最終話:選択
魔王城の外壁は、一年前と変わらず横に長く、頑強に大地に根を張っていた。
だが、その前に広がる光景は、まるで違っていた。
整然と並ぶ人類の軍勢。旗を掲げた騎士団、鎧に身を包んだ歩兵、そして後方に控える文官たち。その中央に、ジークフリートは立っていた。
かつて、たった数人で命からがら辿り着いたこの場所に、今は国家の代表として戻ってきた。
魔王城の門が、ゆっくりと開いた。
現れたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ魔族の兵たちだった。整然とした隊列、統率の取れた動き。その先頭に、見覚えのある人物が立っている。
魔王ソロモン。
一年前と変わらず、漆黒のスーツを纏い、眼鏡の奥の瞳に冷静な光を宿している。その両脇には、四天王と呼ばれる魔族の精鋭たちが控えていた。
ジークフリートは、その光景を見渡して、思わず口を開いた。
「……ずいぶんと、今日は子分がいるんだな、魔王」
ソロモンは、表情を変えずに答えた。
「君が戦いに来ていないのなら、城から追い出す必要はないだろう。……ならば、相応の形式を整えるのが礼儀というものだ」
ジークフリートは、小さく笑った。
「違いない」
千年の歴史を持つ人類と魔族の対峙が、その一言で、静かに挨拶へと変わった。
○
会談の場は、魔王城の応接室だった。
あの日と変わらないアロマの香り。壁のポスターも、そのままだった。
『アットホームな職場です』『年間休日百二十日以上』
ジークフリートは、そのポスターを一瞥して、小さく息を吐いた。
あの日、魔王を倒しに来たはずのこの部屋に、今は一国の代表として戻ってきた。
人生とは、分からないものだ。
会談のテーブルを挟んで、ジークフリートとソロモンが向かい合って座った。
テーブルの端に、一人の人物が書記として座っていた。
白い法衣ではなく、整ったオフィスカジュアル。手元には羽根ペンと書類。目の下のクマは、もうない。
テオドールだった。
ジークフリートは、その横顔をしばらく見つめた。
あの頃の疲弊しきった表情は、跡形もなかった。穏やかで、落ち着いていて、どこか凛としている。
(……よかった)
「テオドール」
ジークフリートは、静かに声をかけた。
テオドールが顔を上げた。一瞬、驚きの色が滲んだが、すぐに柔らかい表情に戻った。
「……ジークフリート様。いえ、今は……王様、ですね」
「よせ、そんな呼び方は。……元気そうで、よかった」
ジークフリートは、言葉を選びながら続けた。
「旅の間、お前に無理をさせていた。俺が現場のリーダーとして、異常な状況を異常だと声を上げなかったせいだ。……遅くなったが、謝らせてくれ」
テオドールは、少し間を置いた。
「……私こそ、きつく当たりすぎました。言い方が乱暴だったと、ずっと気になっていたんです」
「気にしないでくれ。全部、正しいことだったんだから」
二人は、目を合わせて、小さく笑った。
それだけで、旅の間に積み重なっていた何かが、すっと溶けていくような気がした。
ソロモンが、静かに口を開いた。
「……それにしても」
どこか愉しげな、しかし感心したような声だった。
「一年で、王国を終わらせ、君が人類の代表として条約を取り決めに来るとは。さすがのカリスマだな。……君を選んだのは、正解だった」
ジークフリートは、ソロモンを真っ直ぐに見た。
「白々しいな、魔王」
ソロモンは、涼しい顔で微笑んだ。
○
あの魔王城からの帰路のことを、ジークフリートは今でも鮮明に覚えていた。
テオドールは、魔王城に残った。
門の前で、彼女は一度だけ振り返り、小さく頭を下げた。ジークフリートも、黙って頷き返した。それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。
魔王城の門を出た瞬間、外で待ち構えていたのは四天王率いる魔族の軍だった。
剣呑な空気が走ったが、四天王の一人が静かに告げた。
