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魔王城の目の前で、僧侶が退職代行を使ってきた  作者: 小説家になれない人


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第6話:魔法使いの設計図

魔族の集落は、魔境の縁に寄り添うように存在していた。


人間の街のように煌びやかではない。石造りの家々は質素で、市場に並ぶ品物も慎ましい。だが、そこには確かな温もりがあった。夕暮れになれば炊事の煙が上がり、子どもたちの声が路地に響いた。


モルガンは、その集落で生まれた。


父は魔境の最前線で戦う魔族の武人で、母は薬草と魔法陣の研究者だった。二人とも、その道では名の知れた存在だった。


だが、モルガンが最も尊敬していたのは、十歳年上の兄だった。


ソロモン。


集落の誰もが一目置く存在だった。戦えば無敗、語れば場を制す。その瞳には、常に冷静な知性の光があった。しかし、それだけではない。どんな状況でも揺らがない判断力と、同胞への深い愛情。その二つが共存しているのが、兄ソロモンだった。


「モルガン、魔獣を恐れるな」


幼い頃、兄はよく言った。


「恐れるべきは、魔獣そのものではない。魔獣を生み出し続けるこの『仕組み』だ。敵の本質を見誤れば、いくら戦っても終わりは来ない」


幼いモルガンには、その言葉の意味がよく分からなかった。


だが、その意味を理解する日は、思いのほか早く訪れた。


モルガンが十二歳の冬だった。


その夜、魔境から異常な数の魔獣が溢れ出した。


父と母は、集落を守るために最前線へ向かった。二人とも、その実力は折り紙付きだった。余裕を持って退けられるはずだった。


だが、明け方になっても、二人は帰ってこなかった。


父の得物だけが、血に染まって転がっていた。


モルガンは、その場に座り込んだまま、長い時間、動けなかった。


強くても、死ぬ。


どれだけ戦っても、魔獣は減らない。それどころか、年々数が増えている。


個人の力でどうにかなる問題ではない。


魔境そのものを、止めなければならない。


兄のソロモンは、両親の死から三日後、静かに剣を取った。


「俺は戦い続ける。同胞を守るために」


その目には、悲しみよりも、揺るぎない決意があった。


モルガンは、兄の背中を見ながら、別の道を選んだ。


(戦うだけでは、終わらない。仕組みを変えなければ)


それが、モルガンの出発点だった。


モルガンは魔獣の研究を始めた。


その生態、繁殖のサイクル、魔境との関係。魔力の流れ、汚染の拡大パターン。


同時に、人間社会への潜入も始めた。


魔族は変身と隠蔽の魔法に長けている。モルガンの才能は特にそこにあった。人間に姿を変え、人間の街に溶け込み、人間の知識体系を吸収していった。


魔法学院に入学し、首席で卒業した。王立研究所に籍を置き、魔獣対策の分野で頭角を現した。


人間社会での地位を積み上げながら、モルガンはずっと同じことを考え続けていた。


(人類と魔族、両側から魔境を封じ込める方法はないか)


単独では限界がある。兄ソロモンが守る魔族側の防波堤だけでは、拡大し続ける魔境を止めきれない。人間側からも押さえ込む仕組みが必要だった。


その突破口が、突然現れたのは、ある秋の報告書の中だった。


辺境の村で、一人の青年が魔獣の群れを単独で壊滅させた。


しかも、一人の死傷者も出さずに。


モルガンは、その報告書を三度読み返した。


これまでも魔獣を単独で制圧した人間はいた。しかし、群れを相手に、村人全員を守り切った例は記録にない。


(……この男なら、できるかもしれない)


ジークフリートという名の、元農民の青年。


モルガンは、その人物の詳細を調べ尽くした。戦闘スタイル、精神的な強さ、民衆への影響力。調べれば調べるほど、確信が深まっていった。


この男を中心に据えれば、人類側に魔境の防波堤を築ける。


モルガンは、設計図を描き始めた。


魔境との境界線上に構築する、大規模な防衛拠点。人間の建造技術を結集した、魔獣を封じ込めるための要塞。物資の流通路、補給拠点の配置、雇用の創出。地方の過疎化を食い止め、食糧難を根本から解決する、国家規模の再建構想。


