幕間 消えた記憶、ある夜のエミール
(これは、二人が、二度と、思い出すことのない夜の話。)
エミール・ラントシュタインは、鏡の前で、拝領したばかりの略綬を、胸に、当てていた。
明日、彼は、宰相補佐として、正式に、王宮に、上がる。二十年、かかった。
「エミール様」
背後で、妻の声がした。
シャルロットが、彼の礼装の裾を、丁寧に、直しに来ていた。頬はこけ、目の下には、隈があった。彼女は、この一週間、ほとんど、眠っていない。明日の式典の答辞を、彼の代わりに、書き上げていたからだ。
彼は、鏡越しに、彼女を、一瞥した。
──地味な女だ。疲れ切っていて、色気もない。
いつも、そう、思う。
華やかさの欠片もない、艶を失った銀色の髪。染みの浮いた、古い部屋着。かつて、彼女が、侯爵家の娘であったとは、とても、思えない。
けれど、彼女がいなければ、この略綬は、なかった。
それを、エミールは、よく、分かっていた。
分かっていて、決して、口には、出さなかった。
「答辞は、これでよろしいでしょうか」
シャルロットが、一枚の紙を、差し出した。
彼女の手が、微かに、震えていた。
エミールは、それを、受け取り、目を、通した。
見事な答辞だった。彼の二十年の努力を、まるで彼自身の言葉のように、雄弁に、語っていた。
「悪くない」
彼は、それだけ、言った。
「せめて、労いの、お言葉が、いただけたら、嬉しいのですが」
シャルロットの声は、静かだった。
「なぜ」
彼は、鏡の中の自分の礼装を、確かめながら、答えた。
「これは、お前の、仕事だろう」
シャルロットは、何も、言わなかった。
ただ、俯いて、答辞の紙を、彼の懐に、収めた。
エミールは、そんな彼女を、見なかった。
彼の頭の中には、すでに、明日の式典で、誰と、どう、話すべきかが、渦巻いていた。
宰相閣下には、控えめに。財務卿には、如才なく。そして──。
これも、愛人のことを、考えていた。
彼の脳裏に、ある女の顔が、浮かんだ。
王都の下町に住む、若い女、リーザ。最近、彼に、熱心に、話しかけてくる女だった。彼女は、彼の「二十年かけて成り上がった、努力の人」という評判に、憧れの眼差しを、向けていた。
──リーザに、早く、会いたい。こんな、つまらない女と、結婚しなければ、よかった。
エミールは、そう、決めた。
妻には、決して、知られないように。
「エミール様」
シャルロットの声が、また、彼を、呼んだ。
「明日、私は、式典に、参りますが──よろしいでしょうか」
「ああ、構わない」
彼は、気のない、返事を、した。
「ただし」
彼は、付け加えた。
「壇上には、上がらないでくれ。──お前の姿は、少し、地味すぎる」
シャルロットの瞳が、一瞬、揺れた。
けれど、彼女は、すぐに、それを、隠した。
「畏まりました」
彼女は、深く、頭を、下げて、部屋を、辞していった。
その背中を、エミールは、一度も、振り返らなかった。
──明日で、俺の人生は、ようやく、変わる。
彼は、鏡の中の自分に、満足げに、頷いた。
そこに、彼女の二十年が、どれほど、注ぎ込まれていたか。彼は、一度も、数えたことが、なかった。
そして、その、たった一日後──。
王宮の祝宴で、シャルロットは、姉の手による毒杯で、崩れ落ちた。
エミールは、人垣を掻き分け、彼女の傍らに、駆け寄った。腕の中に、崩れ落ちる、妻の身体を、抱き止めながら――彼の頭に浮かんだのは、労いの言葉ではなかった。
爵位をもらい、出世した、その矢先に、妻が死ぬとは、なんて、運がいいんだろう。自分の代わりに働いてくれる、シャルが、いなくなるのは、少し、面倒だが――二十年、傍で、見てきたのだ。これからは、自分一人でも、この仕事は、問題なく、こなせるだろう。これで、堂々と、愛する人を、リーザを、家に、迎え入れることができる。
それが、二十年、共に生きた、妻への、彼の、偽らざる、本音だった。
シャルロットの瞳から、光が、消えていく、その、最後の一瞬まで。
彼女が、それに、気づいていたのかどうか、エミールには、分からなかった。
彼女の死後、彼は、初めて、書斎に、山と積まれていた、彼女の手による、覚書の束を、見つけた。
彼の論文の下書き。彼の答辞の草稿。彼の家計を支えた、商家との交渉記録。彼の名で提出された、幾つもの、成果。
その、すべての裏に、彼女の、癖のある、右肩上がりの筆跡が、あった。
そして、世界は、二十年、巻き戻った。
エミールは、この夜のことを、二度と、思い出さない。
シャルロットも、この夜のことを、細部までは、思い出せない。




