# 第五話 クラリス救命
# 第五話 クラリス救命
ヘルガは、王都の南、職人街の路地裏で、小さな薬草園を開いて暮らしていた。
私とアンナがその扉を叩いたとき、老婆は古びた前掛けで手を拭きながら、目を細めて私を見た。
「……シャルロット様?」
「お久しぶりです、ヘルガ」
私は深く頭を下げた。彼女は母エレオノーラが亡くなった後、継母レーゲンシアによって屋敷を辞めさせられた一人だった。アンナと同じく、母派の旧臣。けれど、ヘルガは追放後も王都に残って薬草園を続けてくれていた。母が言っていた──「いつでも頼っていいのよ、シャル。ヘルガはずっとあなたを見守ってくれているから」と。
「お嬢様、あなた、ご立派になられましたね」
ヘルガの皺だらけの掌が、私の頬にそっと触れた。
「立派に、というよりは、ずいぶん勝手に、申し訳ありません」
私は微笑んでから、急いで本題に入った。
「ヘルガ、お願いです。一緒に、グリュンヴァルト公爵家へ来てください。クラリス様、まだ十一歳の妹君が、紅斑熱の前駆症状を出しておられます」
「紅斑熱──」
ヘルガの瞳が、鋭く光った。
「分かりました。すぐに支度を」
ヘルガは奥の小部屋から、革張りの大きな鞄と、いくつもの小瓶の入った木箱を持ってきた。私は彼女の腕を支えながら、馬車に乗せた。
──公爵家への帰路、私は祈り続けた。
紅斑熱は、発症から三日以内であれば、適切な薬と看護で、ほぼ全快する病だ。けれど、それを過ぎると、高熱と全身の発疹、そして肺の腫れによって、十一歳の少女の身体は一気に蝕まれてしまう。
母エレオノーラは、生前、領地で紅斑熱の流行が起きたとき、自ら陣頭指揮を取って、村々を回って薬を配った。私はそのとき六歳。母の薬師として同行したヘルガが、毎晩、私と母の前で薬の調合を見せてくれた。
「シャル、覚えておきなさい。病は、見つかった瞬間が、勝ち目の半分なのよ」
母の言葉が、馬車の揺れの中で、繰り返し響いた。
公爵家に戻ると、屋敷の玄関にはアルフレート様自らが立って、私たちを待っていた。
「ヘルガ殿、ようこそお越しくださいました」
長身の青年が、老婆に深々と頭を下げる。ヘルガが慌てて手を振った。
「私のような者に、もったいないお言葉でございます。──さ、すぐに、お嬢様の元へ」
クラリスの寝室には、すでに公爵ご夫妻と、王宮から駆けつけた医師団の長が控えていた。ヘルガはまず、医師団の長に深々と礼をし、それから少女の傍らに腰を下ろした。
「お嬢様、失礼いたします」
クラリスは、微熱に潤んだ瞳でヘルガを見上げ、こくんと頷いた。
ヘルガは、クラリスの手首を取り、脈を計った。喉を覗き、首の後ろのリンパを触り、爪の色を確かめた。それから、寝間着の襟元を少しだけ開いて、首から鎖骨にかけての肌を見た。
「……ここに、薄く、紅い斑点が」
ヘルガの声は、静かだった。けれど、その静けさが、皆の背筋を冷たくした。
「紅斑熱の、前駆発疹でございます。──シャルロット様の見立てに、間違いはございません」
公爵夫人が、無言で胸の前に手を組んだ。公爵は険しい顔で天井を見上げた。
「処置を、急ぎなされ」
「畏まりました」
ヘルガは木箱を開けた。
そこから出てきたのは、いくつもの小瓶と、乾燥させた薬草、そして母の処方書を写し取った古い羊皮紙だった。母エレオノーラ自身の筆跡で、紅斑熱の早期治療の処方が、丁寧に記されていた。
「銀蓮花の根を煎じたものを、まずは温かいうちに、一日に三度。これで熱を抑えます。次に、白い苦菜を粉にしたものを、お湯に溶かして、口を含ませて吐き出していただきます。喉の腫れと発疹の進行を抑えます。そして、夜は湿らせた手拭いで全身を拭き、体温が上がりすぎないように──」
ヘルガが手早く処方を進める一方で、私はアンナとともに、お湯の支度や、薬草の選別を手伝った。
医師団の長も、ヘルガの処方を確認しながら、深く頷いた。
「リエージュの……あの記録ですな。間違いない」
夜が更ける頃、ようやくクラリスは深い眠りに落ちた。
私は寝室の隅の椅子に座って、少女の小さな寝息を聞いていた。
「シャルロット嬢」
低い声がして、振り返ると、扉口にアルフレート様が立っていた。彼は私に近寄り、椅子の隣に立って、妹の寝顔をしばらく見つめた。
「ありがとうございます」
「いえ、まだ……」
私は首を振った。「快復を見届けてからで」