兄ソロモンが魔族側で守り続けてきた城と、対になるものだ。


兄が一人で背負ってきた重荷を、人間側と分かち合うための設計図。


モルガンは、その計画書を王国の上層部に提出した。


胸の内には、珍しいほどの高揚感があった。


これが通れば、すべてが変わる。


返答は、一週間後に届いた。


薄い封筒の中に、たった一枚の書面。


「当該提案については、現時点での採用を見送ることとする」


理由の記載は、なかった。


モルガンは、その書面をしばらく見つめた。


怒りはあった。だが、それよりも重くのしかかってくるのは、別の感覚だった。


(……見覚えがある)


これは、集落で何度も見てきた光景だ。


魔族の中にも、声を上げる者はいた。現状を変えようとする者はいた。だが、集落の長老たちは決まってこう言った。「今は時期ではない」「余計な波風を立てるな」「お前一人が動いても何も変わらない」。


人間の組織も、魔族の集落も、構造は同じだった。


変化を求める声は、変化を恐れる者たちによって、静かに、しかし確実に潰される。


潰す側は悪人ではない。ただ、今の場所が居心地いいだけだ。波風が立てば困るだけだ。だから潰す。


そしてその構造を支えるのは、潰す側だけではない。


(「余計なことをするな」と言った者たち。「お前だけ目立とうとするな」と言った者たち。「みんな我慢しているんだから」と言った者たち)


その言葉を受け取って、黙った者たち——かつての自分も含めて。


モルガンは、書面を机の上に置いた。


この怒りを、どこへ向けるか。


組織を呪っても、何も変わらない。絶望して足を止めても、兄は今日も一人で戦っている。


一つの道が潰されたなら、別の道を探せばいい。


それだけのことだ。


翌日、上役に直接掛け合った。


「なぜ却下されたのか、理由を教えてください」


上役は、視線を逸らしながら言った。


「……予算の問題だ。それに、魔族との共同事業など、民衆が納得しない」


嘘だ、とモルガンはすぐに分かった。


予算の問題ではない。この計画が通れば、魔族という「共通の敵」が消える。外敵への恐怖がなくなれば、民衆は内側の腐敗に目を向け始める。それが、王国上層部にとっての本当の「問題」だった。


数日後、モルガンに辞令が届いた。


「勇者パーティへの参加を命ずる」


その文面を読んだ瞬間、モルガンは全てを理解した。


厄介者の排除だ。


その夜から、モルガンは眠れなくなった。


天井を見つめながら、同じ考えが頭の中をぐるぐると回り続けた。


(何年かけて積み上げてきたんだ。研究も、地位も、人間関係も。全部、このためだった)


怒りはあった。だが、それ以上に重くのしかかってくるのは、虚脱感だった。


正しいことをした。誰よりも緻密に考え、誰よりも丁寧に準備した。それでも、腐敗した組織はそれを握り潰した。


(……もしかしたら、最初から無理だったのかもしれない)


人間の組織は変わらない。どれだけ内側から働きかけても、権力を持つ者たちが変化を望まない限り、何も動かない。


そんなことは、最初から分かっていたはずだ。


なのになぜ、期待してしまったのか。


二日目の夜も、眠れなかった。


魔境の拡大は止まらない。兄は今も一人で戦っている。自分がここで足踏みをしている間も、どこかの村で誰かが魔獣に殺されているかもしれない。


(俺は、何をしているんだ)


