# 第二話 目覚めれば、四年前の朝
# 第二話 目覚めれば、四年前の朝
朝の光が、淡い金色の絹のカーテン越しに揺れていた。
最初に感じたのは、リネンの香りだった。少しだけ干し草を思わせる、太陽に晒された布地の匂い。続いて頬に触れる枕の柔らかさ。喉の奥に残るはずの鉄錆の味は、跡形もなく消えている。
私はゆっくりと瞼を開けた。
天井に、見覚えのある天蓋が広がっていた。淡い水色に、銀色の小さな星が散りばめられた、母が私のために選んだ天蓋。十二歳の誕生日に、「シャル、星を見ながら眠れるように」と微笑んで贈ってくれた、あの天蓋。
──結婚の時に、義実家へ持って行こうとしたら、継母が「みすぼらしい」と取り上げて捨てた、はずの天蓋。
「……どうして」
声が、細く震えた。
身体を起こそうとして、自分の手が視界に入った。傷一つない、若い手。出産も、夜なべの帳簿も、商家との交渉のために握り潰した手紙の痕も、何もない。指は柔らかく、爪は丁寧に整えられている。
「ぁ……」
私は飛び起き、寝台の脇の鏡台に走った。
鏡の中に、十七歳の私がいた。
肩で切り揃えられた銀色の髪。少し怯えた、若い水色の瞳。喪服の灰色を脱いだばかりの、白い肌。
「うそ……」
掌で頬を覆った。指の腹が、確かに自分の頬の温度を伝えてくる。夢ではない。少なくとも、夢にしては、空気の冷たさも、窓の外で鳴く鳥の声も、あまりに鮮明すぎる。
「シャルロット様」
部屋の扉が、控えめに叩かれた。聞き覚えのある、けれど永らく聞いていなかった声。
「ど……どうぞ」
私はかろうじて声を絞り出した。扉が開き、ひとりの侍女が入ってきた。
老いた小柄な女だった。銀色の髪を後ろに引っ詰め、黒い侍女服に純白のエプロン。胸元には、母エレオノーラから賜った銀の小さな鍵を下げている。
「アンナ……」
私の唇から、勝手にその名がこぼれた。
母の侍女頭、アンナ・ホルト。母が病で床についてから亡くなるまで、ずっと母の枕元にいた女。母の埋葬の翌日、継母レーゲンシアによって「あなたはもう必要ない」と侯爵家を追われた女。
──追われた、はずの。
「お目覚めですね、シャルロット様。本日はご婚約のお相手を選ぶ大事な日です。お湯のご用意ができておりますよ」
アンナはいつも通りの落ち着いた声で言った。けれど、その瞳の奥には、隠しきれない深い哀しみが滲んでいた。
私は、かすかに震える唇を噛んで、頷いた。
「……今日は、何月何日?」
「九月の十八日でございます。お嬢様のご婚約者選定の朝でございますよ」
──四年前の、あの日。
私は崩れるように、絨毯の上に膝をついた。アンナが慌てて駆け寄り、私の肩を支える。
「シャルロット様、お加減が悪いのですか? お医者様を……」
「いいえ、いいえ……」
私は彼女の手を握り返した。皺の刻まれた、温かい掌。母の手によく似た、慈しみの掌。
涙が、止まらなかった。
「アンナ、私……」
何を言えばいいのか、分からなかった。「私はあなたが追放されたことを知っている」「私はこのあと姉に毒殺されることを知っている」「私は二十一歳まで生きて、また十七歳に戻ってきた」──そんな言葉、誰が信じてくれるだろうか。
アンナは私の頭をそっと撫でた。
「シャルロット様。落ち着いてくださいまし」
そして、彼女は声を潜めた。
「……ひとつ、お話ししたいことがございます。お嬢様がお元気になられたら、お伝えしようと思っておりました」
「なに?」
アンナは扉のほうをちらりと見た。継母の足音がしないことを確認してから、エプロンの下から小さな革張りの手帳を取り出し、私の掌にそっと押し込んだ。
「奥様、先代のシャルロット様のお母様、エレオノーラ様の最期は……不審でした」