「魔境を安全に渡るルートへご案内いたします」
ジークフリートは、その言葉の意味を測りかねたまま、従うしかなかった。
魔族の案内で進んだ魔境は、来た時とまるで違っていた。魔獣の気配が薄く、危険な地帯を巧みに回避するルートが取られ、数日がかりの踏破が、驚くほど短期間で完了した。
(……魔族は、魔境の渡り方を知っている。当然か、何百年もここで戦い続けてきたんだから)
来た時には、ずっと感じていた魔獣の殺気が、帰路ではほとんどなかった。
まるで、自分たちが通ることを、誰かが事前に知らせていたかのように。
(……魔王城に、部下が誰もいなかった理由も、同じかもしれない)
ソロモンは最初から、自分たちが来ることを知っていた。配下の魔族を退かせ、対話の場を整えていた。
誰かが、到達日を伝えていた。
その「誰か」が誰なのか、ジークフリートにはまだ分からなかった。
○
国境の砦が見えてきた夕暮れ、モルガンが足を止めた。
「私は、ここで別れるわ」
「……どこへ行く」
「研究所に戻る。魔獣と魔境について、これまで調べてきたことをまとめて、公に発表する準備をするの」
モルガンは、いつもと変わらない淡々とした声で言った。
「あなたは、真っ直ぐ王都へ戻らないで」
「なぜだ」
「魔王の言葉を忘れたの? 勇者が魔王を倒さずに帰ってきた。王にとって、それがどういう意味を持つか。……何の後ろ盾もないまま王都に入れば、あなたは翌朝には『反逆者』よ」
ジークフリートは、言葉に詰まった。
その通りだった。帰ったら、広場に立って全てを話すつもりでいた。だが、それをした瞬間に何が起きるか、考えていなかった。
(……また、前だけを見て走ろうとしていた)
「なら、俺はどうすればいい」
「それは、あなたが決めることよ」
モルガンは、それだけ言って背を向けた。
その背中が夕闇に溶けていくのを、ジークフリートはしばらく見送っていた。
それが、モルガンの姿を見た最後になった。
○
ジークフリートは、王都には向かわなかった。
代わりに、国境沿いの宿場町に宿を取り、考えた。
自分一人が声を上げても、潰される。テオドールが教会で声を上げ続けて、何も変わらなかったように。
声を上げるなら、潰されない形で上げなければならない。
三日目の朝、宿の主人が一通の手紙を差し出した。差出人の名はなかった。
中身は、魔境との境界近くに領地を持つ、老貴族への紹介状だった。
手紙の末尾には、一言だけあった。
『動きなさい。――M』
ジークフリートは、その一文字を見つめた。
思い当たる人物が、一人いた。
だが、その時は確信が持てなかった。
○
老貴族の屋敷は、魔境の濁った空がすぐそこに見える丘の上にあった。
通された書斎で、ジークフリートは全てを話した。魔境の実態。王国が補給も支援もなく、自分たちを死地へ送り込んだこと。故郷の村が、魔獣ではなく飢えで滅んだこと。魔族が、何百年も魔獣と戦い続けてきたこと。
老貴族は、最後まで黙って聞いていた。
話が終わると、しばらく窓の外を眺めてから、静かに口を開いた。
「……息子を、魔獣に奪われた。十年前だ」
ジークフリートは、息を呑んだ。
「王都に救援を求めた。返事は来なかった。……あなたの話は、全部本当のことだ」
老貴族は、机の引き出しから一枚の書状を取り出した。
「一年ほど前、ある者がここを訪ねてきた。時が来たら、一人の男があなたを訪ねる、と言い残してな」
老貴族は、ジークフリートを真っ直ぐに見た。
「待っていたよ、勇者殿」
○
そこから先は、一歩ずつだった。
老貴族の紹介で、ジークフリートは辺境の領主たちを一人ずつ訪ねて回った。魔獣の被害を受けながら、中央から何の支援も得られなかった者たち。郊外で重税に喘ぐ商人たち。改革を訴えて閑職に追いやられた官吏たち。
門前払いされることもあった。罵声を浴びせられたこともあった。
だが、何人かは、長い沈黙の後に頷いた。
そうして季節が一つ巡る頃、王立研究所から一本の論文が発表された。
