第十一話 戦地への密書
冬の終わりの頃、国境から、不穏な報せが届いた。
北の隣国、ベリヴァルト王国が、騎兵団三千を国境付近に展開させ、わが王国の北部辺境領を、明確に挑発しているという。
王宮の枢密院で、緊急会議が開かれた。結論はすぐに出た。グリュンヴァルト公爵家の若き次期当主アルフレート卿が、近衛騎士団の精鋭五百を率いて、国境へ赴く。出陣は、十日後。
私は、その報せを、王宮から戻ってきたアルフレート様の口から、直接聞いた。
「十日後……」
私は、客間の長椅子に、座ったまま、動けなかった。
──十日後。
前世の記憶が、頭の中を駆け巡った。
国境の戦──ベリヴァルト戦役。前世のあの年、確かにこの戦は起きた。当時の私は、結婚して四年目を迎えていて、男爵家で家計簿を書いていた。エミールが、夕食の席で、暗い顔で「グリュンヴァルト公爵子息が、戦場で散られたそうだ」と告げた。私はそのとき、心の中でアルフレート様という名前と、義姉イザベラの夫の戦死を結びつけ、姉の不幸に同情するでもなく、ただ漠然と国の落胆を感じただけだった。
──今度は、違う。
戦死は、私にとって、ただの風聞ではない。それは、今、私の目の前にいる、この銀灰色の髪の青年の、命の終わりを意味する。
「シャルロット嬢、ご心配ですか?」
アルフレート様が、私の沈黙を見て、低く問うた。
私は、深く息を吐いて、顔を上げた。
「はい」
正直に答えた。
「とても、心配でございます」
アルフレート様は、瞳を細めた。
「私は近衛騎士団元帥の嫡男、出陣は職務です。心配されるほどのものでは──」
「アルフレート様」
私は、彼の言葉を遮った。
そして、長椅子から立ち上がり、彼の前に進み出た。
「お願いがございます」
「何でしょうか」
「あなた様の、本日からの出陣準備の中に、私を、お加えください」
「……加える、と」
「私は、武器を持って戦場へ赴くことはできません。けれど、戦場の手前で、できることがございます。──情報の収集です」
私は、深く頭を下げた。
「私の母の旧家令の縁で、北部辺境の商家、特にベリヴァルト王国との交易を行ってきた者たちと、繋がる伝手がございます。彼らから、今、ベリヴァルトが国境にどのような兵を展開しているか、地形のどの部分を進軍路として選ぶつもりか、気象条件はどう動いているか──そうした、現地の生の情報を、出陣前に集められます」
アルフレート様は、私を、長く見つめた。
「シャルロット嬢、そのような知恵を、あなたは、どこで」
「お母様の、傍らで」
私は微笑んだ。
「お母様は、領地の民を救うために、いつも、現場の声を、最も重視されました。私は、その様子を、ずっと拝見しておりました。──戦も、結局は、現場でございます。出陣される指揮官の判断は、机上の地図ではなく、生の情報に基づくべきと、私は思います」
アルフレート様は、しばらく沈黙した後、深く頷いた。
「ご厚意、ありがたく拝受いたします。──シャルロット嬢、あなたは、本当に、私の知らぬ方だった」
「あなた様にとって、私は、まだ、知らぬ方でいらっしゃるはず」
私は、深く頭を下げた。
「これから、お知りになっていただければと、存じます」
その日から、出陣の前日まで、私はアンナとマリエッタとともに、夜なべの日々を続けた。
母の旧家令クルツに使いを出し、北部辺境の商家──カウフマン商会、リンダウ商会、ヘルツェル商会──の主人たちと連絡を取った。彼らは、母エレオノーラに恩義のある者たちで、私の名前を聞くと、すぐに最新の情報を寄せてくれた。
ベリヴァルト王国の動きは、こうだった。
国境付近の三千の騎兵は、本気の侵攻軍ではない。表向きの示威。けれど、その背後に、二千の歩兵が、北部辺境のミーテルバッハ峠の手前で、密かに集結している。狙いは、ミーテルバッハを越えての奇襲。気象条件は、今後一週間、北風が強く、雪が時折舞う見込み。日中の視界は悪く、夜間は深い闇。
そして、最も重要な情報──。
ベリヴァルト王国の総司令官は、ヘルクハルト・フォン・ノルディンガー将軍。彼は、この三月に内乱でベリヴァルト国王の信頼を失い、汚名返上のために、戦果を急いでいる。彼の指揮には、慎重さよりも、性急さが目立つ──。
私は、これらの情報を、母の使った密書用の記号でまとめあげた。
