船長と呼ばれて
子爵夫人の園遊会は、毎年、葡萄の収穫が終わる頃に開かれる。近隣の領主家の人々だけでなく、領内で名の知れた商人たちも招かれる、この地方でいちばん賑やかな午後だった。
ヴェルディアナが庭へ足を踏み入れたとき、薔薇のアーチの下の一角が、ほんの一瞬だけ静かになった。
それから、扇の陰で囁きが戻ってきた。
「――ご覧になって。エルスト家の」
「港で、油まみれになっていらしたのですって」
「くず鉄の船を買って、谷へ飛んだとか」
「まあ。危ないこと」
ヴェルディアナは、その囁きの中をまっすぐに歩いた。淡い灰青のドレスの裾は、今日は一点の染みもなかった。リタが前の晩、三度も確かめたからだ。
子爵夫人に膝を折って挨拶をし、勧められた葡萄酒を受け取り、庭の眺めを褒める。どれも、幼い頃から身についた所作だった。誰が見ても、非の打ちどころのない令嬢の姿だった。
だからこそ、扇の陰の囁きは止まなかった。
◇
「ヴェルディアナ様」
薔薇の茂みの前で声をかけてきたのは、伯爵家の令嬢イザベラだった。この地方の令嬢たちの中心にいる娘で、その後ろには、いつものように三人ほどが控えている。
「お噂は伺っておりますわ。空をお飛びになったとか」
「ええ。谷の入口まで」
「まあ、勇ましい」イザベラは扇を口元に当てて微笑んだ。「でも、危険な道楽ではございません? お父上もさぞご心配でしょう」
「今は、風を測っておりますの。通れる日と、通れない日を分けるために」
イザベラは、扇の陰で目を瞬いた。道楽の話をしたつもりが、仕事の話を返されたのだった。
やがて彼女は扇を少しだけ下ろし、声を和らげた。
「ねえ、ヴェルディアナ様。来月、わたくしの家で詩の会を開きますの。この辺りの令嬢方は、皆さま来てくださるわ。あなたも、そろそろどちらかの集まりにお入りになっては? おひとりでは、何かと心細いでしょう」
周りの何人かが、さりげなく耳を寄せたのが分かった。イザベラの会に入るかどうか。それが、この地方の令嬢にとってただの誘いではないことは、ヴェルディアナにもよく分かっていた。
彼女は丁寧に膝を折った。
「お心遣い、ありがとうございます、イザベラ様。ですが、わたくし、まだどなたの指揮下に入るつもりもございませんの」
薔薇の茂みの前が、しんと静まった。
イザベラの扇が、口元で止まった。断られることは考えていたかもしれない。けれど、こうもはっきり言われるとは思っていなかった、という顔だった。
「……詩の会には、伺えたら伺いますわ。詩は、好きですもの」
それは社交辞令ではなかった。イザベラにも、それは伝わったらしい。扇が、ゆっくりと口元から離れた。
「……お待ちしておりますわ」
◇
イザベラたちが去ったあと、近くの長椅子で、年配の婦人たちがひそひそと話していた。
「指揮下、ですって」
「空ばかり見ていると、ああなるのかしら」
「空ばかりといえば、ヴァルトハイム侯爵家のご次男もそうですわね。宮廷にはちっとも顔を出さないで、ご自分の小型艇で、どこの空をふらついているのやら」
「侯爵様も、すっかりお諦めだとか」
ヴェルディアナは、葡萄酒の杯を持ったまま、足を止めた。
空ばかり、と思った。
どこの空を飛んでいるのだろう。どんな艇で、どんな風を相手に。そう思っただけで、婦人たちの話はもう次の噂へ移っていた。
彼女はその名前を、葡萄酒と一緒に、喉の奥へ飲み込んだ。
◇
「失礼。エルスト家の、ヴェルディアナ様でいらっしゃいますか」
振り向くと、地味だが仕立てのよい外套を着た、四十がらみの男が立っていた。日に焼けた顔に、商人らしい、よく動く目をしている。
