プロローグ 赤いエメラルド
「いよいよですね、提督」
リシェルは、旗艦の観測窓に両手をついたまま言った。
窓の外では、彼女の故郷の空を、黒い山のような影がいくつも覆っている。浮遊要塞。辺境伯ザランが三年かけて造り上げた、空に浮かぶ城塞群だった。
十三歳の王女の声は、少しだけ震えていた。
「……心が痛みます。あなたの全てが、ここでなくなる」
背後で、紅茶のカップが小さく鳴った。
「全ては大げさですよ、殿下」
カイ・ローウェン提督は、寝癖のついた髪をかき回しながら苦笑した。艦隊を率いる将というより、図書館で居眠りしている学者のような男だった。
「あれは、ここでなくなっても良いものです。人は一人も乗っていません。乗っているのは鉄と、燃料と……まあ、私の給料何十年分かの税金くらいのものでしょう」
そこまで言って、彼は窓の外に目をやった。整列した艦の群れ。三千隻。そのすべてが、彼が若い頃から乗り継ぎ、名前を覚え、修理の跡まで知っている船だった。
「……まあ、そこまで割り切れているわけでもありませんが」
リシェルは振り返らなかった。振り返ったら、この人の顔を見てしまう気がした。
◇
ザランの要塞は落ちない。それがこの三年間の常識だった。
要塞の外殻を覆う「霊障壁」は、光線も砲弾の爆圧も、水面に落ちた墨のように薄めて散らしてしまう。王国軍も、提督の艦隊も、何度挑んでも傷ひとつ付けられなかった。
「霊障壁が散らすのは、力の“流れ”です」
作戦会議の席で、提督は駒をひとつ盤上に置いて言った。
「でも、ただ重いだけのものは散らせない。流れではなく、塊ですから」
そして、盤の端から端まで、駒を一直線に滑らせた。
「盤面の槍、とでも呼びましょうか。……趣味の悪い名前ですね、すみません」
◇
「全艦、自動航法に移行。最終加速、開始」
号令は短かった。
三千の艦が、一斉に光の尾を引いて動き出した。乗員のいない艦橋に灯りだけがともり、誰も握っていない舵が、計算どおりの角度でわずかに傾く。
リシェルは息を止めて見ていた。
先頭の艦が、要塞のひとつに触れた。霊障壁が青白く波打ち、鉄の艦首がひしゃげる。それでも艦は止まらない。後続が、その背中を押すように次々と突っ込んでいく。
音は、遅れて届いた。
空そのものが割れるような、低く長い衝撃音。
要塞が傾いた。外殻に亀裂が走り、黒い山が、ゆっくりと、信じられないほどゆっくりと、雲の下へ沈んでいく。
ひとつ。またひとつ。
「……落ちた」
誰かが呟いた。艦橋のあちこちから、押し殺した歓声が漏れた。
リシェルは歓声を上げなかった。燃えながら落ちていく艦の中に、彼女が名前を知っている船があった。幼いころ、提督に連れられて見学した船だった。食堂の壁に、子どもの落書きが残っていた船だった。
◇
だが、ひとつだけ。
艦隊の中央、ザランの旗艦要塞〈グラウゼーレ〉だけは、まだ空にあった。
霊障壁の厚みが違った。突っ込んだ艦は、障壁に触れた瞬間に紙のように潰れ、要塞の表面を焦がすことすらできずに落ちていく。
「障壁出力、他の要塞の十倍以上です! 突破できません!」
オペレーターの声が上ずった。
残りの艦は、もう数えるほどしかない。
提督は何も言わなかった。紅茶のカップを置き、ただ窓の外を見ていた。待っているような顔だ、とリシェルは思った。
そのとき。
雲が、紅く染まった。
いや、紅ではない。夕陽を透かした翡翠のような、深い緑を帯びた光だった。雲を裂いて、一隻の船が現れる。王国軍のものでも、提督の艦隊のものでもない。旗には、何の紋章も掲げられていなかった。
「……翠王号」
提督が、その名を口にした。
艦橋の通信機に、ざらついた女の声が割り込んだ。