魔獣の生態、繁殖の周期、魔境の拡大の仕組み。そして、魔族こそが何百年にもわたって魔獣を食い止めてきた防波堤であるという事実。膨大な観測記録に裏打ちされたその内容を、研究所の誰も否定できなかった。
論文の筆頭に記された名は、モルガンだった。
だが、発表の場に、本人の姿はなかった。
研究所の彼女の部屋は、塵一つ残さず片付けられていたという。
モルガンは、それきり消息を絶った。
○
論文の発表と、辺境の領主たちの連名による告発状。その二つが揃った時、ジークフリートは初めて王都の広場に立った。
今度は、一人ではなかった。
背後には、辺境から集まった領主たちと、その兵たちがいた。
ジークフリートは、剣ではなく言葉を抜いた。
魔境の実態。王国が補給も支援もなく、自分たちを死地へ送り込んだ事実。辺境の村々が重税と食糧難で滅びていく現実。そして、王都の倉庫に積み上げられた、腐らせても余るほどの食糧のこと。
一つ一つを、包み隠さず、民衆に語った。
広場は、静まり返った。
ジークフリートは、一度だけ深く息を吸った。
ここからが、本当に言わなければならないことだった。
「……だが、俺は王国だけを責めるために、ここに立ったんじゃない」
ざわめきが、止まった。
「俺も、間違っていた」
民衆が、顔を見合わせた。英雄の口から出るはずのない言葉だった。
「俺の仲間に、一人の僧侶がいた。二年間、毎晩ほとんど眠らずに、俺たちの傷を癒し続けた。自分の金で薬を買い、夜中に薬草を刻んで、パーティの食い扶持まで稼いでいた。……俺は、それを知っていた」
ジークフリートの声が、わずかに掠れた。
「知っていて、こう思っていた。みんな苦しいんだ、俺だって苦しいんだ、だからお前も我慢しろ、と。口に出したことはない。だが、そういう空気を作ったのは俺だ。そいつは結局、自分が何のために戦っているのか、旅の間一度も口にできなかった」
広場の片隅で、誰かが俯いた。
「俺の故郷は、魔獣ではなく、飢えで滅んだ。村の皆は、王国に見捨てられても声を上げなかった。勇者の足を引っ張るわけにはいかないと、笑って俺を送り出した。……その我慢の上に、俺は乗っかって走っていた」
ジークフリートは、広場を見渡した。
農夫がいた。職人がいた。子どもを抱えた母親がいた。疲れ切った顔の、ありふれた人々だった。
「ここにいる皆も、きっと我慢してきたはずだ。重い税にも、足りない食事にも、理不尽な命令にも。みんな同じだから、自分だけ文句を言うわけにはいかない。そうやって耐えてきたはずだ」
誰も、否定しなかった。
「それは、強さだと思う。俺もずっとそう思っていた。……だが、それだけじゃなかった」
ジークフリートは、拳を握った。
「自分が我慢すれば、隣の誰かにも我慢を求めるようになる。『俺だって耐えてきたんだ』と。そうやって我慢は次の誰かに押しつけられて、誰も声を上げないまま、理不尽だけが当たり前になっていく。それを一番喜ぶのは、我慢させている側だ」
風が、広場を吹き抜けた。
「俺は、その仕組みの中で、一番従順な部品だった。勇者と呼ばれて、誰よりも我慢して、誰よりも周りに我慢させていた」
ジークフリートは、ゆっくりと頭を下げた。
「……すまなかった」
英雄が、民衆に頭を下げていた。
長い沈黙があった。
やがて、ジークフリートは顔を上げた。
「だから、もう我慢を美徳と呼ぶのはやめにしたい。おかしいと思ったら、おかしいと言っていい。隣の誰かが声を上げた時は、黙らせるんじゃなく、耳を傾けてほしい。……俺は、それができなかったから」
広場は、静まり返ったままだった。
やがて、どこかで、誰かが声を上げた。
「……うちの村も、そうだった」
一人。また一人。
堰を切ったように、声が広がっていった。重税のこと。飢えた冬のこと。誰にも言えずにいたこと。怒号と嘆きと涙が、波のように広場を満たしていった。
それは、ジークフリートが二年間、一度も聞こうとしなかった声だった。
同じ頃、どこからともなく届く物資が、貧困に苦しむ村々に配られ始めた。
