くず鉄の値段
船底の下は、油と錆と、雨水の匂いがした。
「お嬢様。……お嬢様、お召し物が」
頭上から、侍女のリタの困り果てた声が降ってくる。ヴェルディアナは返事をしないまま、仰向けのまま船体の継ぎ目に指を這わせた。
竜骨に歪みはない。肋材の継ぎ目にも、浮いた錆は見当たらない。何年も雨ざらしだったはずなのに、指先に触れる鋲の頭は、どれも油で黒く光っていた。
「リタ。この船、何年ここにつながれていたと言っていたかしら」
「港の方のお話では、六年と……」
「六年」
彼女は、船底のいちばん低いところにある排水弁に触れた。固着していない。軽く押すと、素直に動いた。
誰かが、六年間、この弁を回し続けていたのだ。
船底から這い出すと、リタが真っ青な顔で裾を払いにかかった。ヴェルディアナはそれに構わず、少し離れて船の全体を見上げた。
そのとき、頭上を低く長い唸りが通り過ぎていった。
雲の上を、星間貨物船の腹がゆっくりと横切っていく。王都の星間港へ降りる、月に二度の定期便だ。港で働く者たちは、もう誰も見上げない。
ヴェルディアナだけが、その影が山の向こうへ消えるまで目で追った。それから、目の前の小さな船に視線を戻した。
細い船体だった。戦時に後から鋲留めされた分厚い装甲板が、その細さを不格好に着ぶくれさせている。翼は短く、機関の覆いは今どき見ない古い型だった。
彼女は外套の内から小さな手帳を取り出した。この三日、港を歩き回って書きつけた頁だ。
――積載量、並の輸送艇の三分の一。
――燃費、悪い。
――機関、旧型。部品の製造は終了。
――同型艇、戦時に三十余隻。うち払い下げ十二。解体場へ回ったものあり。
最後の一行の下に、自分の字で線が引いてある。部品は、解体された兄弟たちから拾えばいい。
港の誰に聞いても、答えは同じだった。積めない、燃料を食う、部品がない。その通りだと思う。平らな空を、荷を積んで行き来するなら、こんな船を買う者はいない。
けれど、この細さは横風を切るためのものだ。短い翼は、狭い谷で岩肌をかわすためのものだ。この船は、平らな空を飛ぶために造られてはいない。
「……いい船ね」
思わずこぼれた声に、リタが「はい?」と聞き返した。
◇
競売は、あっけなく終わった。
ヴェルディアナは、自分で決めていた上限まで札を上げた。母の形見ではない方の首飾りと、耳飾りを二組、それに十六の誕生日から貯めてきた小遣いのすべて。
解体業者のブラムという男が、その上に、ほんのわずかな額を乗せた。
木槌が鳴った。
「……お嬢様」
リタがそっと袖を引いた。ヴェルディアナは立ち上がり、まっすぐに会場の隅へ歩いていった。帳場で書類に署名していた、太い腕の男のところへ。
「ブラムさん。落札、おめでとうございます」
男は顔を上げ、上等な外套と、その裾にこびりついた錆の色を見比べて、眉をひそめた。
「さっき競ってたお嬢さんか。悪いが、もう俺のもんだ」
「ええ。ですから、あなたから買わせていただきたいの」
「……は?」
「あなたが欲しいのは、あの船の何ですか」
ブラムは、しばらく彼女の顔を見ていた。冗談を言っている顔ではないと分かったのか、やがて太い指を折って数え始めた。
「砲座の鋼。装甲板。荷役の起重機。あとは機関の銅だな。それで元が取れる」
「砲座も、装甲も、起重機も要りません。全部お持ちください」
「機関は」
「機関は要ります」
「銅が一番金になるんだ」
「存じています」ヴェルディアナは頷いた。「ですから、機関の分はお支払いします。船体の分も。……持っているのは、これだけですけれど」
彼女は、首飾りと耳飾りを包んだ布と、小銭の詰まった革袋を、帳場の上に置いた。
ブラムは包みを開き、宝石を光にかざし、革袋の重さを手のひらで量った。それから、もう一度彼女を見た。
「装甲を剥いだら、残るのは薄っぺらい外板だけだぞ。弾ひとつ防げやしない」
「軽くなりますね」
ブラムは一瞬、言葉に詰まった。
「……物好きだな」
「よく言われます」
ブラムは鼻を鳴らし、それから、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「砲座と装甲は明日までに剥がす。それでいいか」
「はい。それと、もうひとつお願いが」
ヴェルディアナは手帳の頁を開いて見せた。
「同じ型の船が解体場に入ったら、知らせていただけますか。機関の部品を買い取りたいの」
「高くつくぞ」
「払えるようになってから、伺います」
ブラムは今度こそ声を出して笑った。ヴェルディアナが右手を差し出すと、彼は一瞬その手を見つめ、油で汚れた自分の手を外套でごしごし拭ってから、握った。
◇
