白紙の頁
その朝の授業は、歴史だった。
「――そして、ローウェン提督の『盤面の槍』により、浮遊要塞群は壊滅。旗艦要塞〈グラウゼーレ〉には、所属不明の二隻が突入し――」
ペン先が、紙の上で止まった。
グラウゼーレ。
知らない名前のはずだった。それなのに、首の後ろがひやりとした。焼けた鉄の匂いが、一瞬だけ鼻の奥をかすめた気がした。
「お嬢様?」
「……いえ。続けてください」
「首魁ザランはこれと共に爆散。これをもって、大戦は終結いたしました。その二隻については、今も諸説ございます。海賊であったとも、提督の密命を帯びた私兵であったとも」
海賊。この世界にも、そういう者たちがいたのか、とヴェルディアナは思った。自分がかつて生きた、どこか遠い空の仲間たちのように。
首の後ろの冷たさは、授業が終わる頃には消えていた。
◇
午後、領庁の記録庫は、黴と古い紙の匂いがした。
番をしていた年寄りの書記は、令嬢が「渓谷の航行記録を」と言うと、目を丸くした。それから、奥の棚の一番下から、埃をかぶった木箱をひとつ引きずり出してきた。
「戦の後のものは、これだけでございます。誰も見に来やしませんので」
箱の中には、綴じ紐の色が違う三冊の報告書が入っていた。
一冊目。戦後二年、秋。商会所属の中型貨物艇。積荷、穀物満載。北風の強い日の出航。〈二の門〉の手前で通信途絶。残骸の一部が、翌春、谷底で見つかった。
二冊目。戦後五年、冬の初め。運送業者の大型輸送艇。積荷、鉄材。同じく〈二の門〉付近で消息を絶つ。発見されず。
ヴェルディアナは、二冊を並べて置いた。
どちらも、重い荷を積んでいた。どちらも、戦前の主航路である谷の真ん中を通っていた。どちらも、〈二の門〉で消えた。
三冊目を開いた。
戦後一年、晩夏。小型連絡艇〈ひばり〉。目的、航路再開のための観測飛行。
乗員三名。操縦、領の連絡艇乗り。航法、オズワルド・ケイン。
観測担当――ライナルト・エルスト。
ヴェルディアナの指が、その名前の上で止まった。
父の名前だった。
頁をめくると、そこから先は見覚えのある几帳面な字で埋まっていた。帳簿の上で、毎晩見ている字だった。
『〈一の門〉通過。風、北北西。主航路中央にて下降気流を確認。強度、戦前記録を大きく上回る。崩落した観測塔の残骸が谷の形を変え、風の通り道が変わったものと推察する』
『〈二の門〉手前。中央の下降気流、さらに強まる。航法士ケインの判断により、西壁へ寄る。西壁沿いでは、壁に当たった風が上へ返り、艇を押し上げる。危険なれど、通過可能』
『結論。主航路中央は、現状、重い艇には通過不能。西壁沿いの航路は、軽く、細く、横風に強い艇であれば通過の見込みあり。ただし、風の返る高さは日により変わる。〈二の門〉西壁に、風を測る標識塔の再建を強く要請する』
報告の最後の頁に、手描きの谷の図が挟まっていた。墨で描かれた風の矢印が、西の崖に沿って、上へ、上へと巻き上がっている。図の隅に、別の、大きく荒い字で走り書きがあった。
『返り風の高さ、要追加観測。――ケイン』
その下に、地方庁の印が押された一枚の写しがあった。
『標識塔再建の件、受理』
そして、その後には何もなかった。追加観測の記録も、塔の建設の記録も。報告書は、そこで終わっていた。
ヴェルディアナは、長いあいだ、その図を見ていた。
戻らなかった二隻は、重く、谷の真ん中を通った。戻った一隻は、軽く、西の壁に沿って飛んだ。
軽く、細く、横風に強い艇。
――軽くなりますね。
あの日、解体屋に言った自分の声を思い出して、彼女は小さく息を吸った。