(……これも、誰かが動いている)
物資の出所は分からなかった。だが、その量と速度は、個人にできる規模ではなかった。
王国の腐敗が白日の下に晒され、民衆の怒りが頂点に達した時、王は静かに退位した。
革命ではなかった。暴動もなかった。
まるで、丁寧に準備された舞台の上で、すべてが粛々と進んでいくような、不思議な静けさだった。
○
王位を継ぐことが決まった日の夕方、ジークフリートは一人で王都の外れへ足を向けた。
どうしても、確かめておきたい場所があった。
石造りの、小さな建物。看板には『グレース院』とあった。
ジークフリートは、門の前で足を止めた。
思っていた光景とは、違った。
外壁の欠けは塗り直され、屋根には新しい瓦が葺かれていた。広場では、子どもたちが元気に駆け回っている。痩せこけた子は、一人もいなかった。
門の掃除をしていた年長の少年に声をかけると、少年は誇らしげに言った。
「テオドール姉ちゃんの知り合いだっていう薬師さんが、毎月来てくれるんだ。食べ物とか、薬とか持って。屋根も、その人の仲間が直してくれた」
「……その薬師は、どんな人だ」
「優しい人だよ。でも、ちょっと変わってる。姉ちゃんのこと、ソロモン様からよろしく頼まれてるって、いつも言ってた」
ジークフリートは、しばらく言葉が出なかった。
テオドールが魔王城に残った、あの日から。
あの男は、約束を守り続けていたのだ。テオドールに対してだけではない。テオドールが守りたかったものに対しても。
広場の隅で、一番小さな女の子が転んで、すぐに笑いながら起き上がった。
ジークフリートは、門の前で小さく頭を下げ、その場を後にした。
(……何もかもが、出来すぎている)
ジークフリートには、その「準備」をした者の輪郭が、おぼろげに見え始めていた。
だが、確信はなかった。
そしてその確信を得る日は、今日まで持ち越されていた。
○
「では、本題に入ろう」
ソロモンが、書類を取り出した。
「条約の内容について、確認させてくれ」
ジークフリートは頷き、自らも書面を広げた。
「一、人類と魔族の平和協定。互いの生存圏を侵さず、武力による解決を放棄する」
「異論なし」
「二、共同による魔境の抑制。魔境の拡大防止のための情報共有、および共同作戦の実施」
「当然だ。我々だけでは限界がある」
「三、互いの法律の統一化。人類と魔族の交流を促進するために、共通の法的基盤を整える」
ソロモンは、その項目で少し間を置いた。
「……これは、時間がかかるぞ。千年分の違いがある」
「分かっている。だから、まず共通の原則だけを定めて、細則は段階的に整備する。テオドール、そこの条文を読んでくれ」
テオドールが書類を手に取り、淀みなく読み上げた。その声には、旅の頃の疲弊はなく、明確な意志の力があった。
ソロモンは、条文を聞きながら静かに頷いた。
「……なかなか、よく整理されている」
「テオドールが書いた」
ジークフリートが言うと、テオドールは少し照れたように視線を落とした。
「外交官として、まだ勉強中です。ですが……こういう仕事が、自分には合っていると思っています」
「そうだろう」とジークフリートは言った。「お前は、最初からこういう場所にいるべき人間だったんだ」
テオドールは、それ以上何も言わなかった。ただ、小さく笑った。
ソロモンが、書類を一枚取り出した。
「さて、条約の内容については概ね合意できそうだ。だが、もう一つ、私から提案がある」
「聞こう」
「魔境の中心部には、ダンジョンがある」
ジークフリートは、眉を上げた。
「ダンジョン?」
「そこから、特に強力な魔獣が定期的に溢れ出している。魔境の拡大は、その影響が大きい。言わば、魔境という病の根源だ。この根源を断たなければ、防波堤をいくら強化しても、いたちごっこになる」
「……根源を、断つ」
「そのためには、魔境の内部に共同の攻略拠点を設ける必要がある。国家の事業として、人類と魔族が共同で建設し、共同で運営する。そこを起点に、ダンジョンの攻略を進める」