私は息を呑んだ。
「奥様は確かに、しばらく前から胸の病を患っておられました。けれど、ご臨終の十日前から、症状が今までとは違うものに変わっていったのです。あの赤い斑点、嘔吐、髪の抜け方──あれは、胸の病ではございません」
「……アンナ、あなたは何を言って」
「奥様の主治医は、ご逝去の三日後に行方不明になりました。表向きは『悲しみのあまり屋敷を辞された』ということになっておりますが、わたくしは知っております。あの方は、奥様のご病気の進行を不審に思って、薬を分析しておられたのです」
アンナは私の掌に押し付けた手帳を、私の指でしっかり握らせた。
「これは奥様の、生前の薬の処方を記録したものです。わたくしが、ひそかに残しておりました。──奥様は、毒を盛られた可能性がございます」
私は、手帳を握り締めたまま、動けなかった。
前世では、私はこの手帳の存在を知らなかった。アンナは母の埋葬の翌日に追放され、私は継母と義姉に囲まれて、何ひとつ声を上げる相手を持たないまま、エミールに嫁いでいった。
けれど、今──。
私は、知っている。
知ってしまった。
母を殺したのが、誰なのかを。
そして、私を殺したのが、誰なのかを。
「……アンナ、ありがとう」
私は手帳を胸に押し当て、深く頭を垂れた。
「これは、私が必ず、預かります」
「シャルロット様」
アンナの瞳に、ようやく安堵が浮かんだ。けれどすぐに、別の懸念が広がる。
「お気をつけくださいまし。継母様は、あなた様を厭うておられます。本日のご婚約者選定でも、必ず良からぬことを企てておられるはず」
私は微笑んだ。
久しぶりに、心の底から微笑むことができたかもしれない、と思った。
「分かっているわ、アンナ」
廊下の向こうから、軽やかな鼻歌が響いてきた。
私は耳を澄ました。
聞き覚えのある、義姉イザベラの声だった。前世の婚約者選定の朝も、義姉は同じ鼻歌を歌っていた。新しい歌劇場の流行歌。深紅のドレスを着付けてもらいながら、鏡の前でくるりと回って、「今日は私の人生で一番きれいな日になるのだから」と笑っていた。
──私の人生で一番きれいな日。
ええ、お姉様。
確かに、あの日は、お姉様の人生で一番きれいな日でした。
でも、それを決めたのは、お姉様自身じゃなかった。
最初に選ぶ権利を、継母が「姉のあなたから」と用意した。お姉様は、本来であれば私のものであった選択権を、横取りしただけ。
そして、私は何も言わず、笑って二番目を取った。
──今日は、違う。
私は鏡台の前に立ち、自分の頬を両掌で挟んだ。
鏡の中の、十七歳の私が、私を見つめ返した。
「ねえ、私」
私は、もう一人の自分に向かって、囁いた。
「あなたは、もう、二度と、姉の善意を信じない。──いいわね?」
鏡の中の私が、静かに頷いた。
「アンナ」
「はい、シャルロット様」
「水浴びの支度を。今日は、いつもよりずっと美しく仕上げて。──私、本気で婚約者を選びに行くわ」
アンナは目を瞬かせた後、深々と頭を下げた。
「畏まりました、お嬢様」
私は天蓋の星を見上げて、母の名を、心の中で呼んだ。
お母様。
私は、戻ってきました。
そして今度は、何があっても、自分の人生を、自分の手で選びます。
廊下の鼻歌が、ぴたりと止んだ。
その代わりに、扉の向こうから、義姉の弾むような声が響いてきた。
「シャル、起きてる? 一緒に朝食を食べましょうよ。今日は私たち二人にとって、特別な日でしょう?」
私は鏡から目を離し、扉を見た。
唇に、ゆっくりと、笑みを刻んだ。
「ええ、お姉様。今、参ります」
──昨日までの私は、もう、ここにはいない。
胸の中で、母の手帳が、温かく重かった。




