傷つけさせない。




