# 第一話 叙勲の夜、私は姉に殺された
# 第一話 叙勲の夜、私は姉に殺された
王宮の大広間に、シャンデリアの光が降り注いでいた。
七つの灯火を抱いた水晶の枝が、天井のフレスコ画を黄金に染めて揺れている。床には磨き上げられた大理石の市松模様、その上に貴婦人たちのドレスが花のように咲き、紳士たちの礼装が黒い影絵のように立ち並ぶ。楽団の弦の音が、ざわめきの底を絹のように撫でていた。
私──シャルロット・フォン・アーデンフェルト侯爵令嬢、いまはラントシュタイン子爵夫人と呼ばれる女は、その光の中心で、夫の手をそっと取って立っていた。
「ラントシュタイン子爵エミール卿。汝の備蓄計画と災害時の助言は、わが国を飢餓と暴動から救った。よって余は、汝を宰相補佐官に任じ、新たに子爵位を授ける」
王の声が大広間に響いた。エミールが片膝をつき、王の佩剣が彼の右肩、左肩を順に叩く。
「謹んで、お受けいたします」
エミールが顔を上げた。その若い瞳には、堪えきれない涙が浮かんでいた。私はそっと胸の前で両手を組んで、堪えきれない熱が滲むのを感じた。
──四年だ。
四年前、十七歳のあの日、私は父アーデンフェルト侯爵の屋敷で、婚約者選定の場に呼ばれた。継母レーゲンシアは私を一瞥すると、義姉イザベラに先に選ばせた。義姉は迷うことなく、近衛騎士団長嫡男グリュンヴァルト公爵子息、アルフレート様の名を口にした。残ったのは、領地が痩せ、当主が酒びたりだという没落男爵家の三男、エミール・ラントシュタイン様。
エミール様の差し出された手を取ったとき、私は微笑むしかなかった。
母エレオノーラが亡くなって以来、侯爵家の誰一人として、私の幸せを望む者はいなかったから。
それから四年──私は嫁ぎ先の小さな屋敷で、夜なべしてエミールの論文を写し、領地の帳簿を書き換え、商家との縁を一つひとつ繋いだ。エミールは元々勤勉な青年だが、書類仕事と人付き合いには不向きだった。私が彼の弱点を埋め、彼が私の知識を活かす。私たちは互いに支え合うことで、なんとか没落の崖から這い上がった。
そして昨年、王国を襲った大飢饉。私は母の遺した古い家令から穀物相場と気象の記録を聞き出し、エミールの名で王宮に上申書を提出した。備蓄、価格統制、海路での輸入、孤児救護院の設置──私が考え、エミールが整え、王宮で読み上げた。
その甲斐あって、王国は飢餓を最小限の犠牲で乗り切った。今宵の祝宴は、その功績を称える叙勲式の延長だった。
「シャル」
エミールが私の名を呼んだ。彼の手が私の手を取り、そっと指を絡めた。
「ぜんぶ、君のおかげだ。今夜の言葉は、君に届けたかった」
私は首を振った。
「いいえ。あなたの努力が、ようやく報われたのです」
それは半分嘘で、半分は本当だった。誰の功績かなんて、もうどちらでもよかった。私たちは長い坂道を、二人で登りきったのだ。
「シャル」
涼やかな声が背後から響いた。振り返ると、義姉イザベラが扇を口元に翳して立っていた。燃えるような赤毛を高く結い上げ、深紅のドレスの裾を引きずるように引いている。胸元には侯爵家代々の宝玉ネックレス──本来なら正室の娘である私のものになるべきだった首飾り──が、陽炎のように揺れていた。
「お姉様」
私は反射的に微笑んだ。義姉は私の前まで歩いてくると、銀の盆に乗せた葡萄酒の杯を二つ、私とエミールに差し出した。
「王家から特別に賜った祝杯よ。今宵の主役、新しい子爵閣下と奥方様にぜひ、と」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
私は杯を受け取った。葡萄酒の表面が、シャンデリアの光を反射して紅玉のように輝いている。エミールも杯を受け取り、義姉に丁寧に礼を述べた。義姉は私だけを見つめて、微笑んだ。
「シャル」
「はい?」
「あなた、本当に立派になったわね。あの貧しい男爵家に嫁いで、夫を立てて、慎ましく暮らして。ねえ、覚えている? お母様が亡くなった日、あなたが泣いていたとき、私が手を握ってあげたでしょう?」
「ええ……お姉様の手は、温かかった」
幼い記憶が胸の奥に蘇った。母の棺が運び出された朝、私は屋敷の階段の隅でうずくまって泣いていた。義姉はまだ実家から侯爵家に来たばかりで、私とほとんど話したこともなかった。それでも、彼女は静かに歩み寄り、私の手をそっと握った。私はそのとき、姉と血の繋がりはなくとも、家族になれるのかもしれないと、ほんの少しだけ希望を持った。
