第4話:勇者の正義 vs 僧侶の現実
魔王城の一角。そこは死の臭いも禍々しい魔力も一切ない、驚くほど静謐な応接室だった。
差し込む陽光が磨き上げられた机に反射し、テオドールの視界を白く焼く。
(……静かだ。叫び声も、金属がぶつかる音も聞こえない)
テオドールは、震える手で膝の上のスカートを握りしめていた。
全身の節々が、錆びついた鉄塊のように重い。長年の不眠と、魔境での過酷な行軍が刻んだ疲労は、聖水(自費購入)を浴びる程度ではもう癒えないところまで来ていた。
「テオドールさん。リラックスしてください。ここは戦場ではありませんから」
目の前に座る男性――この城の主である「魔王」が、穏やかな声で言った。
驚いた。伝承にあるような野蛮な怪物ではない。
体に完璧にフィットした漆黒のスーツ。汚れ一つない白シャツ。整えられた指先。
その清潔感は、泥と返り血にまみれて「正義」を叫んでいた自分たちのパーティとは、対極にあるものだった。
「……すみません。あまりに環境が違いすぎて」
テオドールは、掠れた声で答えた。
「履歴書を拝見しました。前職での報酬が、月銀貨三枚というのは本当ですか?」
魔王の眼鏡の奥の瞳が、鋭く、だが同情を込めて細められた。
テオドールは小さく頷いた。
「はい。王家からの路銀は少なく『世界を救う旅に私利私欲は不要だ』と。食費と最低限の宿代以外、私の手元に残るものはありませんでした。ポーションの補充も、破れた法衣の修繕も、魔獣の素材を売ったもので……。貯金なんて、一銭もありません」
込み上げてくるのは、情けなさと怒りだ。
聖職者だから、 慈愛があるなら、
その「綺麗事」の裏で、私の精神は擦り切れ、胃袋は常に悲鳴を上げていた。
この魔王軍の求人票にあった「基本給:金貨五十枚」「賞与年二回」「住宅手当あり」という文字が、どれほど救いに見えたことか。
「私には、お金が必要なんです」
テオドールは、真っ直ぐに魔王を見た。
「グレース院という孤児院を、王都の郊外で営んでいます。私が育った場所です。院長が亡くなって、私が引き継いだ。あの子たちを養うお金が必要で……だからこそ、断れなかった。この旅を」
言葉にした途端、堰き止めていたものが溢れそうになる。テオドールは唇を引き結んで、それを抑えた。
魔王は静かに頷いた。その眼差しには、値踏みではなく、真摯な理解があった。
「なるほど。……回復魔法のスキルシートも拝見しました。最短三秒のクールタイム、呪い解除の成功率九十八パーセント。非常に優秀です。記載に間違いはありませんか?」
「間違いありません。」
「ほう、それは素晴らしい。うちの厚生年金制度、詳しい説明を聞かれますか?」
その瞬間だった。
ドゴン、と凄まじい音を立てて、応接室の扉が蹴り開けられた。
重厚な扉を蹴破り、聖剣を構えて乱入してきた勇者ジークフリートは、そのまま硬直した。
微かに香るアロマ。壁には「アットホームな職場です」「年間休日百二十日以上」といった標語が書かれたポスター。
そして、光沢のある上質な漆黒のスーツを着こなし、眼鏡をクイッと押し上げる男が座っていた。
「……は? 魔王? え、お前が?」
ジークフリートが困惑していると、男の対面に座っていた人物がゆっくりと立ち上がった。
「……ジークフリートさん。邪魔しないでください」
そこにいたのは、充血した目と、濃く刻まれた目の下のクマを持つ、僧侶のテオドールだった。
かつての聖職者の衣ではなく、清潔感のあるオフィスカジュアルに身を包み、震える指で履歴書を握りしめている。
「テオドール!? お前、こんなところで何を……! さては、魔王に洗脳されたのか!? 世界を救う責任を忘れたのか!」
「洗脳? 責任? 笑わせないでください」
テオドールの声が、かつてないほど低く、そして切実に響く。
「いいですか、私の回復魔法はタダじゃないです。それなのに聖水は自腹、宿泊費すら払えない。魔獣が出る森で野ざらし……。時給換算したら薬草売り以下の、あの搾取の極みのようなパーティに、どの面下げて戻れと言うんですか?