焦りと絶望が、交互に波のように押し寄せてきた。


三日目の朝、モルガンは部屋を出た。


このまま部屋に籠っていても、何も変わらない。それだけは分かっていた。


王都の朝は、騒がしかった。


市場の掛け声、馬車の音、子どもたちの笑い声。いつもと変わらない光景が、モルガンには酷く遠くに感じられた。


あてもなく歩き続けた。


王都の外れに差し掛かった頃、聞き慣れない笑い声が耳に入った。


子どもの声だ。しかも、一人ではない。


路地の先に、小さな石造りの建物があった。


外壁は所々が欠け、看板も古びている。だが、その前の広場には、大勢の子どもたちが集まって遊んでいた。


入り口に、小さな看板が掲げられていた。


『グレース院』


孤児院だ。


モルガンは、足を止めた。


その時、建物の中から一人の女性が出てきた。


白い法衣を纏った、若い聖職者。目の下には疲労の色が滲んでいるが、子どもたちの顔を見た瞬間、その表情がほころんだ。


「リリー、そんなところで転んだら危ないわよ」


一番幼い女の子が、転びかけた拍子に笑い出す。つられて周りの子どもたちも笑う。


その聖職者も、ほんの少しだけ、笑った。


モルガンは、その光景をしばらく眺めていた。


(……似ている)


何に、とは言えない。だが、確かに、何かに似ていた。


記憶の底を探っていくと、それは出てきた。


子どもの頃の、自分たちだ。


集落の広場で、兄と遊んでいたあの頃。両親がまだ生きていて、魔境の脅威はあったけれど、それでも笑っていられたあの頃。


あの聖職者は、あの子どもたちにとって、何なのだろう。


守ろうとしている人間がいる。守られている子どもたちがいる。


それは、兄が同胞のために剣を取った理由と、どこか同じものだった。


(……兄さん)


モルガンは、胸の奥に何かが戻ってくるのを感じた。


そうだ。自分がこれをやろうとしたのは、組織を変えたかったからではない。


兄を守りたかったからだ。両親の死を、ただの喪失で終わらせたくなかったからだ。


あの子どもたちのような存在が、これ以上傷つかない世界を作りたかったからだ。


王国への失望は変わらない。


だが、目的は変わらない。


(誰かが変えてくれるのを待つのをやめよう。自分で動けばいい)


組織に期待するから、裏切られる。最初から自分で動けばよかった。


モルガンは、その場に立ったまま、静かに息を吐いた。


胸の中で、何かが凪いでいくのが分かった。


怒りも、絶望も、消えたわけではない。だが、それらは今、静かに燃料へと変わっていた。


モルガンは踵を返し、部屋へ向かって歩き始めた。


やるべきことは、山ほどある。


勇者パーティへの参加辞令を受け取った日の夜、モルガンは荷物をまとめた。


最後に、一つだけ手紙を書いた。


宛先は、魔王城。


内容は短かった。


『計画通りには進まなかった。だが、別の道を行く。――M』


手紙を封じ、使い魔に託した。


それから、旅支度を整えた。


王国への未練は、もうなかった。


旅が始まって、モルガンはひたすら観察した。


ジークフリートという男を。テオドールという女を。そして、このパーティという歪な組織を。


ジークフリートは、思っていた通りの男だった。真っ直ぐで、強く、使命感に溢れている。だが、その純粋さゆえに、構造を疑うことができない。自分が置かれた状況の異常さに、気づいていない。


それは今は仕方がない。気づく時が来れば、あの男は動く。モルガンにはそれが分かった。


一方で、テオドールの消耗は、日を追うごとに深刻になっていった。


目の下の隈が濃くなる。食事の量が減る。深夜に一人で薬草を刻み続ける背中が、少しずつ小さくなっていく。


(……このままでは、壊れる)


モルガンは、その変化を誰よりも正確に捉えていた。


テオドールが何のために戦っているかも、調べれば分かった。


王都の外れにあるグレース院。あの白い法衣の聖職者が、あの子どもたちのために、限界を超えて働き続けている。


(あの孤児院の子どもたちのために、か)