翌日の夕方、彼女はもう一度、船の前に立っていた。
砲座が外され、継ぎはぎの装甲板が一枚残らず剥がされていた。下から現れたのは、ところどころ色の違う、薄い外板だった。装甲を留めていた鋲の穴が点々と並び、起重機の腕がもぎ取られた付け根には、新しい鉄の色がのぞいている。
着ぶくれていた船は、ひと回り細くなっていた。
鎧を脱いだ、と思った。本当は、最初からこの姿で生まれた船なのだ。
「お嬢様」
リタが、恐る恐る隣に立った。
「その……これは、船、ですの?」
「ええ」
ヴェルディアナは、目を細めてそれを見上げていた。
「わたくしの船よ」
リタは何か言いかけて、やめた。主人がこんなに嬉しそうな顔をしているのを見るのは、たぶん初めてだったからだ。
◇
港の端の、潮風で傾いた管理小屋の戸を叩くと、出てきたのは、袖をまくった若い女だった。顔にも腕にも、黒い油の染みがある。その奥の椅子では、白髪の老人が、膝に古い航路図を広げたまま、こちらを見ずにパイプをくわえていた。
「ネルさんと、オズワルドさん、ですね」
「……そうだけど」
「あの船の排水弁を回していたのは、どなたですか」
ネルという女は、怪訝な顔で自分を親指で指した。
「毎朝。誰も乗らない船でも、腐らせるのは嫌だったから。……で、あんた誰?」
「あの船の、持ち主になりました」
ネルの目が丸くなった。奥の老人の、パイプを持つ手が止まった。
「機関のことを、伺いたくて」
ネルはしばらく黙って彼女を見ていた。それから、腕を組んだ。
「第二燃焼室の弁にひびがある。あの型の持病でね。戦時中にこの型が次々に退役したのは、だいたいそれが原因。解体場に回った兄弟たちも、たぶん同じところが割れてる」
手帳の、あの一行が、頭の中で音もなく崩れた。
ヴェルディアナは、ほんの一呼吸、黙った。
「……見せていただけますか」
「明日にでも――」
「今から」
ネルが眉を上げた。
「もう暗いよ」
「灯りを、お借りできれば」
◇
機関室は狭く、古い油の匂いが壁に染みついていた。
ネルが角灯をかざし、燃焼室の覆いを外す。ヴェルディアナは裾をたくし上げて膝をつき、その奥を覗き込んだ。
弁座の縁に、髪の毛ほどの細い線が走っていた。
「どこから入っていますか」
「内側の角から。外へ向かって伸びてる」
「低い出力なら、漏れますか」
ネルは、少しだけ目を細めた。
「……半分までなら、たぶん持つ。それ以上回したら、いつ割れてもおかしくない」
「半分で、どれくらい」
「試してないから分からない。六年、一度も火を入れてないんだ」
ヴェルディアナは、そのひびから目を離さなかった。
知っている、と思った。こういうひびを、前にも見たことがある。油の匂いのこもった狭い機関室で、角灯の光を頼りに、誰かと額を突き合わせて。荒くれ者ばかりの船だった。自分は、その船の船長だった。
顔も、名前も、もう思い出せない。けれど、こういうときに船長が何をするべきかは、身体が覚えていた。
「これを削り出せる方に、心当たりは?」
「旋盤のある工房なら、町にいくつか。でも、あの型の弁を一から削れる腕となると……。あたしは手入れ専門だよ」
「わたくしには、これは直せません」
彼女は立ち上がり、膝の埃を払った。
「なら、削れる人を探します。それまで、この機関を見ていてくださる方が要ります」
ネルは、角灯を持ったまま、しばらく彼女を見ていた。
「……あたしに、ってこと?」
「この船を六年腐らせなかった人以外に、頼める人を知りません」
ネルは何か言いかけて、口をつぐんだ。それから、角灯を少しだけ持ち上げ、ひびをもう一度照らした。
「明日の朝。火を入れられるかどうか、見てみる」
「はい」
「遅れたら、なし」
「はい」
戸口に、いつの間にか白髪の老人が立っていた。パイプの火が、暗がりで小さく赤く光っている。
「お嬢さん」
低い、乾いた声だった。
「あれで、どこを飛ぶつもりだ」
ヴェルディアナは、機関室の小さな丸窓の向こう、夜に沈みかけた山並みの、その切れ目を見た。
「渓谷を」
老人は何も言わず、背を向けて暗がりへ戻っていった。
◇
ネルが小屋へ引き上げたあと、ヴェルディアナはひとりで艦橋へ上がった。
計器の硝子は曇り、座席の革はひび割れている。舵輪にそっと手をかけると、木の握りは冷たく、少しだけ湿っていた。
両手で握る。
まだ飛べない。弁は割れている。部品はない。金もない。父にも、まだ何も話していない。
それでも、握った舵輪の重さは、ずっと昔から知っている重さだった。
窓の外、山の切れ目の上を、王都へ向かう星間船の灯が、小さく瞬きながら渡っていく。
ヴェルディアナは、誰もいない艦橋で、声を出して笑った。




