第3話:グレース院の聖女
王都の外れに、「グレース院」という小さな孤児院がある。
石造りの外壁は所々が欠け、冬になれば隙間風が容赦なく吹き込む。食卓に並ぶのは、いつも質素なスープとパンだけだ。それでも、ここに集まる子どもたちの笑い声は絶えることがなかった。
テオドールは、その笑い声の中で育った。
物心がついた頃から、彼女の居場所はここだった。両親の顔は知らない。名前すら、院長のマリアンヌが与えてくれたものだ。
「テオドール。この名前はね、『神の贈り物』という意味なの」
幼いテオドールの頭を撫でながら、マリアンヌは皺の刻まれた目を細めた。白髪を丁寧に束ね、古びた法衣を纏ったその姿は、テオドールにとって「母」という言葉のすべてだった。
「あなたたちは、誰かに捨てられたんじゃない。神様が、ここへ導いてくださったのよ」
その言葉を、テオドールはずっと信じてきた。
信じながら、聖職者の試験を首席で通過した。信じながら、教会内での地位を積み上げた。そして信じながら、マリアンヌの傍らでグレース院を支え続けた。
しかし、現実はテオドールに牙を剥き続けた。
王都の外れという立地は、貴族からの寄付を集めにくい。教会からの補助金は年々削られ、食費すら事欠く月が続いた。テオドールは深夜までポーションを調合しては、ギルドに売り捌いた。法衣の破れた箇所を自分で繕いながら、それでもマリアンヌと子どもたちの前では笑顔を崩さなかった。
そんな生活の中で、テオドールは気づいてしまった。
グレース院が貧しいのは、自分たちの努力が足りないからではない。王国が、意図的に富を偏らせているからだ。
王都の倉庫には、腐らせても余るほどの食糧が積み上げられている。貴族の子弟が通う教会付属の学院には、潤沢な補助金が流れ込んでいる。一方で、グレース院のような末端の施設には、雀の涙ほどの支援すら渋られる。
テオドールは、教会内で声を上げ始めた。
補助金配分の透明化。聖職者への適正な報酬。孤児院や辺境の村への支援拡充。それは過激な要求ではなく、当たり前の訴えのはずだった。
しかし、上層部の反応は冷淡だった。
会議の場でテオドールが発言するたび、年配の司教たちは露骨に視線を逸らした。改革案の文書は握り潰され、賛同した若い聖職者たちは閑職へと追いやられた。
「テオドール。君の熱意は買う。だが、今は時期ではない」
何度そう言われただろうか。「時期」は、永遠に来なかった。
そんなある冬の朝、マリアンヌが倒れた。
長年の無理が祟った、と医師は言った。テオドールは仕事をすべて投げ出し、マリアンヌの傍に付き添い続けた。痩せ細っていく手を握りながら、何度も何度も「治ります、大丈夫です」と繰り返した。
だが、春の訪れを待たずに、マリアンヌは逝った。
その最後の夜、マリアンヌはかすれた声でテオドールの手を握り、言った。
「……テオドール。この子たちを、頼むわね」
「……はい」
テオドールは、声を殺して泣いた。
グレース院の院長となったテオドールは、マリアンヌの遺志を胸に、改革への訴えを続けた。だが、後ろ盾を失った彼女の声は、以前にも増して届かなくなっていた。
そんなある日、教会の上役から呼び出しがかかった。
「テオドール君。王家より、勇者パーティへの参加要請が来ている。聖職者として、世界を救う使命を担ってほしいとのことだ」
華々しい言葉の裏に、隠しようのない圧力があった。
「……もし、辞退した場合は?」
上役は、わずかに目を細めた。
「グレース院への教会補助金は、来期より見直しが必要になるかもしれないね、逆に受けてくれるのであれば、補助金について色をつけるのも可能だ」
本当かどうかは、わからなかった。ただの口約束だし、脅しだ。
テオドールは、その場で即答した。
「……謹んで、お受けいたします」
院を出る朝、子どもたちが門の前に並んで見送ってくれた。一番幼い女の子が、テオドールの法衣の裾を掴んで言った。
「テオドール姉ちゃん、帰ってくる?」
テオドールは膝をつき、その小さな頭を抱きしめた。
「……帰ってくるわ。必ず」
リリーは少し考えてから、ぎゅっと握っていた何かをテオドールの手に押しつけた。
小さな布切れで作った、不格好な人形だった。綿が片側に偏って、顔も曲がっている。だが、丁寧に、何度も縫い直した跡があった。
「……これ、なに?」
「リリーが作った。テオドール姉ちゃんが怪我しないおまじないだって」
隣にいた年長の男の子が、少し照れくさそうに言い添えた。
「みんなで作ったんだ。帰ってきてほしいから。……姉ちゃんが無事に帰ってきてほしいから」
テオドールは、その人形を見つめた。
