第六話 公爵家への婚約挨拶
グリュンヴァルト公爵家の本邸は、王都の北の丘に建っていた。
馬車の窓から見上げた屋敷は、灰色の石灰岩で築かれた壁を、蔦と棘の薔薇に覆わせて、まるで古い騎士物語の挿絵そのものだった。三階建ての本館の両翼が、長い廻廊で繋がり、その奥にこんもりとした樫の森が広がっている。森の中には、代々の騎士団長を弔う石塔がいくつも建っているのだという。
「シャルロット様、お着きでございます」
御者が告げる声に、私は深く息を吸った。
向かいの座席で、父アーデンフェルト侯爵が、私を励ますように微笑んだ。父はこの数日で、ずいぶん私への接し方を変えていた。──公爵家に連なる娘を、大切にする気になったのか。
「シャル、緊張しなくていい。先方は、形式上の挨拶を望まれているだけだ。父上もお優しい方だから、心配することはない」
「はい、お父様」
私は微笑み返した。父は気づいていなかった。私が緊張しているのは、グリュンヴァルト公爵家の威厳のせいではなく──別のことだった。
公爵家の妹君、クラリス様。
前世の記憶では、クラリス様は私が嫁いで間もなく、流行り病で亡くなっている。もちろん私は、当時、貧しい男爵家の嫁としてその訃報を風の便りで知っただけで、葬儀にも参列していない。けれど、わずか十一歳の少女が亡くなったという話は、私の胸に長く残っていた。
──アルフレート様の、ただ一人の妹君。
もし、今日、クラリス様にお会いできたなら。
もし、まだ流行り病の兆しが現れる前に、私が母の旧薬師を動かせるなら。
「シャル、参るぞ」
父の声に、私は頷いて、馬車を降りた。
執事と思しき初老の男が、深々と礼をして私たちを案内した。長い廻廊を抜け、客間に通されると、そこには三人の人物が、私たちを待っていた。
中央の長椅子に、白髪混じりの銀色の髪の老紳士。グリュンヴァルト現公爵──アルフレート様の父君、ヴィルヘルム様。鋭い金色の瞳。長く伸ばした髭。胸元には、近衛騎士団元帥を示す金の徽章。
その隣に、銀灰色の髪のアルフレート様。
そして、もう一人の長椅子に──。
「お初にお目にかかります、シャルロット様」
小さな少女が、よろよろと立ち上がった。
藁色の柔らかい髪を肩で切り揃え、淡い水色のドレスを着ている。けれど、その肌はあまりに青白く、唇には血の気が薄かった。少女は私に向かって礼をしようとして、堪えきれずに咳き込んだ。
「コホッ、コホ、コホ」
「クラリス、控えなさい」
公爵が低い声で叱る。クラリスは慌てて口元を手で覆い、頭を下げ続けた。
「失礼を、いたしました。シャルロット様」
私は、息が止まりそうになった。
──ああ。
前世で見ることのなかった、あの少女が、今、ここにいる。
そして、咳の音が、すでに、聞きなれてはいけない音色を含んでいた。喉の奥でかすれる、あの独特の湿り気。咽頭の腫れによって息が引っかかる、あの軽い「ヒュー」という音。
私は、母の枕元で、何度もその音を聞いていた。
そう、母の最期の症状とは違う。けれどそれは、母の死の数年前、王都で大流行していた、ある病の前駆症状だった。当時、母は、まだ元気だった頃、アンナとともにこの病の予防策を学んでいた。私はその様子を、母の隣で、何度も目にしていた。
「クラリス様」
私は、靴音を立てて、少女のほうへ歩み寄った。
「シャル、あなたまだご挨拶も……」
父の戸惑いの声を背に、私はクラリスの前に膝をついた。少女の小さな手を、両手でそっと包んだ。
「お加減はいかがですか? いつから咳が?」
「コホ……ええと、五日ほど前から、です」
「お熱は? 喉の痛みは?」
「微熱が時々……喉は、お湯を呑むと痛くて」
「お屋敷には、新しい使用人や、新しく入った薬草、市場から買われた家具などはございませんか?」
クラリスは、私の問いに、けなげに答えながら、首をかしげた。
「お父様、そういえば、十日ほど前に、新しい園丁の方がいらっしゃいましたわね。リエージュの方面から……」
「シャル、控えなさい」
公爵の声が、低く響いた。私は顔を上げて、ヴィルヘルム公爵を見上げた。
「失礼を、お許しくださいませ」
私は深く頭を下げた。
「ですが、クラリス様の咳の音は、ただの風邪ではないように、私には聞こえます。──失礼ながら、お父様。十年前に王都で流行いたしました『紅斑熱』の前駆症状に、酷似しております」