男は、令嬢に対する礼ではなく、取引相手に対する礼で、帽子を胸に当てた。
「ハルデンで薬種を商っております、ヨナス・ベルクと申します。……〈ひばり〉の船長と、お話がしたく参りました」
近くにいた令嬢たちが、また扇の陰で顔を見合わせた。
船長。
ヴェルディアナは杯を置き、商人に向き直った。背筋が、ドレスの下で自然と伸びた。
「伺います」
「単刀直入に申し上げます」ヨナスは声を落とした。「私どもの薬は、王都の星間港で荷揚げされ、山を大回りしてハルデンへ届きます。グレイヴの商会の船でね。日数がかかる上に、この二年で運賃が倍になった。薬の中には、日が経つと効き目の落ちるものもございます」
「ハルデンは、谷の向こうですね」
「さようで。谷を抜けられれば、三日の道が半日になる」ヨナスは、まっすぐに彼女を見た。「薬は軽い。嵩も張らない。あなたの船は、荷があまり積めないと伺いました。……ちょうどいいと思いませんか」
ヴェルディアナは、すぐには答えなかった。
谷の向こうへ、薬を。軽く、急ぎの荷を。〈ひばり〉のために誂えたような仕事だった。胸の奥で、何かが勢いよく帆を張りかけた。
彼女は、それを手で押さえるように、ひとつ息をついた。
「ベルクさん。正直に申し上げます」
「どうぞ」
「〈ひばり〉は、まだ谷の入口までしか飛んでいません。その先の〈二の門〉の風は、まだ測り終えていない。今のわたくしには、あなたの薬を谷の向こうへ届けると、お約束できません」
ヨナスの顔に、落胆がよぎった。
「通れるかどうか分からない谷へ、人の命に関わる荷を積んで飛ぶのは、船長のすることではありません」
「……ごもっともで」
「ですから」
ヴェルディアナは、言葉を継いだ。
「教えていただけますか。ひと月に、どれほどの荷が要るのか。どの薬が、何日で効き目を落とすのか。グレイヴの船に、今いくら払っていらっしゃるのか」
ヨナスは目を瞬いた。
「それを伺えれば、〈ひばり〉が谷を抜けられたとき、どんな便を組めばいいか分かります。航路が開いたら、真っ先にあなたにご相談します」
しばらく、商人は彼女の顔を見ていた。
それから、外套の内から帳面を取り出し、一枚破って、細かな数字を書きつけ始めた。
「……船長。あなたは、ずいぶん変わったお嬢様だ」
「よく言われます」
ヨナスは書き終えた紙を、両手で差し出した。ヴェルディアナはそれを受け取り、目を走らせ、丁寧にたたんで手袋の内に収めた。
「ご連絡は、エルストの港の管理小屋へ。ネルさんという整備工がおります」
「承知しました」
商人は、もう一度、取引相手への礼をして去っていった。
◇
その一部始終を、少し離れた葡萄棚の陰から、一人の男が見ていた。
上等だが目立たない色の上着。胸元に、小さな商会の徽章。グレイヴ運輸商会の、この地方の差配役だった。
男は、手の中の杯をゆっくりと回し、それから一口も飲まずに、近くの給仕の盆へ戻した。
◇
帰りの馬車の中で、リタは一度だけ小さく言った。
「……イザベラ様、明日には皆さまに話していらっしゃいますわね」
「でしょうね」
ヴェルディアナは窓の外を見た。夕暮れの山並みの、その切れ目が、遠くに見えていた。
手袋の内で、ヨナスの紙が、かさりと鳴った。
ひと月に、薬の箱が四十。効き目の落ちる薬が、十二種。グレイヴの船への支払いは、二年前の倍。
――〈二の門〉を、測り終えなければ。
それから、もうひとつ。
空ばかり、と、婦人たちは言っていた。
彼女は窓に額を寄せて、暮れていく空を見上げた。




