第六話 義姉の婚約発表会
# 第六話 義姉の婚約発表会
クラリス様が完全に快復し、紅斑熱の発疹がきれいに引いた頃には、王都はすでに秋の盛りを過ぎていた。
落ち葉が石畳の上を転がり、窓辺に置かれた菊が深紅の花弁を広げる季節。アーデンフェルト侯爵家では、義姉イザベラとエミール・ラントシュタイン男爵子息との婚約発表会が、慌ただしく準備されていた。
「シャル、あなたは、もちろん来てくれるわよね?」
朝食の席で、義姉は私に向かって優しげに微笑んだ。
「もちろんですわ、お姉様」
私は紅茶のカップを傾けながら、淡く微笑み返した。
義姉は満足そうに頷くと、続けた。
「アルフレート様も、ぜひお招きしたいのよ。お互いの婚約を、家族で祝いたいでしょう?」
「アルフレート様は、お忙しい方です。お招きはいたしますが、ご欠席かもしれません」
「あら、それは寂しい話ね」
義姉は唇を尖らせた。けれど、瞳の奥には、別の感情が見え隠れしていた。
──姉は、アルフレート様と私が並ぶところを、見ておきたいのだろう。
そして、できるなら、姉自身がアルフレート様の前で輝いて、私の婚約者の心に、ほんの少しの揺らぎを起こしておきたいのだろう。
前世の姉は、そうしてあらゆる場面で、私から少しずつ何かを奪っていった。
今度は、そうはさせない。
数日後、婚約発表会の宵。
侯爵邸の大広間は、大広間と呼ぶのは恥ずかしいほど飾り立てられていた。継母レーゲンシアが、義姉のためにと侯爵家の予算を惜しみなく注ぎ込んだ。シャンデリアには新しい蝋燭、壁には特注の絨毯、楽団は王都で最も格式高い四重奏団。
そして、その中央に、義姉イザベラがいた。
深紅のドレス、燃えるような赤毛、首飾り、扇──すべてを完璧に整えた彼女は、確かに、その夜の主役だった。
──けれど。
私は、扉口に立って、もうひとり目立たない女に視線を向けた。
「シャル!」
エミールの声が、私を呼んだ。
エミールは、流行から数年遅れた礼装に身を包んで、私のほうへ歩み寄った。彼の隣には、ふくよかな女性と、痩せた中年の紳士が並んでいた。
──エミールの、ご両親。
エミールの父、ラントシュタイン男爵は、すでに顔が赤く染まっていた。手にした葡萄酒の杯を、ほぼ立て続けに空けている。母君は、ややけばけばしい黄金色のドレスを纏って、せわしなく扇を煽いでいた。
「久しぶりだね、シャルロット嬢」
エミール男爵が、酔いの覚めない声で私に挨拶した。
「ご無沙汰しております、ラントシュタイン男爵閣下」
私は深く礼をした。
前世では、私はこの男爵を、四年間「お父様」と呼ばされていた。葡萄酒の瓶を抱えて寝ている長椅子を、毎朝拭いていた。床に転がった瓶を、義実家の使用人に代わって、片付けていた。
──今は、違う。
「シャル、あなた、本当に綺麗になったわ」
母君が、ぐいと私の手を取った。指輪が冷たく食い込んだ。
「アーデンフェルト侯爵家のご令嬢が、どうしてあんなご令嬢に席を譲られたのかしら。あなただってきっと素敵な殿方をお選びになれたでしょうに」
声が、必要以上に大きかった。広間の客たちが、ちらちらとこちらに視線を向ける。
私は微笑みながら、そっと手を引いた。
「お母様、私はもう、自分の道を選びました。お姉様も、新しい道へお進みです」
「あらまあ、お上手ね。──ねえ、エミール、あなた、シャルロット嬢のような素直な娘でなく、よりにもよってあのお姉さまを選んだんですってね。今日が初対面だけれど、あの方……ちょっと、贅沢が過ぎる気がするわ」
「お母さま、声を……」
エミールが青ざめた。
私は、隅で扇を翳して、笑みを噛み殺した。
──ああ、お姉様。
これがあなたの、新しい義実家ですわ。
お母様、ぜひ、おっしゃり続けてくださいませ。
中央では、義姉が四重奏団の音色に乗って、エミールの腕を取って踊っていた。けれど、その表情は、もう先ほどの優雅な笑みではなかった。私から見れば、何度も義両親を視界の隅で気にしていることが、はっきりと分かった。
エミールの父はすでに大柄な貴族の手を取って、手紙の話とも商売の話ともつかない饒舌をふるっている。エミールの母は、王都の宝飾店の名前を声高に上げては、「あら、私、それも一度買おうかしらと思っていたのよ」などと話していた。
侯爵家の客の中には、明らかに眉を顰める者もいた。
私は、そっと父アーデンフェルト侯爵のところへ歩み寄り、囁いた。
「お父様、お姉様の選ばれた殿方の家風は、なかなかに、特徴的でいらっしゃいますわね」
父は深く息を吐いた。
「シャル……お前のほうが、私の心労を一回り深くする娘になっておったかもしれぬな」
「私が?」
「あの場で、姉が先に選んだ後、お前があの方の代わりに、控えめに『ラントシュタイン男爵子息に』と申し出ていたら──私は、また、いつもと同じように、それでよしとしたかもしれぬ」
