第二十三話 ガルベルト先生
王都の東の郊外、葡萄畑に囲まれた小さな村。
その村のはずれに、古い石造りの教会が建っていた。教会の鐘楼は、半ば蔦に覆われ、屋根の銅版は、緑青に覆われていた。鐘楼の脇の小屋に、ひとりの老紳士が、隠れ住んでいた。
──ガルベルト先生。
私が、馬車の窓越しに、教会の鐘楼を見上げたとき、もう、この旅の意味が、私の胸に深く刻まれていた。
馬車には、私の他に、アルフレート様、父アーデンフェルト侯爵、それから、アンナと、王宮の文官ヴェルナー卿が、同乗していた。私たちは、極力、目立たぬように、王都を出てきた。
教会の小屋の扉を、私は、自分で、叩いた。
ゆっくりと、扉が開いた。
「……シャルロット、お嬢様」
白髪の、痩せた老紳士が、扉口に立っていた。彼の瞳は、深い悲しみと、それでも、消えない知性の光を、宿していた。
「ガルベルト先生」
私は、深く、礼をした。
「お久しぶりでございます」
「お嬢様、こんなに、ご立派になられて……」
ガルベルト先生は、震える指で、私の頬に、そっと触れた。
「奥様の、お顔が、見える」
「先生……」
私は、目を閉じた。
──お母様の主治医、ガルベルト・フォン・シュタイナー。
母エレオノーラの病床で、最後まで、母の健康を守ろうと尽力した医師。母の死後、命の危険を感じて、王都を離れ、この村に隠れ住んだ。アンナとは、密かに連絡を保ち、母の薬の分析を、続けていた。
「お入りくださいませ」
ガルベルト先生は、私たちを、小屋の中に招き入れた。
小屋の中は、簡素だった。壁の一面が、本棚で、もう一面が、薬草の標本棚。中央に、古い樫の机があり、その上に、革張りの大きな冊子が、置かれていた。
「これが、エレオノーラ奥様の、お薬の分析記録でございます」
ガルベルト先生は、冊子を、机の上で、ゆっくりと開いた。
「奥様のお薬は、十年前から、私が処方しておりました。ある日から、奥様の症状が、私の処方とは別の方角へ、進行し始めたのです。私は、奥様のお薬の現物を、密かに、王立医学院の信頼できる薬学者に、分析を依頼いたしました」
ガルベルト先生は、ページをめくった。
そこには、薬草の名前、化学的成分、毒物の検出量、それから、出処の追跡結果が、丁寧に記されていた。
「奥様のお薬には、本来は、含まれない成分が、混入しておりました。──『曼陀羅華の精』、別名、ベラドンナの濃縮液。少量では症状を抑える鎮痛剤に使われますが、一定量を超えると、心臓と肝臓を、徐々に蝕みます」
父アーデンフェルト侯爵が、深く息を吐いた。
「ガルベルト先生……」
「侯爵閣下、これは、明らかな、毒物の慢性投与でございます」
「出処は、判明しているのか」
「はい」
ガルベルト先生は、ページを、もう一枚、めくった。
「曼陀羅華の精は、王都では、ごく限られた薬師しか、扱えません。私は、当時、すべての薬師を、追跡いたしました。──そして、最終的に、出処を、特定いたしました」
ガルベルト先生は、机の上の、もう一つの冊子を、開いた。
そこには、出処の薬師の名前と、納品先の記録が、明確に、記されていた。
「キール家。──現アーデンフェルト侯爵夫人、レーゲンシア様の、ご実家でございます」
応接間に、しんと、静まり返った。
私は、目を閉じた。
──お母様。
私の心の中で、母の声が、響いた気がした。
「ガルベルト先生」
「はい、お嬢様」
「お母様のお薬の管理を、最後の三ヶ月間、行っていたのは、誰でしょうか」
「当時の侍女頭、レーゲンシア・キール様でございます。──現お継母様」
「お母様への、毒物の混入は、いつから、始まったでしょうか」
「奥様のご逝去の、約六ヶ月前から、と推察いたします。最初は、ごく微量。徐々に、量を増やしていった、と」
「動機は、推測できますか」
「お嬢様」
ガルベルト先生は、深く頷いた。
「これは、私の推察に過ぎませんが、レーゲンシア様は、当時、侯爵閣下の、内縁の関係にあったご様子でした。──奥様がご健在のうちは、レーゲンシア様は、侯爵夫人の座に、つけませんでした」
父アーデンフェルト侯爵の顔が、青ざめた。
「ガルベルト先生、それは、本当か」
「侯爵閣下、お屋敷の使用人たちの間では、よく知られていた話でございました。──私も、当時、奥様のお薬を取り替えに屋敷を訪れた折、何度か、レーゲンシア様と、侯爵閣下の、不審な距離感を、目にしておりました」
父は、深く、頭を抱えた。
「私は……私は、知らなかった。レーゲンシアは、私の家令の遠縁の娘で、エレオノーラの侍女頭として、屋敷に上がった。エレオノーラが、時々、彼女の頑張りを褒めていたから、私も、深く考えずに、彼女に好意を持っていた。──だが、内縁の関係などとは、一度も……」
「お父様」
私は、父の手を、両手で取った。
「お父様、私は、お父様を責めません。──けれど、お母様の真実を、明らかにしましょう」
父は、深く、頷いた。
「シャル、ガルベルト先生、ヴェルナー卿、アルフレート卿。私は、すべてを、王陛下に、奏上する」
「お父様、ありがとうございます」
私は、父の手を、強く、握った。
ガルベルト先生は、机の上の二冊の冊子を、革張りの箱に納め、私に手渡した。
「お嬢様、これは、奥様の遺された、最後の声でございます。お嬢様の、お手で、王宮へ、お届けくださいませ」
「先生、必ず、お届けいたします」
私は、深く、頭を下げた。
「先生も、ぜひ、王宮の証言の場へ、お越しいただけませんでしょうか」
「もちろんでございます。私は、奥様のために、命を懸けて、証言いたします」
帰りの馬車の中で、私たちは、皆、無言だった。
私は、革張りの箱を、両腕で、しっかりと、抱えていた。
──お母様。
私は、心の中で、母に、繰り返し呼びかけた。
私は、お母様の、最後の声を、お預かりしました。
これを、必ず、世に、お届けいたします。
そして、お母様を、解き放ちます。
馬車の隣で、アルフレート様の手が、私の手を、深く握っていた。
「シャル」
「はい」
「君は、強い」
「アルフレート様、私は、ひとりでは、強くありません。──お父様も、先生も、アルフレート様も、皆さんが、私を、支えてくださっているから、強くいられるのです」
「シャル」
彼は、私の頬に、そっと、口づけを落とした。
「君が、君のままで、いてくれることに、私は、感謝する」
──そして。
王都に戻った夜、私は、私室で、革張りの箱を、机の上に、丁寧に置いた。
その横に、母の銀の髪飾りを、添えた。
「お母様」
私は、囁いた。
「もう少しです」
「もう少しで、お母様の真実が、すべて、世に出ます」
「そして、お母様の名誉を、必ず、私が、お母様の娘として、お守りします」
蝋燭の灯りが、机の上の革張りの箱を、温かく照らしていた。
──そして、その光の届かぬ場所で。
後にヴェルナー卿から聞いた話では、あの夜、侯爵邸の継母の私室は、夜更けまで灯りが消えなかったという。
レーゲンシア・キールは、不穏な夜を過ごしていたそうだ。
そして、その隣の部屋では、義姉イザベラが、自分の部屋に閉じこもったまま、誰とも会おうとしなかったという。




