ひばり
「戻ってきたからだ」
父は、写しの最後の頁から目を上げずに言った。
「戻らなかった者の話の方が、あの谷には多い。戻った者が、自分の話をするものではないと思った。……それに、お前に話せば、お前は行く」
「はい」
「だから話さなかった」
父は写しを閉じ、娘の観測計画を開いた。〈一の門〉の手前までの距離、風を測る項目、引き返す条件。一行ずつ、指でなぞるように読んでいった。
「弁は」
「直せる人を、口説きに行きます」
「ガウスか」
ヴェルディアナが目を丸くすると、父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「あの男は、貴族が嫌いだ。私も二度、追い返された」
◇
翌朝、彼女は北の坂へ向かった。
北の坂の工房は、鉄粉と切削油の匂いで満ちていた。旋盤の前に立つ大男は、戸口に立った令嬢を見るなり、背を向けた。
ヴェルディアナは何も言わずに中へ入り、作業台の上に、布にくるんだものを置いた。
前の晩、ネルと二人で燃焼室から外してきた弁だった。
ガウスは、背を向けたまま、しばらく動かなかった。やがて振り向き、布をめくり、弁を手に取って、ひびに親指の腹を当てた。
「……あの型か」
「はい」
「新しく削れと言われても、ひと月はかかる」
「承知しています。その間、飛べる手立てはありませんか」
ガウスは、彼女の顔を初めてまともに見た。
「ひびの先に、止め穴を打つ。これ以上、走らせないようにな。外から帯を焼き嵌めて締める。それで、新しい弁ができるまでは持たせられる。……どこまで回していいかは、浮かせてみなけりゃ分からん」
「浮かせて、確かめます」
ガウスは鼻を鳴らした。
「代金は」
「新しい弁と、今回の手当て。両方の見積もりをいただけますか。父に相談して、お支払いの段取りをつけます」
ガウスは、しばらく彼女を見ていた。それから作業台の引き出しから紙切れを出し、太い字で数字を書きつけて寄越した。
「明後日、取りに来い」
その夜、書斎の机に見積もりを置くと、父は黙って目を通し、帳簿の一頁を開いた。
◇
二日後、修理した弁を嵌め直した艇は、港の係留柱に太い索で四方からつながれたまま、初めて地面を離れた。
ネルが出力を少しずつ上げる。ガウスが燃焼室の覆いに耳を当てる。地面から人の背丈ほどの高さで、艇は索を張りつめ、低く唸りながら浮かんでいた。
四割。五割。六割。
「止め」
ガウスが手を上げた。
「七割で、帯が鳴りかけた。六割までだ。それなら、一刻半は持つ」
ネルが計器から顔を上げた。
「〈一の門〉の手前まで行って、風を測って、戻ってくる。観測を短く切れば、余裕を持って戻れる」
オズワルドが、係留柱にもたれたまま、パイプの煙を吐いた。
「明日の朝。晴れるぞ」
◇
夜明けの港に、父が来ていた。
約束どおりだった。外套の襟を立て、少し離れた荷揚げ場の端に、ハンスと並んで立っている。何も言わず、ただ、こちらを見ていた。
ヴェルディアナは艦橋へ上がる前に、一度だけ父の方へ歩いていった。
「お父様。この船に、名前をつけてもよろしいですか」
「お前の船だ」
「〈ひばり〉と」
父は、しばらく黙っていた。
それから、短く頷いた。
◇
艦橋の窓は、ネルが前の晩に磨き上げていた。曇っていた計器の硝子も、今は朝の光を映している。
ヴェルディアナは舵輪の前に立った。
左に、航路図を広げたオズワルド。後ろの伝声管の向こうに、機関室のネル。甲板には、ネルが声をかけて集めてきた港の荷役が二人、索を手にしている。
彼女は、一度だけ深く息を吸った。
「機関、始動」
声は大きくなかった。けれど、伝声管の向こうで、ネルの手が迷わず動いたのが分かった。咳がひとつ、唸りがひとつ。鼓動が揃っていく。
「出力、三割」
「三割」
「係留索、前から解いて。後ろはまだ」