モルガンの胸に、あの朝の光景が蘇った。


広場で転びかけて、笑い出した一番幼い女の子。それを見て、ほんの少しだけ笑った聖職者の横顔。


あれは、本物だった。


このまま旅を続ければ、テオドールはグレース院に帰れなくなるかもしれない。


体が壊れるか、心が折れるか、あるいは魔境のどこかで命を落とすか。


それは、モルガンには許せなかった。


守ろうとしている人間が、守られる前に消えていく。


それは、両親が死んだあの夜と、同じだ。


(……私が、動けばいい)


モルガンは、ある計画を立て始めた。


嵐の夜だった。


魔境の暗闇を激しい雨が叩き、風が焚き火を何度も消した。


魔獣の夜襲が二度あり、テオドールは朦朧とした意識のまま回復魔法を行使し続けた。夜襲が収まった頃には、彼女の魔力はほぼ空だった。


皆が泥のように眠りに落ちた後、モルガンは静かに天幕を抜け出した。


そして、隠蔽魔法を展開し、変身魔法を重ねがけした。


鏡に映るのは、モルガンの顔ではない。フードを深く被った、正体不明の女の姿だった。


(……嵐の夜はいい。魔力の気配が掻き消される)


モルガンは、テオドールが一人で座っている天幕の端へと向かった。


その背中は、旅の始まりよりずっと小さくなっていた。


膝を抱え、どこか遠くを見ている。


モルガンは、天幕の入り口に立った。


「……辛そうね」


テオドールが振り向く。警戒の色が滲む目。


当然だ。嵐の夜に、見知らぬ女が現れたのだから。


「……誰ですか」


「通りすがりの者よ」


モルガンは、向かいに腰を下ろした。


嵐の音が、天幕を包んでいた。


テオドールと話しながら、モルガンは注意深く言葉を選んだ。


自分の正体を、悟られてはいけない。


だが、この女性に、本当のことを伝えなければならない。


働いても報われないのに耐え続けることは、消耗でしかない。足を踏み出さなければ、何も変わらない。


そして、あなたには帰るべき場所がある。


一枚の名刺を、テオドールの前に置いた。


『退職代行サービス・リスタート』


テオドールが、その名刺を長い時間、見つめていた。


「……私が抜けたら、パーティはどうなりますか」


「それはあなたが背負うべき問題ではないわ」


モルガンは、静かに、しかしはっきりと言った。


「ただ、一つだけ言っておく。あなたがここを離れることは、逃げることじゃない。次の一歩のための、助走よ。グレース院に帰って、子どもたちのために立て直して、そしてまた前へ進む。……あなたがやるべきことは、まだ終わっていないから」


その言葉は、テオドールに向けたものであると同時に、かつての自分に向けたものでもあった。


王国に計画書を握り潰され、絶望した夜の自分に。


王都の外れで、グレース院の子どもたちを見た朝の自分に。


足を止めなければ、道は開ける。


テオドールが顔を上げた時、モルガンは静かに立ち上がった。


変身魔法を解く前に、一瞬だけ、テオドールの横顔を見た。


(……必ず、帰してみせる。グレース院へ)


モルガンは、嵐の中へ消えた。


それから、旅はさらに過酷さを増した。


だが、テオドールの目に、かすかな変化が生まれていた。


決意の色だ。


モルガンには分かった。あの夜の言葉が、届いたのだと。


そして魔王城に辿り着いた朝、テオドールは退職代行を通じてパーティを去った。


モルガンは、それを黙って見ていた。


(よかった)


ただ、それだけを思った。


今度は、自分の番だ。


ジークフリートが魔王城の最上階へ向かうのを見送りながら、モルガンは静かに後に続いた。


兄に会う時が、来た。


人間の世界ではソロモンは魔王で、自分は魔法使いだ。


だが、この城の中では。


ただの兄と、妹だ。


何年ぶりだろう、と思いながら、モルガンは廊下を歩いた。


その足取りに、迷いはなかった。

読んでいただきありがとうございます!

いよいよ今夜19時の最終話で完結です。

最後まで見届けていただけると嬉しいです。

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