応接間に、しんとした沈黙が落ちた。
公爵の瞳が、鋭く光った。
「紅斑熱、だと? あれは、王都の貧民街で流行る、熱帯由来の伝染病ではないか。なぜ我が娘がそんな病に」
「リエージュの方面は、十年前の流行の発端地でございました」
私は、母から教わった知識を、できるだけ落ち着いた声で並べた。
「リエージュの港から運ばれてくる薬草、香辛料、布地などに付着して、王都にもたらされたと、当時の王立医学院の調査で記録されております。今、新しい園丁の方がリエージュ方面からいらしているなら、その荷物に紅斑熱の媒介虫が紛れている可能性は、十分に考えられます」
「シャル……お前、なぜそんなことを知っている」
父アーデンフェルト侯爵が、信じられないという顔で私を見た。
「お母様が、生前、王立医学院の発行された冊子をお読みでいらっしゃいましたから、私もその傍らで」
私は、嘘ではない範囲で答えた。
「お父様」
アルフレート様の声が、初めて応接間に響いた。
「シャルロット嬢の懸念を、軽んじるべきではないかもしれません。私が至急、医師団を呼びましょう」
「医師団……」
ヴィルヘルム公爵は眉根を寄せた。「だが、紅斑熱の確定診断には、特殊な検査が必要だ。王立医学院の医師でないと、判断できぬ」
「お父様」
私は、深く頭を下げたまま、口を開いた。
「失礼を承知で申し上げます。──私の母エレオノーラには、生前お仕えくださった薬師がおりました。ヘルガと申す老婆でございます。母の遺品の中に、彼女の手による紅斑熱の予防および早期治療の覚書がございます。もし、お許しいただけますなら、本日、ヘルガを呼び寄せ、クラリス様を診させていただきたく存じます」
「シャル」
父が驚いた声で私を呼んだ。「お前、そんなことを、独断で」
「お父様、お許しください。けれど、紅斑熱は、発症から三日が、勝負です。今、ご無事のうちにお薬を始められれば、三日とかからずに快復なさいます。けれど、もし発症されてからでは──」
私は言葉を途切れさせた。
クラリスが私の手を、ぎゅっと握り返した。小さな冷たい手だった。けれど、その指先には、確かな、生きようとする力が宿っていた。
ヴィルヘルム公爵が、長い沈黙の後、椅子から立ち上がった。
「アルフレート」
「はい、父上」
「侯爵令嬢のおっしゃる通りにせよ。即刻、その薬師を呼び寄せろ。私自身、立ち会う」
「畏まりました」
アルフレート様が静かに立ち上がった。彼の視線が、私の上に落ちた。冷たい金色の瞳の奥で、何かが、ほんの少し、揺れていた。
「シャルロット嬢」
「はい」
「あなたは……どこで、その知識を」
「お母様の、そばで」
私は、できるだけ簡潔に答えた。
「お母様は、領地の民の病に、深く心を寄せておられました。私は、その姿をずっとお傍で拝見していただけです」
アルフレート様は、しばらく私を見つめていた。何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。やがて、彼は深く頭を下げた。
「妹のために、ありがとうございます」
私は、慌てて立ち上がり、深々と礼をした。
「まだ、お礼を申される段階ではございません。これから、ヘルガを呼ばせていただきます」
クラリスが、私のドレスの裾を、そっと指でつまんだ。
「シャルロット様」
「はい?」
「あなた、お優しい方ね」
少女は、微熱で潤んだ瞳で、私を見上げて、微笑んだ。
「お兄様の、奥様になられるの?」
私は、頬が熱くなるのを感じた。
「……ええ、もし、お父上がお許しくださるなら」
「お許しくださるわ、絶対に」
クラリスは、囁くように言った。
「だってお兄様、さっきから、ずっと、あなたを見てらっしゃるもの」
私は、思わずアルフレート様を振り返った。
彼は、すぐに視線を逸らした。けれど、その耳が、ほんの少しだけ、赤く染まっていた。
──あら。
私は、口元に手を当てた。
冷たい金色の瞳の騎士様にも、こんな表情があるのかしら。
その日、私は、ヘルガを公爵邸へ連れてくるべく、アンナと共に夕暮れの王都を駆け抜けた。
馬車が石畳を打つ音の合間に、私は何度も、心の中で繰り返した。
──間に合いますように。
クラリス様を、あの少女を、絶対に、亡くさないように。
胸の奥で、母エレオノーラの面影が、静かに微笑んだ気がした。