ジークフリートは、少し考えてから頷いた。
「……理にかなっている。了承する」
「では、設計図を見てもらおう」
ソロモンが差し出した書面には、緻密な設計図が描かれていた。
魔境の内部に築く攻略拠点。防衛ラインの配置、物資の流通路、補給拠点の位置。
ジークフリートは、その設計図を食い入るように見た。
(……見覚えがある)
どこかで見た構造だ。魔王城の横長で頑強な造りと、どことなく似ている。そして、もう一つ。
あの日、ソロモンから渡された図面。王国に帰る前に受け取ったあの設計図と、根幹の発想が、完全に一致していた。
「……相変わらず、準備がいいな」
ジークフリートは、静かに言った。
「この拠点の最初の責任者は、こちらで用意する」
ソロモンがそう言って、部屋の扉へと視線を向けた。
「入れ」
扉が開いた。
マントを深く被り、顔を隠した人物が入ってきた。魔法がかかっているのか、その素顔は霞がかかったように見えない。
だが、ジークフリートは、その人物が部屋に入ってきた瞬間に、分かった。
背格好。立ち姿。歩き方。魔法の気配。
二年間、生死をともにした仲間だ。
「……モルガン」
静かに、その名を呼んだ。
部屋の空気が、一瞬止まった。
テオドールが、息を呑む気配がした。
だが、ジークフリートは続けた。
「この場に来なければ、俺には確信できなかった。魔族だということを、俺に分からせたくなければ、姿を消したままでいられたはずだ」
マントの人物は、動かなかった。
「……それでも、ここに来た。つまり、お前は自分が魔族だと、俺に告げに来たんだろう」
長い沈黙があった。
やがて、マントの人物がゆっくりと手を動かした。
マントが脱がれた。隠蔽の魔法が解かれた。
露わになったのは、見覚えのある涼しげな横顔と、旅の間は隠されていた、魔族の証である小さな角だった。
「……よくわかったわね」
モルガンの声だった。
「仲間だからな。分かるさ」
ジークフリートは、迷いなく言った。
モルガンは、その言葉を聞いた瞬間、わずかに目を細めた。
長い時間、その表情を維持しようとして、しかし維持できなかった。
口角が、かすかに上がった。
「……ジークフリート様」
テオドールが、立ち上がりかけた。
「モルガンを責めないで、あの人は——」
「テオドール」
ジークフリートが、静かに遮った。
「分かっている」
彼は、モルガンを真っ直ぐに見つめた。
「騙されていたのは、確かだ。お前が魔族だということも、ソロモンの妹だということも、最初から知っていたわけじゃない」
モルガンは、黙って聞いていた。
「だが」
ジークフリートは続けた。
「結果的に、お前の行動があったから、俺は正しい方向に動けた。人類にとっても、魔族にとっても、今の形が一番いい。……そして、お前がいなければ、この形には絶対にならなかった」
沈黙が落ちた。
ジークフリートは、これまでのことを、一つ一つ思い返した。
魔王城に部下の魔族が誰もいなかったこと。あれは、モルガンがソロモンに自分たちの到達日を伝え、配下を退かせていたからだろう。
少ない人数で魔境を渡れたこと。あれは、モルガンが魔族として魔境の渡り方を知っていて、一行を安全なルートへ誘導していたからだろう。
帰還後に届いた紹介状。差出人の「M」。あれはモルガンが、事前に辺境の大貴族との繋ぎを用意していたからだ。
政権交代後、各地で反乱が起きなかったこと。あれも、モルガンが予め根回しをしていたからだろう。王国各地に、人間の姿で溶け込んでいた魔族が、どれだけいたか。
(……俺が動けていたのは、ずっとこいつに支えられていたからだ)
「お前は、ずっと動いていたんだな」
ジークフリートの言葉に、モルガンは小さく頷いた。
「私は謝らない」
モルガンの声は、静かだったが、はっきりしていた。
「時間はかかった。遠回りもした。あなたを騙す形になったことも、否定しない。でも……これが最善だったと、今も思っている」
