第十四話 崩れた邸宅
ヴェルナー卿を通して手配した、エミール様の家庭教師から、急な書状が届いたのは、婚約の話が、少しずつ具体化しつつあった、ある午後だった。
「シャルロット様
不躾ながら、ご報告申し上げます。本日、ラントシュタイン男爵家にて、エミール様の授業に伺いましたところ、屋敷全体が、ひどく取り乱した様子でございました。私は、授業どころではなく、早々に、辞去いたしました。
差し出がましいこととは、存じますが、念のため、お耳に入れておきたく」
私は、その書状を、握り締めた。
──何かが、起きた。
私は、すぐに、マリエッタを、呼んだ。
「馬車の用意を。ラントシュタイン男爵家へ、参ります」
「シャルロット様、けれど、お約束もなく……」
「構わないわ。お姉様の様子を、案じているという、体裁で、参ります」
馬車が、ラントシュタイン男爵家の門前に着いたとき、屋敷の中から、割れるような、女の悲鳴じみた声が、漏れ聞こえてきた。
門番は、私の紋章を見て、慌てて、道を、開けた。
「シャルロット様……その、今は、少々……」
「案内は、いらないわ」
私は、声のするほうへ、まっすぐに、歩いた。
玄関の扉を潜ると、応接間から、義姉の金切り声が、廊下いっぱいに、響いていた。
「――この、泥棒猫が!」
陶器の割れる、鋭い音。
私は、開け放たれた扉の陰から、中を、覗いた。
義姉イザベラが、髪を振り乱し、片手に、割れた花瓶の破片を、握り締めていた。その足元に、若い女――見覚えのある、屋敷の洗濯女中が、床に、へたり込んで、震えていた。
「イザベラ様、お許しを……お許しを……」
「許す? 何を、許すというの?」
義姉の声は、ヒステリックに、裏返っていた。
「あなたのような、下働きの女が、私の夫に、指一本、触れていいと、誰が、許したの?」
女中は、両手で、顔を、覆うばかりだった。
その傍らの長椅子には、エミールが、襟元を、はだけたまま、うなだれて、座っていた。手にした葡萄酒の杯は、空だった。目の下には、濃い、隈が落ちていた。
「イザベラ……もう、よせ」
エミールの声は、力なく、掠れていた。
「彼女は、悪くない。悪いのは、俺だ」
「悪いのは、あなたじゃないわ」
義姉は、花瓶の破片を、床に、叩きつけた。
「悪いのは、この、身の程を、弁えない女よ!」
義姉は、女中の髪を、掴もうと、手を、伸ばした。
「イザベラ様!」
女中の悲鳴が、上がった。
私は、扉を、開け放った。
「お姉様」
応接間の空気が、一瞬にして、凍りついた。
義姉が、私のほうを、振り返った。
その顔には、もはや、いつもの、優雅な仮面は、欠片も、残っていなかった。目は血走り、髪は乱れ、頬には、涙と怒りの跡が、生々しく、残っていた。
「シャル……なぜ、あなたが、ここに」
「お姉様の、ご様子を、案じて、参りました」
私は、静かに、女中に、目をやった。
「あなたは、下がりなさい」
女中は、震えながら、私に、深く頭を下げると、その一瞬だけ、値踏みするような目をこちらへ向けてから、応接間を、逃げるように、去っていった。
義姉は、私のその一言に、さらに、逆上した。
「シャル、あなたまで、あの女の、味方をするの?」
「お姉様」
私は、扇を、静かに、開いた。
「いったい、どうなさったのですか」
義姉の瞳が、揺れた。
義姉は、叫んだ。
「私は、この人のために、侯爵家の娘の身分まで、捨てて、嫁いだのよ! それなのに、この人は、ろくに努力もしないで、あんな女と、過ごしてばかり……! 汚らわしい!」
私は、義姉を、まっすぐに、見た。
「お姉様。あなたが、本当に、向き合うべきなのは、エミール様でも、あの女性でも、ございません。──あなた自身の、選んだ道でございます」
義姉の手から、力が、抜けた。
握りしめていた花瓶の破片が、からん、と、床に、落ちた。
「エミール様」
私は、代わりに、彼のほうへ、向き直った。
エミールは、顔を、上げた。
その瞳に、ほんの微かな、光が、灯った。
私は、応接間を、辞した。
馬車に戻る道すがら、屋根の下で、先ほどの洗濯女中が、荷物を抱えて、屋敷を出ていく後ろ姿が、見えた。
私は、御者に、声をかけた。
「あの方に、当座の路銀を、お渡しして。行き先が決まらないようなら、王都のエレオノーラ館に、案内してあげて」
「畏まりました」
馬車が、走り出した。
窓の外を、ラントシュタイン男爵邸が、遠ざかっていく。