世界を救ってほしいとは、書いていない。魔王を倒してほしいとも。
ただ、帰ってきてほしい。無事でいてほしい。
それだけだった。
(……この子たちにとって、私は「聖職者」じゃない)
使命を持った英雄でも、世界を救う駒でもない。
ただ、帰ってきてほしい人間だ。
テオドールは、その人形を胸元に仕舞った。
「……必ず、帰るわ」
今度の言葉は、最初のそれとは少し重さが違った。
世界のためではなく、この子たちのために帰る。
その選択が正しいかどうか、まだ分からない。
それでも、これが自分の答えだと——テオドールは、静かに前を向いた。
旅が始まって最初の一ヶ月は、まだよかった。
魔獣との戦闘は過酷だったが、王都近郊であれば宿もあった。食事もとれた。夜は短くても、横になれる時間があった。
それが変わったのは、魔境に足を踏み入れてからだ。
魔境に村はない。宿もない。補給拠点もない。あるのは、終わりのない暗闇と、そこに蠢く魔獣の群れだけだ。
一日の戦闘が終わっても、テオドールに休む時間はなかった。
勇者の裂けた肩を縫い、魔法使いに絡みついた呪いを解く。それが終われば、翌日の回復薬を調合しなければならない。路銀が底をついていたから、ギルドに売れるポーションを少しでも多く作る必要があった。
皆が仮眠を取る中、テオドールは一人、焚き火の傍らで薬草を刻み続けた。
指先が切れても、目が霞んでも、手を止めることができなかった。
止めれば、明日の食料が消える。止めれば、誰かが死ぬかもしれない。
(グレース院に、今月も仕送りできなかった)
薬草を刻む手を止めず、テオドールは心の中で呟いた。
子どもたちは今頃、何を食べているだろう。院の屋根の雨漏りは、直っただろうか。一番幼いリリーは、夜泣きが酷かったから、今も誰かが傍についてやれているだろうか。
考えても、どうにもならない。
今の自分にできることは、この旅を終わらせて、生きて帰ることだけだ。
そう言い聞かせながら、テオドールは今夜も朝を迎えた。
それが何十日も続いた。
食事をしても、味がしなくなっていった。
朝が来ても、起き上がりたいという気持ちが湧かなくなっていった。
仲間が話しかけてくれても、笑顔を作るのに、以前の何倍もの力が要るようになっていった。
それでもテオドールは、誰にも何も言わなかった。
聖職者だから。使命があるから。グレース院の子どもたちのために帰らなければならないから。
そうやって、自分の悲鳴に、自分で蓋をし続けた。
限界が来たのは、嵐の夜だった。
激しい雨が天幕を叩き、風が焚き火を何度も消した。魔獣の夜襲が二度あり、テオドールは朦朧とした意識のまま回復魔法を行使し続けた。夜襲が収まった頃には、魔力はほぼ空だった。
皆が泥のように眠りに落ちた後、テオドールは天幕の端で一人、膝を抱えていた。
体が、重い。
重いというより、感覚がない。指先も、足先も、まるで自分のものではないようだった。
(帰りたい)
その言葉が滲み出た瞬間、テオドールは自分でも驚いた。
だが、次の瞬間、別の声が頭の中に割り込んできた。
(……グレース院の子どもたちは、顔が見える。名前が言える。リリーは夜泣きが酷くて、ハンネスは食が細くて、マルクは字を覚えたがっていた)
でも。
(魔獣に村を焼かれた子どもたちは、どうなる。私が帰った後、誰かが死ぬかもしれない。その子どもたちにも、名前がある。顔がある。夜泣きをする夜があるかもしれない)
テオドールは、膝を抱えたまま、雨の音を聞いていた。
答えは出なかった。
顔の見える命と、顔の見えない命。どちらが重いか、誰かに決められるのか。聖職者なら、神に仕える者なら、どちらも等しく守るべきだと——そう教わってきた。
だが、それは本当のことか。
(私は今まで、顔の見えない「世界」のために、顔の見えるあの子たちを、二年間置き去りにしてきた)
どちらが正しいのか、分からなかった。
ただ一つだけ分かることがあった。
このまま消耗し続ければ、どちらも守れない。
ただ、帰りたかった。
グレース院の、あの狭くて寒い食堂に。子どもたちの笑い声の中に。マリアンヌがいたあの場所に。
「……辛そうね」
声がした。
テオドールは顔を上げた。
天幕の入り口に、見知らぬ女が立っていた。
嵐の中だというのに、その女の衣服はまったく濡れていなかった。深くフードを被り、顔は見えない。ただ、その佇まいには不思議な落ち着きがあった。敵意も、魔力の気配も、何もない。それでいて、見透かされているような、奇妙な感覚があった。
「……誰ですか」
テオドールは警戒しながら問うた。声がかすれていた。
「通りすがりの者よ」
