幕間 入れ替わりの学び舎
(これも、二人が、二度と、思い出すことのない、前世の話。)
エミールと結婚して、まだ、ひと月と経たない頃のことだった。
彼は、王立学院に、通っていた。けれど、彼が、真面目に、講義に、出席していたのは、最初の、ひと月ほどだけだった。
「今日も、休講になった」
彼は、そう言って出かけたら、夜遅くまで、屋敷に、戻らなかった。
私は、最初、それを、信じていた。
けれど、ある日、彼の礼装の襟に、私のものではない、白粉の香りが、残っているのを、見つけてしまった。
──休講というのは、嘘だったのだ。彼は、講義をさぼっては、愛人のもとで、過ごしていた。
ある日、エミールが、妙に上機嫌な顔で、乾いた薬草を一枚、差し出した。
「これを飲めば、姿を入れ替える術が使えるらしい。旅の民から手に入れたんだ。……なあ、シャル。君と入れ替わって、僕の代わりに、講義を受けてくれないか」
とんでもない提案だった。けれど、行くところのない私に、夫の言葉に従わない、という選択肢は、なかった。それに、正直なところ、夫の代わりに学院へ通うということに、少し、心をそそられてもいた。──私は、もともと、勉強が、好きだったから。
半信半疑のまま、私は、その術を、試した。
そして、私は、エミールの姿になって、王立学院の門を、潜った。
学院の講義は、私にとって、とても興味深かった。学ぶことが、好きだったから、私は、真面目に、授業に取り組んだ。
講義室の隅で、私は、エミールとして、机に、向かった。
「エミール、お前、今日は、真面目だな」
隣の席の、青年が、話しかけてきた。
コンラートという、名の、青年だった。地方の下級貴族の三男で、エミールと同じく、奨学金で、学院に、通っていた。
「あ、ああ」
私は、エミールの声色を、真似て、頷いた。
「そのノート、貸してくれないか。俺、昨日、熱で、休んでいたんだ」
「いいとも」
コンラートは、嬉しそうに、笑った。
「持つべきものは、友だな。エミール、お前、最近、変わったな。前より、ずっと、頼りになる」
初めての、友情だった。
誰も、私が、シャルロットであることを、知らない、この場所でだけ、私は、誰かと、対等に、笑い合うことが、できた。
コンラートは、「エミール」の、数字への強さを、いつも、称賛した。
「お前、将来、きっと、文官として、重宝されるぞ」
「そう、かな」
「絶対に、そうだ。俺が、保証する」
その言葉を、私は、長く、胸の奥に、しまっておいた。
そんな日々を、私は、二年、続けた。
彼が、ふらふらと遊び歩いている時間に、私は、彼に代わって、学院で、机に向かった。彼が、女のもとで、過ごす時間には、私は、彼に代わって、日銭を稼いだ。力仕事の日も、あれば、文官の下働きをする日も、あった。
そして、卒業試験の朝。
私は、最後にもう一度、エミールの姿で、講堂の壇上に、立った。
「エミール・ラントシュタイン、本学院、首席」
学院長の声が、講堂に、響いた。
割れるような、拍手が、私を、包んだ。
コンラートが、誰よりも大きな声で、拍手を、送っていた。
「エミール! やったな!」
彼の瞳には、混じり気のない、喜びが、あった。
私は、その拍手の中で、微笑んだ。
けれど、この功績は、私のものではなく、すべて、エミールのものになった。
その夜、屋敷に戻ると、本物のエミールが、女の残り香を、纏ったまま、寝台で、眠りこけていた。
私は、術を、解いた。
鏡の中に、疲れ切った、自分自身の、素顔が、戻ってきた。
私は、その顔を、しばらく、見つめていた。
──コンラート様。
私は、心の中で、彼の名を、呼んだ。
あなたが、称えてくださったのは、私です。
けれど、あなたは、それを、一生、知ることは、ない。
そして、私も、二度と、あなたに、本当の名を、名乗ることは、ない。
窓の外で、王都の夜が、静かに、更けていった。
コンラートという名の青年が、その後、どのような人生を、歩んだのか。
エミールは、卒業と共に、彼との縁を、あっさりと、切った。
そして、世界は、二十年後、巻き戻り──。
この、たった二年の、名もない友情もまた、誰の記憶にも、残らないまま、消えていった。