数字を花の名前に、地名を木の名前に、作戦を季節の言葉に置き換える、母エレオノーラ独自の暗号。アンナだけが、その鍵を覚えていた。
「アンナ、これで」
「はい、お嬢様。完璧でございます」
私は、密書を、革張りの小さな筒に納めた。
──そして、出陣の前夜。
グリュンヴァルト公爵邸の、アルフレート様の私室。
私は、一人で、彼の前に立っていた。
部屋には、出陣準備の鎧、剣、書類、地図、それから、銀色の家紋が刻まれた古びた盾が、整然と並んでいた。蝋燭の灯りが、すべてを暖かく照らしていた。
「アルフレート様」
私は、革張りの筒を、彼の机の上に置いた。
「これが、私の集めた、北部辺境の情報でございます」
アルフレート様は、筒を取り上げ、中の書類を引き出した。
母エレオノーラの暗号で書かれた密書を、彼はしばらく目で追っていた。表情は、静かだった。けれど、ページをめくるごとに、その瞳の奥で、何かが、動いていた。
「シャルロット嬢」
長い沈黙の後、彼は、低く呟いた。
「これは、王立諜報院でも、ここまで詳しい情報は集められぬ」
「私の母の、人脈でございます」
「ノルディンガー将軍の、内乱との関係まで把握しておられるとは……」
「カウフマン商会の主人が、ベリヴァルトの宮廷にも顧客を持っております。風聞ですが、信頼に値すると、私は判断いたしました」
アルフレート様は、密書を握り締めた。
そして、ゆっくりと、私を見た。
「シャルロット嬢」
「はい」
「これは、私を、生かす情報です」
私の手のひらに、じわりと汗がにじんだ。
「あなたの、思いは、伝わりました。──これを基に、私は、ノルディンガー将軍の性急さを利用して、ミーテルバッハ峠の入口で、待ち伏せます。彼らは奇襲を仕掛けるつもりでしょうが、私は、その奇襲を、あらかじめ予想して、待ちます」
「ご無事を、心から、お祈り申し上げます」
「シャルロット嬢」
アルフレート様は、机を回り、私の前に立った。
長身の彼が、私を見下ろしていた。蝋燭の灯りが、彼の銀灰色の髪を、柔らかく溶かしていた。
「ひとつ、お伺いしたい」
「はい」
「あなたは、なぜ、ここまで、私の命を、守ろうとしてくださるのか」
私は、目を閉じた。
そして、深く息を吸った。
「アルフレート様」
「はい」
「私が、なぜあなた様を、夫に選んだか、本当の理由を、お話しいたします」
私は、彼を、まっすぐ見上げた。
「私は、夢を見たのです」
──嘘ではない。
「ある夜、私は、夢を見たのです。あなた様が、戦場で、命を落とす夢を。そして、クラリス様が、病で、儚くなってしまう夢を」
私の声は、震えた。
「目が覚めても、悲しみは、消えませんでした。──あの夢を、決して、現実にはしたくない。私は、そう、強く、思ったのです」
「シャルロット嬢」
「十七歳の小娘が、夢を本気で信じたなどと、バカらしいと、思われるかもしれません」
「いえ」
アルフレート様は、首を振った。
そして、彼の手が、私の手を、そっと取った。
「あなたの瞳には、嘘がない」
私は、言葉を失った。
「私は、近衛騎士団の務めで、これまで、何度も死と隣り合わせで生きてきました。死は、私の隣の、見慣れた風景でした。──けれど、今、あなたが、私の死を恐れてくださる」
彼は、もう片方の手で、私の頬に触れた。
「私は、初めて、生きて還りたいと、思いました」
蝋燭の灯りが、揺れた。
私の瞳から、堪えきれない涙が、零れた。
「アルフレート様、どうか、ご無事で」
「シャルロット」
彼は、私の名を、初めて、敬称なしで呼んだ。
「必ず、還る」
私は頷いた。
「お待ちしております」
その夜、私たちは、それ以上の言葉を交わさなかった。
ただ、私は、彼の手が、自分の頬に触れた感触を、何度も、何度も、心の中で確かめていた。
──アルフレート様。
私の心の中で、私は、もう一度、彼の名を呼んだ。
どうか、生きて、還ってきてください。
そして、私の人生の、本当の続きを、あなた様と共に、歩ませてください。
翌朝、グリュンヴァルト公爵家の門前で、近衛騎士団五百の精鋭は、北の街道へと出立した。私は、公爵ご夫妻、クラリス様と共に、門前に立って、騎士団を見送った。
アルフレート様は、馬上で、私のほうを一度だけ、振り返った。そして、深く頷いた。私も、頷き返した。
蹄の音が、雪解けの石畳に響き、やがて、街道の彼方へ消えていった。
アルフレート様の、運命を、変える。




