報告
屋敷の勝手口をくぐったのは、夜の鐘が鳴り終わってからだった。
「お嬢様!」
厨房の灯りの中で、執事のハンスが燭台を取り落としかけた。視線は、ヴェルディアナの顔から外套の裾へ下り、そこに黒くこびりついた油の染みで止まった。
「……港でございますね」
「港です」
「旦那様が、書斎でお待ちです」
ハンスは、それ以上何も聞かなかった。代わりに、背後のリタへ短く目をやった。リタは、この二日で十は老けたような顔で、小さく首を振った。
◇
書斎の父は、机に向かって帳簿を広げていた。
エルスト家の当主は、領主というより、地方の測量技師のような男だった。痩せた肩に、袖口の擦り切れた上着。机の端には、封を切ったばかりの手紙が一通、裏返しに置かれている。
「遅かったな」
父は顔を上げ、娘の裾を見た。ハンスと同じところで、視線が止まった。
「座りなさい」
ヴェルディアナは座らなかった。机の前に立ったまま、両手を体の前で重ねた。
「お父様。ご報告があります」
「聞こう」
「船を買いました」
父は、ペンを置いた。
「……模型か?」
「輸送艇です」
暖炉の薪が、ひとつ小さく爆ぜた。
父は眼鏡を外し、指で目頭を押さえた。しばらくそうしていてから、ゆっくりと眼鏡をかけ直した。
「相談ではなく、報告なのだな」
「はい」
「相談していたら、私は止めたと思うか」
「止められたと思います」
「だから報告か」
「はい」
父は、深く息を吐いた。それが溜め息なのか、笑いを堪えたものなのか、ヴェルディアナには分からなかった。
「……座りなさい。立ったままでは、話が長くなる」
今度は、彼女も座った。
◇
「金はどうした」
「首飾りと耳飾りを。お母様の形見には、手をつけていません。それと、貯めていたお小遣いです」
「全部か」
「全部です」
「船は飛ぶのか」
「まだ分かりません。機関の弁にひびがあります。あの型に共通の故障で、部品はもう作られていません。直せる職人を探すところからです」
父は眉ひとつ動かさずに聞いていた。
「修理にいくらかかる」
「分かりません」
「誰が直す」
「港の管理をしていた整備工が、機関を見てくれます。削り出しのできる工房は、これから探します」
「その整備工の給金は」
ヴェルディアナは、一瞬だけ詰まった。
「……それも、これからです」
父は、帳簿の上で指を組んだ。
「分からないことばかりだな」
「はい」
「それを分かっていて、買ったのか」
「買う前に分かっていたことと、買ってから分かったことがあります」彼女はまっすぐに父を見た。「積めないこと、燃料を食うこと、部品がないことは、分かっていました。弁が型ごと駄目だということは、今日、知りました」
「それでも、手放す気はないのだな」
「ありません」
父は、しばらく黙っていた。
それから、机の引き出しを開け、一枚の古い地図を取り出して広げた。領地の北、山並みが左右から迫る一帯に、細い線が一本、走っている。
「港で、どこを飛ぶと言った」
ヴェルディアナは、驚いて父の顔を見た。ハンスか、リタか。誰かがもう伝えたのだと分かった。
「……渓谷を」
父の指が、地図の上の細い線をなぞった。
「戦の前、あそこには標識塔と観測所があった。私が若い頃は、定期の連絡艇も通っていた。戦で塔が崩れてからは、誰も通っていない」
「存じています」
「通ろうとした者がいたことは、知っているか」
ヴェルディアナは、答えなかった。
「三隻だ。戦が終わってから、三隻が試みて、二隻が戻らなかった」
暖炉の火が、父の眼鏡に小さく映っていた。
「ヴェルディアナ。私は、お前が港へ通っていることを知っていた。いずれ何かを買うだろうとも思っていた。それを止めるつもりは、実のところ、あまりなかった」
「……」
「だが、あの谷へ人を乗せて飛ぶとなれば、話は別だ。乗る者には家族がいる。その者たちに何かあれば、責めを負うのはお前一人ではない。この家だ」
ヴェルディアナは膝の上で、両手を握った。
船長は、船と乗組員に責任を負う。それは知っていた。前の人生でも、たぶん、そうやって生きていた。
けれど今の自分には、その外側にもうひとつ、背負っているものがある。
「……お父様。申し上げてもよろしいですか」
父が、目で先を促した。
「船の代金は、私が出しました。修理については、整備工と見積もりを取ってから、改めてご相談させてください。領地の役に立つ船にできるなら、その計画も一緒にお持ちします」
「うむ」
「それから、渓谷のことです」
彼女は、父が戻した地図の引き出しに目をやった。
「戻らなかった二隻のことを、調べます。いつ、どこで、どんな風の日に消えたのか。港には、戦前に谷を飛んでいた航法士の方がいます。その方にも話を伺って、航路を考えます。計画がまとまったら、お父様にお見せします。お許しが出るまで、谷には入りません」
父は、しばらく娘の顔を見ていた。
「記録なら、領の記録庫にある。戻らなかった二隻の分も、残っているはずだ」
「はい」
「……それと、ひとつ」
「はい」
「初めて飛ぶ日には、私も港へ行く」
ヴェルディアナは、ぽかんと父を見た。
父は地図の引き出しを閉め、帳簿に目を戻した。その手つきは、いつもと何も変わらなかった。
「明日の授業も、予定どおりだ」
「はい、お父様」
◇
書斎を出ると、廊下の暗がりにハンスとリタが並んで立っていた。二人とも、聞いていなかったという顔をしていた。
「お嬢様」ハンスが、静かに言った。「湯を沸かしてございます。その外套は、明日、私が何とかいたしましょう」
「ありがとう、ハンス」
「それと」
老執事は、ほんのわずかに声を落とした。
「旦那様は、若い頃、あの谷を通る連絡艇に乗るのがお好きでした。……私から申し上げたことは、ご内密に」
ヴェルディアナは、閉じた書斎の扉を振り返った。
扉の下から、まだ灯りが漏れていた。
◇
翌朝、空がまだ白みきらないうちに、彼女は港へ着いた。
それでも、遅かった。
細い船の、開け放たれた機関室の扉の前に、ネルがもう立っていた。角灯の光の中で、袖をまくった腕を組み、こちらを見ている。
「遅れてはいませんね」
「ぎりぎり」
ネルは顎で機関室の中を示した。燃焼室の覆いは外され、燃料の管がつなぎ直されていた。夜のうちにやったのだと、ひと目で分かった。
「半分まで。それ以上は回さない。ひびが鳴ったら、すぐ止める」
「はい」
「あんたは、そこで聞いてて。音が変わったら言って」
ヴェルディアナは頷き、機関室の入口に膝をついた。
ネルが点火の把手に手をかけ、一度だけ、彼女の方を振り返った。
「点けるよ」