「ああ」
「そして、まだ終わっていない」
モルガンは、窓の外を見た。魔境の濁った空が、遠く広がっている。
「魔境のダンジョンを攻略するには、長い時間がかかる。その間も、魔獣の被害はなくならない。不幸をなくすために、まだまだやるべきことがある」
「同感だ」
ジークフリートが言うと、ソロモンも静かに頷いた。
「では、進めよう」
○
条約の署名が、静かに行われた。
人類と魔族、千年の歴史が、この瞬間に変わった。
それと並行して、魔境内部の攻略拠点建設計画が動き始めた。
責任者はモルガン。設計図は、あの夜ソロモンから渡されたものを基に、さらに精緻化されていた。
建設が始まると、人間と魔族が並んで働く光景が魔境の入り口に広がった。怒鳴り合いながら、笑いながら、同じ方向を向いて。
それと同じ頃、モルガンはもう一つの組織を立ち上げた。
冒険者ギルド。
人類と魔族が共同で設立した、魔境攻略のための民間組織。適切な報酬、明確な契約、整備された労働環境。命がけの仕事に、正当な対価が支払われる場所。
その入り口には、一枚の看板が掲げられていた。
『冒険者ギルド・グレース』
テオドールが、名付けた。
あの孤児院の名前を、新しい世界の扉に刻んだ。
○
同じ頃、魔王城の別室では。
テオドールは、震える手で一枚の紙を受け取っていた。
給与明細書。
整然と並んだ数字の列。基本給、諸手当、社会保険料の控除。すべてが明示された、透明な一枚の紙。
月銀貨三枚だった前職とは、比べ物にならない数字がそこにあった。
グレース院の運営費。子どもたちの食費。屋根の修繕費。リリーの夜泣きを宥める絵本代。
全部、賄える。
テオドールは、その紙をしばらく見つめた。
ふと、胸元に手が動いた。
法衣の内側に、ずっと仕舞ってあるものがある。綿が片側に偏った、不格好な人形。縫い直した跡が、指先に伝わってくる。
(無事に帰ってきてほしい——あの子たちは、そう言った)
世界を救ってほしいとは、言わなかった。
泣くつもりはなかった。なのに、視界がじわりと滲んだ。
(マリアンヌ、見ていますか。私は——帰ってきました)
院長の皺だらけの手が、脳裏に浮かんだ。
「この子たちを、頼むわね」
あの言葉に、ようやく胸を張って答えられる気がした。
テオドールは給与明細を丁寧に折り畳み、胸元に仕舞った。
そして立ち上がり、窓の外を見た。
魔王城の向こう、魔境との境界線上に、新しい建造物の基礎工事が始まっていた。人間と魔族が並んで働いている。怒鳴り合いながら、笑いながら、同じ方向を向いて。
いつの間にか隣に、モルガンが立っていた。
二人は並んで、窓の外を見た。
しばらくして、モルガンが静かに言った。
「……行動が、世界を変えた」
テオドールは、答えなかった。
ただ、小さく頷いた。
○
冒険者ギルド・グレースの扉を開けて入ってきたのは、まだ年若い少年だった。
目を輝かせ、受付に向かって真っ直ぐ歩いてくる。
「冒険者登録をしたいんですが」
受付の職員が、笑顔で書類を差し出した。
「もちろんです。こちらに記入をお願いします。……ちなみに、冒険者を目指す理由を聞いてもいいですか?」
少年は、迷わず答えた。
「夢があるんです。それを叶えるために、まずお金を貯めようと思って」
職員は、その答えに目を細めた。
「いい理由ですね」
扉の向こうには、まだ誰も踏み込んでいない魔境が広がっていた。
新しい物語が、始まろうとしていた。
―― 了 ――
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
これで「魔王城の目の前で、僧侶が退職代行を使ってきた」は完結です。
少しでも心に残るものがあれば、下の★で評価や感想をいただけると、とても励みになります。
10月17日(土)朝7時から、新連載「契約の神は有料です」を始めます。
働かないクズ神が、神力ゼロで下界に蹴り落とされる話です。
こちらもよろしくお願いします。