『二十四時間不眠不休で祈り続けろ』? 冗談じゃない、私はあなたの『使い捨て無料ポーション』じゃないんです!」
ジークフリートには、テオドールが何に怒っているのか、正直よく分からなかった。
回復役が回復する。それの何がおかしいのか。パーティの僧侶なのだから、当然の仕事ではないか。魔獣と戦う俺だって、毎日命を削っている。それぞれが自分の役割を果たす、それがパーティというものだ。
だが、見たことがないほど怒っている。
テオドールがここまで感情をあらわにするのを、二年間で一度も見たことがなかった。いつも静かで、いつも穏やかで、どんな過酷な夜の後でも朝には笑顔で朝食を用意していた。
その人間が、今、震えながら声を荒げている。
なぜ、こんなに怒っているのか。
その怒りの中身を、ジークフリートはまだ想像できていなかった。
ただ、その剥き出しの怒りに、ジークフリートは奇妙なほど動揺した。正しいとも間違いとも判断できないまま、ただ、見たことのないものを前にした時のような、落ち着かない感覚だけがあった。反射的に、反論した。
「待て! 二十四時間労働というが、夜は寝ていただろう。見張りはみんな同じように、二時間交代で回していたじゃないか! 八時間のうち自分の見張り番以外の時間は休めていたはずだ!」
勇者が必死に反論する。その拳は、わずかに震えていた。
自分だって楽をしているわけじゃない。泥にまみれ、魔物に襲われ、全員が極限状態で旅を続けている。「辛いのは自分だけではない、みんな同じなんだ」という思いが、彼の支えであり、同時に他者へも同じ強さを求めてしまう免罪符になっていた。
だが、その言葉を口にした瞬間、ジークフリートの中で何かが引っかかった。
本当に、みんな同じだったのか。
テオドールはどうだった。
深夜、皆が眠っている時間に、一人で何をしていたのか。本当に眠れていたのか。食事はちゃんと摂れていたのか。
(……俺は、、、、)
理解しようとしていなかった、というほうが正確かもしれない。「みんな同じように苦しんでいる」という言葉は、仲間の苦しみを見ないための言い訳だったのではないか。
そもそもなぜ自分が、自分たちが魔王を、倒さなければいけないのだ?そして命というもっとも思い代償を前提に行動しなくてはいけないのか?
そんな内心の揺らぎを押し殺した。いま勇者である自分が、動揺しては行けない。テオドールは洗脳されているかもしれないと、必死に思考を巡らす。
「……寝ていた? 交代で休めていた?」
テオドールが、乾いた笑いを漏らした。
「ジークフリート、いいですか、『横になっている時間』と『休憩』は同義ではありません。
魔獣がいつ天幕を切り裂いてくるか分からない。暗闇の向こうで常に殺意がうごめいている。そんな場所で、泥のように眠れるとでも思っているんですか?
夜襲があれば、真っ先に叩き起こされるのは私です。傷ついたあなたに、寝起きの朦朧とした意識で即座に完璧な回復魔法を叩き込む。魔力が逆流しそうなほどの負荷に耐えながらね。
見張り番じゃない時間? それは『次の戦闘に備えて、精神を強制待機させている時間』に過ぎない。
私の精神的拘束時間は、このパーティに加わったあの日から、一秒たりとも解かれたことはないんです」
テオドールは、魔王をその名で呼んだ。初めて、自分の意志で。
「私を、採用していただけますか。グレース院の子どもたちのために、正当な報酬で働きたい。そして、いつかあの子たちが社会に出た時に、私と同じ思いをしなくて済むよう……この世界の労働環境を、内側から変えていきたい」
魔王ソロモンは、口角をわずかに上げた。
「……もちろんだ。歓迎するよ、テオドール君」
勇者は、その光景を、ただ見ていた。
二年間、隣で戦い続けた仲間が、今、自分の足で新しい場所へ踏み出していく。
止める言葉が、出てこなかった。
テオドールは勇者の方を振り向き、最後に一度だけ、静かに微笑んだ。
「ジークフリート。あなたも、いつか気づく時が来ます。耐えるだけでは、何も変わらないって」
それだけ言って、テオドールは履歴書を机の上に置いた。
自分の手で。自分の意志で。
ジークフリートは、その背中を見送りながら、床に手をついたまま、動けなかった。
胸の奥に、重くて温かい何かが、静かに沈んでいくのを感じた。
(テオドールにとって、この旅は目的じゃなかった。修道院を守るための手段だった)
(……じゃあ、俺は)
考えかけて、止まった。
その先が、怖かった。
(……俺も、変わらなければならない)
剣を振るうだけでは、足りない。
その予感が、このとき初めて、ジークフリートの心に根を下ろした。
読んでいただきありがとうございます!
次回は、明日の朝7時に更新します。
明日の夜19時の最終話で完結です。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
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