甲板の荷役が、一瞬だけ顔を見合わせた。それから、言われたとおりに前の索を外した。艇首が、ふわりと持ち上がる。
「後ろ、解いて」
最後の索が落ちた。
床が、足の裏から離れていくのが分かった。
港の屋根が下がっていく。荷揚げ場の父とハンスが、小さくなっていく。網を繕う漁師が手を止めて見上げ、屋台の女が口を開けたまま固まっている。
ヴェルディアナは、舵輪を握る手に、少しだけ力を込めた。
――ああ。
声にはならなかった。
ずっと、これを待っていた。屋敷の窓から山を見ていた日も、港の起重機に腰かけていた日も、船底の下で錆の匂いを嗅いでいた日も。身体の奥のどこかが、ずっとこの高さを覚えていた。
「出力、五割。針路、北北西。〈一の門〉へ」
「五割」ネルの声が、伝声管越しに、少し震えていた。
◇
谷の入口が近づくにつれて、風が変わった。
それまで穏やかだった空気が、山の切れ目から吹き出す流れに押されて、ざわつき始める。艇体がかすかに右へ流された。
「右から押されています」
オズワルドが言うより早く、ヴェルディアナは舵をわずかに左へ当てていた。
「谷の風が、東の壁に当たって跳ね返っています。この先、一度弱まって、それから強く来ます」
老人が、航路図から顔を上げた。
「……なぜ分かる」
「雲の影が、壁の手前で途切れていますから」
答えながら、彼女は自分でも少し驚いていた。理屈は後からついてきた。先に、手が動いていた。
風が弱まり、次の瞬間、言葉どおりの強い一撃が来た。艇がぐらりと傾く。甲板の荷役が叫び声を上げて手すりにしがみついた。
ヴェルディアナは舵輪を押さえ込み、傾きに逆らわず、半拍だけ流されてから、静かに戻した。
〈ひばり〉は、何事もなかったように水平を取り戻した。
伝声管の向こうで、ネルが息を吐く音がした。
「……今の、どうやったの」
「風に逆らわないで、乗っただけです」
オズワルドは何も言わなかった。ただ、膝の上の観測帳に、何かを素早く書きつけた。
◇
〈一の門〉が、目の前にそびえていた。
左右から迫る岩壁の間に、細い空が一本、奥へ奥へと続いている。崩れた標識塔の土台が、崖の中腹に黒く残っていた。その向こうで、谷の風が、低く唸っていた。
オズワルドが観測帳を閉じた。
「北風、晴れ。西壁の返りは、崖の中ほどより少し上。……記録した」
ヴェルディアナは、谷の奥を見ていた。
この先に〈二の門〉がある。父の報告書の、あの風の図の場所が。今の風なら、西の壁に寄れば――。
「お嬢さん」
老人の声は、静かだった。
「引き返せ」
ヴェルディアナは、ほんの一瞬だけ、舵輪を握ったまま動かなかった。
それから、声を張った。
「取舵いっぱい。帰港します」
〈ひばり〉は、谷の入口で大きく弧を描き、朝の光の方へ艇首を向けた。
◇
港が見えてくると、荷揚げ場に人だかりができていた。漁師も、荷役も、屋台の女も、ブラムの姿まであった。
その一番前に、父が立っていた。
ヴェルディアナは、〈ひばり〉をゆっくりと降ろしていった。係留柱の手前で艇を止め、甲板の荷役が索を投げる。誰かがそれを受け止め、柱に巻きつける。
機関の鼓動が、静かに止まった。
彼女は艦橋を降り、甲板を渡り、桟橋に足をつけた。足の裏に、地面が戻ってきた。少しだけ、よろけた。
父が、目の前にいた。
何か言わなければ、と思った。けれど、言葉が出てこなかった。
父は、娘の顔をしばらく見つめ、それから、港の上の、さっきまで〈ひばり〉がいた空を見上げた。
「……いい音だった」
それだけ言うと、父は背を向けて、ハンスと共に坂を上っていった。
ヴェルディアナは、その背中が見えなくなるまで見送った。
それから振り返り、甲板の上のネルと、艦橋の窓のオズワルドと、まだ索を握ったまま呆然としている荷役たちを見た。
彼女は、声を出して笑った。
今度は、誰に聞かれてもかまわなかった。




