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# 第三話 婚約者選定

# 第三話 婚約者選定


午後の応接間は、昼過ぎの陽光を浴びて、薔薇色に染まっていた。


アーデンフェルト侯爵家の本邸、東館の大応接間。私が幼い頃、母エレオノーラが客人を迎えるたびに、私の手を引いて連れて行った場所。母の声がいつでも柔らかく響いた、思い出の部屋。


それが今は、継母レーゲンシアの声で満たされていた。


「ようこそお越しくださいました、グリュンヴァルト公爵子息アルフレート様。それから、ラントシュタイン男爵子息エミール様」


二人の青年が、壁際に向かい合うように立っていた。


ひとりは、銀灰色の髪を肩で切り揃えた、長身の青年。漆黒の正装の襟に、近衛騎士団の銀の徽章が光っている。瞳は深い金色。表情は氷のように静かで、けれど立ち姿には鋼の重みがあった。


──アルフレート・フォン・グリュンヴァルト公爵子息。


前世では一度も、この応接間で挨拶を交わすことすらなかった人。義姉が先に名乗り、私は彼の顔をろくに見ることもなく、退室を促されたから。


今、改めて見て、私は息を呑んだ。


二十五歳。前世で国境戦死を遂げる、その四年前。彼はまだ、生きていた。


もう一人は、若くて細身の、淡い茶色の髪の青年。少し疲れた目元に、けれど真摯な瞳。仕立ての悪い、かつての流行から数年遅れた礼装──没落男爵家の三男、エミール・ラントシュタイン。


胸の奥が、きゅっと痛んだ。


エミール。私の前世の夫。私の四年間の伴走者。


ごめんなさい。


私は心の中で、何度もそう呟いた。


ごめんなさい、エミール。今度の人生では、私はあなたの隣にはいられない。


けれど、約束する。あなたを救う方法は、必ず、別の形で見つける。


「シャル、こちらへ」


継母の声が、私を現実に引き戻した。


応接間の中央に、長椅子が二つ向かい合って置かれている。一方には父アーデンフェルト侯爵、その横に継母レーゲンシア。もう一方の長椅子には、義姉イザベラがすでに腰を下ろしていた。


義姉は、前世とまったく同じ深紅のドレスを着ていた。


ただ、違ったのは、その瞳の輝きだ。


前世のイザベラは、自信に満ちた輝きで部屋を支配していた。けれど、今日のイザベラの瞳には、何かを企む者特有の、ちらつく影があった。視線が忙しなく二人の青年の間を行き来し、時折、私のほうを意味ありげに盗み見る。


──やっぱり。


私は確信した。


姉も、戻ってきている。


前世で公爵家に嫁ぎ、夫を戦死で失い、未亡人として落ちぶれていった姉。それが彼女の死に戻りの動機なら、今日この場で、姉が選ぶ婚約者は──。


「父上」


義姉の高い声が、応接間に響いた。


「お姉様、まだ何も始まっていないわ」


継母レーゲンシアが優しく義姉をたしなめる。義姉は扇で口元を覆って、笑った。


「ごめんなさい、お母様。でも、私、もう決めているの」


父が眉を上げた。


「イザベラ、お前は何を……」


「ラントシュタイン男爵家のエミール様に、嫁ぎたいの」


応接間が、しんと静まり返った。


エミールが顔を上げ、信じられないというように義姉を見た。アルフレート様は、無表情のまま、視線をかすかに義姉に向けた。


父が咳払いをした。


「イザベラ、本気で言っているのか? ラントシュタイン家は、その……失礼ながら」


「没落しかけているのは存じております」


義姉は涼やかに微笑んだ。


「けれど、エミール様はご聡明と聞いております。来年の王立学院の卒業試験では、首席合格は確実だと、皆様が仰せです。これから王宮に出仕されれば、必ずや高い地位に上られるでしょう」


エミールが慌てて頭を下げた。


「過分なお言葉、ありがたく存じます。……ですが、当家のような没落貴族に、侯爵家のご令嬢が嫁がれるのは、釣り合いが」


「私、見栄や格式は気になりませんの」


義姉は美しく微笑んだ。


「殿方の、これからを愛したいのです」


──ああ、お姉様。


私は心の中で、深く息を吐いた。


それは、前世の私がエミールの前で言った言葉と、ほとんど同じだった。


姉は前世の私を、隅から隅まで観察していたのだ。


そして、こう判断した。「エミールが化けるなら、その夫人になる女が偉大なのではない。エミール自身が偉大なのだ」と。


なんと愚かな勘違いだろう。


エミールは確かに勤勉な青年だ。けれど、彼を「化けさせた」のは、誰よりも夜なべした私の四年間と、母の人脈と、商家との縁だった。


姉が同じ場所に座っても、同じ結果が出るとは限らない。むしろ、姉は身分違いの暮らしに耐えられず、義実家のたかりに翻弄され、エミールを支えるどころか足を引っ張るだろう。