「書記さん。紙と墨を、お借りできますか」
◇
日が傾く頃、彼女は港の端の管理小屋の戸を叩いた。
出てきたのはネルだった。ヴェルディアナの顔と、胸に抱えた紙の束を見て、黙って奥へ顎をしゃくった。
オズワルドは、いつもの椅子にいた。膝の上の航路図から、目を上げなかった。
「記録庫に、行ってまいりました」
返事はない。
ヴェルディアナは、書き写してきた谷の図を、老人の膝の航路図の上に、そっと重ねた。風の矢印が、西の崖に沿って巻き上がっている図を。
パイプが、口元で止まった。
「〈二の門〉の西壁で」彼女は言った。「風は、どの高さで返りますか」
老人はしばらく図を見つめていた。それから、ようやく口を開いた。
「……日による」
「晴れた北風の日なら」
「崖の中ほど。お前の背丈で、三十人分ほど上だ」
「曇りの日は」
「低い。ひどいときは、谷底の岩に届くほどだ」
「それを、測る方法は」
「塔があれば、塔で測る」オズワルドは、図の隅の、自分の走り書きを指でなぞった。「なければ、飛んで測るしかない」
「ですから、追加観測と書かれたのですね」
老人は答えなかった。
ヴェルディアナは、その場に膝をついて、老人と目の高さを合わせた。
「谷には入りません。父と約束しました。それに、今の機関では、半分の出力で一刻しか持ちません。〈二の門〉までは届かない」
「分かっているなら――」
「〈一の門〉の手前までなら、届きます」
オズワルドの目が、初めて彼女の方を向いた。
「門の手前で、谷から吹き出してくる風を測ります。晴れの日、曇りの日、北風の日、南風の日。半分の出力で、一刻のうちに戻れる距離だけ。それを積み重ねれば、〈二の門〉の返り風がどの日に高くなるのか、少しは見当がつくのではありませんか」
ネルが、戸口で腕を組んだまま、小さく口笛を吹いた。
「……それで」老人が言った。「俺に何をしろと」
「その頁の続きを、一緒に書いていただきたいの」
ヴェルディアナは、報告書の最後の、白紙の頁を思い浮かべた。
「父の報告は、『要追加観測』で終わっています。塔が建つと聞いて、皆さんは続きを書くのをやめた。でも、塔は建たなかった。……なら、続きを書けるのは、もう私たちしかいません」
小屋の中に、長い沈黙が落ちた。
オズワルドは、ゆっくりとパイプを口から離し、灰皿の縁で叩いた。
「お前の親父も、あの日、同じことを言った」
ヴェルディアナは、息を止めた。
「塔が建つと聞いて、俺もあいつも、安心しちまった。次の夏には建つ、その次の夏には、と言っているうちに、十六年だ」
老人は、膝の上の二枚の図を重ねたまま、立ち上がった。思っていたよりも背が高かった。
「観測だけだ。谷には入らん。風が悪けりゃ、俺が引き返せと言ったら引き返す」
「はい」
「それと、親父には、お前から話せ。あの報告書を読んだことも、全部だ」
「……はい」
老人は壁の古い外套に手を伸ばしかけて、やめた。
「弁がまともになったら、呼べ」
戸口のネルが、肩をすくめた。
「ひびの入った弁で空に上げる気はないよ。ガウスを口説けたら、ね」
◇
その夜、書斎の扉を叩くと、父はいつものように帳簿に向かっていた。
ヴェルディアナは、机の前に立ち、一冊の写しを置いた。表紙に、自分の字で書いてある。
『〈一の門〉手前 風観測計画』
その下に、もう一枚、記録庫で書き写した報告書の最後の頁を重ねた。几帳面な字の、『要追加観測』で終わる頁を。
父は、その字を見て、ペンを置いた。
しばらく、何も言わなかった。
「……ひばり号のことを、伺ってもよろしいですか」
暖炉の薪が、ひとつ小さく爆ぜた。