「あれね、優しさじゃなかったのよ」
義姉は声を潜めた。私の耳元で、息をひそめるように囁いた。
「あなたが、私の下にいる確認だったの」
私は息を呑んだ。義姉の唇は微笑んだまま、瞳だけが冷たく細められていた。
「乾杯しましょう」
義姉の声が高くなり、周囲の貴族たちが振り返る。義姉は自分の杯を高く掲げた。
「ラントシュタイン子爵閣下のご栄達と、わが妹シャルロットの輝かしい未来に」
楽団が止み、誰もが杯を掲げた。エミールが私の杯と自分の杯を軽く触れさせ、優しい瞳で微笑んだ。
「シャル」
「あなた」
私は頷き、紅玉色の液体を喉に流した。
──喉が、焼けた。
最初は気のせいかと思った。葡萄酒は強かったから。けれど次の瞬間、胸の奥から鉄の味が突き上げ、視界が二重にぶれた。
「シャ……ル?」
エミールの声が遠い。私は杯を取り落とした。床に銀の縁が当たって、悲鳴のような音を立てた。
「シャル!」
エミールが私の身体を抱き止めた。私は彼の胸を掴もうとしたが、指先が痺れて動かない。喉から血の塊がせり上がり、口を開けると赤い飛沫が彼の純白の礼装を汚した。
「医者を……誰か、医者を呼べ!」
エミールの叫び声が、シャンデリアの光に弾けて散った。貴婦人たちの悲鳴。男たちのざわめき。靴音が駆けてくる。けれど、それらすべてが薄い水の膜越しに聞こえた。
視界の端に、義姉の顔があった。
口元に扇を翳して、ただ微笑んでいた。誰にも気づかれない、勝者の微笑みだった。
──ああ。
私は気づいてしまった。
この杯は、ただの祝杯ではなかった。義姉は、ずっとこの瞬間を待っていた。私が幸せになる、その頂点で、私の命を奪う瞬間を。
走馬灯のように、四年が頭の中を駆け抜けた。
母エレオノーラの病床。「シャル、強くなりなさい。涙を見せないで」と細い指で私の頬を撫でた手。母の埋葬の朝、継母レーゲンシアが私の喪服を「みすぼらしい」と笑った声。婚約者選定の場で、義姉が即座に「アルフレート様を」と言い切ったときの、誇らしげな顔。
エミールに手を取られて没落男爵家へ嫁いだ日。義実家の埃の積もった応接間。義父が酒の瓶を抱えて寝ている長椅子。義母が私の持参金を「家計の足しに」と取り上げた朝。私は黙って受け入れた。母を失った私には、もう行き場がなかった。
それでも、エミールは優しかった。私の知恵を尊重してくれた。私が書いた家計簿を、商家との手紙を、彼は黙って読み返してくれた。「シャル、君がいなければ、僕はとっくに身を持ち崩していた」と、夜の灯りの下で何度も繰り返した。
私たちは、ようやく這い上がったのだ。
四年かかって、王宮の祝宴に立てる場所まで。
それなのに──。
「シャ、ル」
エミールの声が、震えていた。彼が私を強く抱きしめる。涙が彼の頬を伝う。私はその涙を拭ってあげたかったが、もう指が動かない。
ねえ、神様。
私の心の中で、声にならない声がこぼれた。
不公平です。
母を失い、家を失い、一からやり直して、ようやく幸せの入り口に立ったのに。それを姉に奪われるなんて、不公平です。
もし、ほんの少しでも、もう一度やり直せるのなら──。
私は、もう、二度と、姉の善意を信じない。
あの婚約者選定の場に戻れたなら、私は、姉が選ばなかった方ではなく、姉が「先に選んだ方」でもなく、私自身が選びたいものを選びたい。
母を奪った継母の真実を、母の死の真実を、知りたい。
エミールを救い、けれど、私の人生は私のものだと、声を上げたい。
「ごめん、ね……あなた」
私は最後の力を振り絞って、エミールの手に掌を重ねた。彼の指が、私の指を握り返した。
「シャル! いやだ、シャル……行かないで、行かないで……」
エミールの叫びが、シャンデリアの光と一緒に薄れていく。
視界の端で、義姉が扇を口元に翳したまま、ただ静かに、微笑んでいた。
その瞬間、私は確かに見たのだ。
義姉の唇が、声にならない言葉を紡ぐのを。
──「これで、また私が一番上に戻れるわ」と。
ああ、そうか。
私の心の最後の片隅で、何かが静かに灯った。冷たく、けれど鋭く。
姉も同じだったのか。
姉も、私と同じように、自分が一番でいられないことを、ずっと許せなかったのか。
ならば、もし、本当にやり直せるのなら。
私は、もう、優しさを着た棘に騙されない。
ずっと前から、知っていたかのように振る舞ってやる。
最後の意識の中で、私はそう、声にならない誓いを立てた。
シャンデリアの光が、頭上で静かに消えた。
──暗転。