それを知っていて、私は、止めない。


今度は、姉自身に、選んだ道の重さを担っていただく。


「父上、母上」


私は静かに口を開いた。


応接間の視線が、一斉に私に集まった。


「私は、グリュンヴァルト公爵家のアルフレート様にお嫁ぎしたく存じます」


息を呑む音が、何重にも重なった。


父アーデンフェルト侯爵が、目を見開いた。


「シャル、お前……アルフレート様は、ご身分が我が家とは釣り合わぬほどお高い。お前のような控えめな娘が、公爵家の冷たい風に耐えられるかどうか」


「耐えてみせます」


私は、まっすぐ父を見つめた。


「私は、これまで日陰の娘として育ちました。けれど、心の中に持っているのは、母様譲りの勤勉さと、礼節を重んじる気持ちです。アルフレート様にお仕えすることが叶いますれば、必ずやグリュンヴァルト公爵家の名にふさわしい妻になります」


「シャル……」


父の顔に、戸惑いと、けれどわずかな安堵が走った。


無理もない。前世の父は、私が一切自分の意見を述べず、エミールの後ろを黙ってついていったから、私を「気が弱く、要領の悪い娘」とずっと思っていた。父は私を愛していたが、その愛は、いつも遠慮がちで、そして無力だった。


今日、私はその父に、初めて自分の声で、人生を要求した。


継母レーゲンシアの顔が、瞬時に強張った。


「シャルロット、それは、とても、軽率な選択ですよ」


継母の声は柔らかかったが、唇の端は震えていた。


「アルフレート様は、近衛騎士団長として国境にも出陣される方。一年の半分は王都にもいらっしゃらない。寂しい思いをするのは、あなたですよ。それに、グリュンヴァルト公爵家のご当主は厳格なお方とお聞きしております。あなたのような控えめな娘では、お屋敷で立ち回れるか……」


「お母様」


私は微笑んだ。


「私の心配をしてくださり、ありがとうございます。けれど、私は決めました」


そして、私は、長椅子の上の義姉に視線を向けた。


義姉と、目が合った。


ほんの一瞬。


姉の瞳の奥で、何かが冷たく揺れた。


──え?


姉の唇が、声にならない言葉を紡いだのを、私は見逃さなかった。


「あなた、なぜ」


そう、姉は言った。


そう、姉は、明らかに動揺していた。


なぜなら、姉の予想では、私はまた、あの婚約者選定の儀式の中で、姉が選び残した方を、黙って受け取るはずだったから。


姉は、私が前世で「先に選ばなかったこと」を「私の弱さ」だと思っていた。だから、今日、姉がエミールを取れば、私は当然のようにアルフレートを取らされる──そして、姉が前世の私の人生を、完璧になぞる、はずだった。


ところが、私は、姉が「先に選んだ」ものを横取りされたのではなく、自分の意志で、自分の選びたい人を選んだ。


姉の死に戻りの計算が、初めて狂った瞬間。


私は、扇を持ち上げ、姉に向かって、ほんの少し微笑んでみせた。


「お姉様、奇遇ですわね。私たち、お互いに違う殿方を選べて、よかったわ」


姉の瞳が、ぎらりと光った。


「……ええ、本当に」


姉は無理やり笑顔を作ったが、扇を握る指は、白く震えていた。


アルフレート様が、私のほうへ視線を向けた。


冷たい瞳の奥で、何かがかすかに動いた気がした。けれど、彼は黙ったまま、私を観察するように見つめていた。


私は、彼に向かって、深々と一礼した。


「アルフレート様。突然のお願い、申し訳ございません。けれど、私は本日、ここで、あなた様にお仕えしたいと申し上げます。ご無礼を、お許しください」


しばらくの沈黙の後、アルフレート様が、低い声で答えた。


「……無礼ではない。ご令嬢、面を上げられよ」


私は顔を上げた。


アルフレート様の金色の瞳が、私をまっすぐに見ていた。


「私のような者を選ばれた理由を、後ほど、ぜひお伺いしたい」


「はい」


私は静かに答えた。


「いつでも、お話しいたします」


応接間に、午後の光が斜めに差し込んでいた。


埃が金色に舞い、母の選んだ青磁の壺の口で、白い菊が一輪、まっすぐに咲いていた。


その日、私の人生は、前世とは違う方角に、最初の一歩を踏み出した。


そして、義姉の人生も、前世とは違う方角に、踏み出してしまった。


──姉は、まだ、それに気づいていなかった。


応接間を辞した後、廊下でアンナが私を迎えた。


私の腕にそっと触れて、彼女は囁いた。


「お嬢様。ご立派でございました」


「アンナ」


「はい」


「お母様の処方箋帳、もう一度、二人きりで読み解きたいの。今夜、私の部屋へ」


「畏まりました」


アンナの瞳が、強い光を帯びた。


長い廊下の窓から、夕暮れ前の柔らかい光が差し込んでいた。


その光の中を、私は、初めて、自分の足で歩き始めた。


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