父は私の頭を、そっと撫でた。
「お前が公爵家を選んだとき、私は心底、目を覚まされる思いがした。ありがとう、シャル」
「お父様……」
胸の奥が、熱くなった。
前世の父は、私が嫁いでから、急に老け込み、五年後に病で亡くなった。私は葬儀の席で、ろくに泣くこともできなかった。父の最期の言葉は「シャル、お前を守れず、すまなかった」だった。
その父が、今、私の頭を撫でている。
「お父様。お母様の主治医、ガルベルト先生のことを、覚えておられますか」
「ああ、もちろん。だがあの方は、エレオノーラの逝去の三日後に、屋敷を辞された……」
「ガルベルト先生のお屋敷を、お父様、お調べいただけますか」
父は眉を上げた。
「シャル、お前、何を考えている」
「お母様の死について、まだ知らないことが多うございます。──お父様、お願いがございます。今は、それ以上のことを申せません。でも、どうか、お父様の権限で、ガルベルト先生の行方を、内密に、お調べくださいませ」
父は、しばらく私を見つめていた。
そして、頷いた。
「分かった。明日、執事に内密に命じよう」
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
その夜、舞踏会が深まる頃、思いがけないことが起きた。
エミールの父、男爵が、ふらつきながら、義姉のドレスの裾を踏んだのだ。
「あ──」
義姉が体勢を崩し、けれどギリギリのところで、別の客に支えられて転倒は免れた。男爵は「すまんすまん」と笑いながら、よろよろと侍従に肩を担がれて、別室へ運ばれていった。
義姉の顔は、瞬時に蒼白になった。
しかし彼女は、すぐに立ち直り、扇で顔を扇ぎながら、何事もなかったかのように笑った。けれど、その笑みは、明らかに、強張っていた。
私は、扇の陰から、義姉の表情を観察した。
──姉も、気づいてしまったようだ。
ラントシュタイン家は、姉が想像していたような、「これから化ける男の家」ではない。
少なくとも今のままでは、義両親の品性も、屋敷の雰囲気も、貴族の家風からは、遥かに遠い。
そして、姉は、エミール本人も、よく観察していなかった。
エミールは、確かに勤勉で、聡明な青年だ。けれど、彼を「化けさせた」のは、夜なべして論文を写した私と、商家との縁を繋いだ私と、母から学んだ家政の知恵だった。
姉が、それらを引き継げるかどうか。
姉の指は、白く震えていた。
──たぶん、無理ね。
私は、確信した。
舞踏会の終わり、私が父と並んで馬車に乗ろうとしたとき、義姉が私の腕を取った。
「シャル」
「お姉様」
「あなた、何か知ってる?」
姉の声は、普段の鈴の音のような明るさを失っていた。低く、震えていた。
私は、首をかしげた。
「何のことでしょう?」
「ラントシュタイン家のこと。あなた、何か事前に、聞いていたのでしょう?」
私は、にっこり微笑んだ。
「いいえ、何も。お姉様が、選ばれた殿方とご家族ですもの。お姉様自身が、誰よりもよくご存知だと、私は思っておりますわ」
姉の指が、私の腕を強く握った。
「シャル、あなた、変わったわね」
「そうですか?」
「ええ。──昔のあなたなら、こんな日に、私の隣に立って、心配してくれたわ」
「お姉様」
私は、ゆっくりと、姉の指を、自分の腕から外した。
「お姉様の心配を、するべき方は、お姉様の旦那様です。──お互い、新しい家庭を、お互いの責任で築きましょう」
姉の瞳が、揺れた。
私は背を向け、馬車に乗り込んだ。
馬車の窓越しに、玄関先で見送る義姉の姿が、夜の闇の中で、深紅のドレスだけがやけに鮮やかに浮かび上がっていた。
──お姉様。
私は心の中で、囁いた。
私は、昔のあなたを、もう、信じない。
そして、今のあなたを、私は救わない。
あなたが選んだ道は、あなた自身が、最後まで歩いてください。
その夜、馬車に揺られながら、私はアンナから渡された一通の手紙を、こっそりと開いた。
「シャルロット様
ガルベルト先生の手帳の写しが、本日、届きました。お母様のご逝去の三日前まで、先生は薬の分析を続けておられたようでございます。
そして、その最後の頁に、こう記されておりました。
『侯爵夫人エレオノーラ様のお薬の中に、本来あるべきでない成分が混じっている。出処を遡れば──お屋敷の薬箱、薬箱を管理しているのは、新しい侍女頭のレーゲンシア・キール』
シャルロット様、レーゲンシア・キールというのは、現継母様の旧姓でございます。
──アンナ」
私は、手紙を握り締めた。
馬車の車輪が、石畳の上を、規則正しく打っていた。
ガタン、ガタン、ガタンと、私の鼓動と一緒に。
お母様。
私は心の中で、母に呼びかけた。
私は、知ってしまいました。
そして、必ず、暴きます。
お母様の、本当の死の真相を。