女は天幕の中へ静かに入ってくると、テオドールの向かいに腰を下ろした。まるで、ここに座ることが最初から決まっていたかのように、自然に。
「あなた、いつ最後にちゃんと眠れた?」
その問いに、テオドールは答えられなかった。
覚えていなかったからだ。
「……そう」
女は静かに頷いた。感情の読めない、しかしどこか正確な相槌だった。まるで、答えを最初から知っていたかのように。
「ねえ、一つ聞いてもいい? あなたは今、何のために耐えているの」
「……グレース院の、子どもたちのためです。世界を救えば、あの子たちが安心して生きられる」
「耐えれば、本当にそうなると思う?」
女の声は柔らかかった。しかし、その言葉は鋭く、的確にテオドールの胸を突いた。
「あなたは二年間、限界を超えて働き続けた。それで何が変わった? 王国はあなたに正当な報酬を払うようになった? グレース院への補助金は増えた? あなたが声を上げ続けた改革は、一歩でも前に進んだ?」
テオドールは、唇を噛んだ。
何も、変わっていない。
それどころか、自分が消耗していく分だけ、王国はその搾取を当然のものとして強化していった。
「……でも、耐えるしかないんです。私が抜けたら、パーティが」
「それは思考停止よ」
女の声が、静かに、しかしはっきりと遮った。
「『耐えるしかない』という言葉は、現状を変えたくない者たちが、変えようとする者たちに向けて使う言葉。あなたは二年間、その言葉を自分自身に向け続けた。……その結果が、今のあなたよ」
テオドールは、反論しようとして、言葉が出なかった。
女は続けた。その声には、責めるでも憐れむでもない、ただ事実を並べるような静けさがあった。
「働いても報われないのに耐え続けることは、美徳でも使命感でもない。ただの消耗よ。そしてその消耗は、あなたを傷つけるだけじゃない。あなたが守りたいものをも、じわじわと壊していく」
「……グレース院が、ですか」
「壊れたあなたが帰っても、子どもたちを守れない。それはあなたも分かっているはずよ」
雨が、天幕を激しく叩いていた。
テオドールは膝を抱え、その言葉を胸の中で転がした。
「じゃあ、どうすればいいんですか。私に何ができるというんですか」
「行動よ」
女は、迷いなく言い切った。
「現状を変えられるのは、行動だけ。どれだけ正しいことを考えても、どれだけ理不尽に耐えても、行動しなければ何も動かない。あなたが王国の腐敗に怒っているなら、耐えることをやめて、動くべきよ」
「……行動、といっても」
「まず、自分を理不尽な場所から引き剥がすこと。それが最初の一歩」
女はゆっくりと、一枚の名刺をテオドールの前に置いた。
そこには、こう書かれていた。
『退職代行サービス・リスタート』
「不当な契約に縛られたまま消耗し続けることは、行動じゃない。あなたには、自分の人生を選ぶ権利がある。その選択こそが、最初の行動になる」
テオドールは、その名刺をじっと見つめた。
「……私が抜けたら、パーティはどうなりますか」
「それはあなたが背負うべき問題ではないわ。適切な人員も予算も用意せず、あなたを使い捨てにしようとした組織の責任。あなたが罪悪感を持つ必要はない」
女は一拍置いて、静かに続けた。
「ただ、一つだけ言っておく。あなたがここを離れることは、逃げることじゃない。次の行動のための、助走よ。グレース院に帰って、子どもたちのために立て直して、そしてまた動き始める。……あなたがやるべきことは、まだ終わっていないから」
その言葉だけは、それまでとは少し違う温度を持っていた。
まるで、テオドールの先を知っているかのような。あるいは、知っていてほしいと願っているかのような。
テオドールは長い時間、その名刺を握りしめたまま、動かなかった。
やがて、静かに顔を上げた時、女の姿はもうなかった。
残ったのは、手の中の名刺と、嵐の音と、それから――胸の奥に灯った、小さくて確かな決意だけだった。
(帰ろう。グレース院へ。あの子たちのもとへ)
テオドールは翌朝、誰よりも早く目を覚ました。
いつもと同じように、皆の朝食を用意した。いつもと同じように、勇者の肩の傷に包帯を巻いた。
だが、その胸の中には、もう決意があった。
魔王城に辿り着いた暁には、この旅を終わりにする。
自分の手で、自分の未来を選ぶ。
行動することだけが、現状を変える。
それが――テオドールが、退職代行を選んだ理由だった。
読んでいただきありがとうございます!
次回は、本日19時に更新します。
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