「いえ。──あなたが、即座に、紅斑熱の名を口にしてくださらなければ、私たちはまだ、ただの風邪と思って、見過ごしていた」
アルフレート様の声は、静かだった。けれど、その奥に、何か、深い感情が震えていた。
「私は、騎士団の務めで、この一週間、屋敷を留守にしていた。クラリスの咳が始まった時、私はその傍らにいなかった。父も、母も、軍の事務に追われていた。私たちは、自分の妹の体調の変化に、気づくことすらできなかった」
「アルフレート様」
「あなたは、初めて訪れた屋敷で、初めて出会った妹の咳の音から、それを見抜かれた」
アルフレート様は、深く息を吐いた。
「シャルロット嬢。あなたは、ご自分が思っている以上に、素晴らしい方だ」
私は、頬が熱くなるのを感じた。
「いいえ、私は、母の傍らで……」
「お母上は、本当に立派な方であられたのでしょう」
アルフレート様の金色の瞳が、私を見つめた。
「そして、その方の娘君も、また、立派でいらっしゃる」
私は、視線を落とした。
──アルフレート様。
私はあなたを救いたかった。
国境の戦地で、無惨にも討たれて還ってこないあなたを。
クラリス様を救ったのは、あなたの心の扉を、ほんの少し開かせるための、最初の一歩に過ぎないのです。
私の本当の目的は、あなた自身です。
そんなことを言える、わけもなかった。
「いえ、まだ、私には、お役に立てたかどうか……」
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「私を、夫に望まれた、本当の理由を」
私は、息を呑んだ。
クラリスのほうを一度見て、それからアルフレート様を見上げた。
「……私は」
声が、震えた。
「あなた様が、誰よりも、国を守ろうとしておられる方だと、伺っておりましたから」
私は、頬を紅く染めながら、続けた。
「父からも、世間からも。アルフレート様は、近衛騎士団の中で最も若く、最も真摯に、剣を磨いておられる方だと。──私は、自分の生涯を、人を守る方の傍らに置きたかったのです。それが、私の、選んだ理由でございます」
その答えは、嘘ではなかった。
そして、半分は、本当の私の願いだった。
アルフレート様は、しばらく沈黙した。
それから、ゆっくりと、口元を緩めた。
笑った、と分かるほどの動きではなかった。けれど、確かに、彼の口の端に、温かい影が落ちた。
「……不思議な方だ」
彼は呟いた。
「これまで、私を選ばれたいと申し出る令嬢は、いつも、爵位や財産の話をされた。あなたは、初めてだ。──私の務めの話だけを、されたのは」
「私には、爵位や財産は、過ぎた話でございますから」
私は微笑んだ。
「自分が手にできる、本当の幸せは、どんな殿方を傍に置くかでしか決まらないと、母から教わりました。ですから、私は、あなた様を、選ばせていただきました」
アルフレート様は、目を閉じた。
そして、再び目を開いたとき、その瞳には、もはや先ほどまでの氷の冷たさはなかった。代わりに、深い、温かい色が宿っていた。
「シャルロット嬢」
「はい」
「私は、確かに、騎士団の務めで、長く屋敷を空けることが多い。あなたのような繊細な方には、寂しい思いをさせるかもしれない。──それでも、よろしいか?」
私は、頷いた。
「はい。けれど」
「けれど?」
「お願いがございます」
私は彼の瞳を、まっすぐ見つめた。
「どうか、ご自愛くださいませ。お務めは大切でございますが、無事のお戻りを、何より、私はお願い申し上げます」
アルフレート様の瞳が、わずかに見開いた。
私は、深く頭を下げた。
「あなた様の代わりは、誰にも務まりません。ご無事で、ご自愛のうえで、お務めをお続けくださいませ。それが、私の、最大の願いでございます」
アルフレート様は、長い沈黙の後、低い声で答えた。
「──覚えておきます」
クラリスの寝息が、すこしずつ、深く、安らかになっていった。
窓の外では、夜風が樫の森を渡って、低く唸っていた。
その夜、私は、アンナとヘルガとともに、クラリス様の枕元で朝まで看病を続けた。アルフレート様も、廊下で交代の見張りをしてくださった。
朝が来る頃、クラリスの熱は下がり始めていた。
──最初の試験は、合格だ。
私は、窓の外の朝焼けを見ながら、母に向かって、声にならない感謝を捧げた。
母様、ありがとうございます。
あなたの教えが、また、ひとつ、命を救いました。
そして、私自身の、これからの命を、もう一度、生かす力にもなりました。