『待たせたね、学者先生。借りは返す主義なんだ』
「来ないかと思っていましたよ、ヴェルダ」
『あたしが来なくても、あの馬鹿は来る。だったら、ついて行くしかないだろう』
その言葉の意味を、リシェルが理解するより早く――
二隻目が、現れた。
◇
〈エリュシオン号〉。
折れた錨の旗を掲げた、古い海賊船だった。そいつは減速しなかった。むしろ、さらに速度を上げて、〈グラウゼーレ〉の霊障壁へとまっすぐに艦首を向けた。
『ヴァルト、正気かい!』
女の声が叫ぶ。
返ってきたのは、低い笑い声だけだった。
『正気で海賊がやれるか』
〈エリュシオン号〉の艦首が、霊障壁に突き刺さった。
青白い光が、悲鳴のように弾けた。艦首がひしゃげ、装甲が剥がれ、それでも船は前へ進む。障壁が、ほんのわずかに、たわんだ。
そして、破れた。
〈エリュシオン号〉は障壁を抜け、そのまま要塞の外殻に頭から突っ込んだ。外殻が裂け、黒い穴が口を開ける。代わりに、船体は真ん中から折れ、炎を噴いて傾いていった。
リシェルは、見た。
崩れていく船の甲板から、一人の男が、空へ飛んだ。
風に煽られた外套。何もない空中へ、ためらいもなく身を投げる背中。その真下へ、翠色の船が、まるで最初から知っていたかのような角度で滑り込んだ。
男の体が、甲板に転がる。
『……荷物を拾う趣味はないんだけどね』
『助かったよ』
『礼はあとで。――突っ込むよ』
穿たれた穴の縁には、破れた霊障壁の名残が、青白くまとわりついていた。脈打つように、ふくらんでは、しぼむ。〈翠王号〉は、その脈に煽られて、大きく傾いた。
立て直さなかった。傾いたまま、穴の縁に沿って、脈に船体を預けていた。
開いたままの回線に、女の声が、低く数えた。
『一つ。二つ』
脈が、ふくらんだ。
『――今』
機関が吼えた。ふくらんだ脈に押し上げられるようにして、〈翠王号〉は、〈エリュシオン号〉が穿った穴へ、船体ごと潜り込んでいった。
◇
要塞の中は、静かだった。
警報も、迎撃兵の姿もない。二人は、焦げた通路を並んで歩いた。ヴェルダは銃を、ヴァルトは刃の欠けた剣を下げて。
最奥の制御区画で、その男は待っていた。
ザラン。辺境伯にして、霊障壁を生み出した科学者。白い外套をまとい、玉座ではなく、ただの作業椅子に腰掛けて、彼は二人を迎えた。
「来ると思っていた」
穏やかな声だった。
「お前たちは来る。ローウェンはそれを知っていて、盤を組んだ。……実に、よくできた盤だ」
「褒めても何も出ないよ」
ヴェルダが銃口を上げる。ザランは、それを見ても笑みを崩さなかった。
「出してもらう必要はない。私はもう、次の一手を打った」
彼の指が、肘掛けの上の、何かの装置に触れた。
要塞の奥深くで、何かが目を覚ますような振動が響いた。
「この盤面は、ここで終わる。だが――」
ヴァルトが駆けた。剣が届くより、光の方が早かった。
「――次の盤面で、また会おう」
白い閃光が、すべてを呑み込んだ。
最後の一瞬、ヴェルダは隣の男の手を探した。指先が触れたのか、触れなかったのか。それすら、彼女にはもう分からなかった。
◇
リシェルは、空に咲いた白い光を見ていた。
音はなかった。ただ、光が広がり、ゆっくりと薄れ、あとには何も残らなかった。要塞も、翠色の船も、何もかも。
「……提督」
声がかすれた。
「全ては、なくならないと、おっしゃいましたよね」
提督は、しばらく答えなかった。
やがて彼は、冷めた紅茶を一口飲み、窓の外の、何もなくなった空を見上げた。
「ええ。言いました」
その横顔は、悲しんでいるようにも、何かを待っているようにも見えた。
「盤面は、まだ終わっていませんから」
リシェルには、その言葉の意味が分からなかった。




