第十話 侍女マリエッタの濡れ衣
冬の入り口の頃、王宮で奇妙な事件が起きた。
王太后陛下が、寝室で愛用しておられた緑玉のブローチが、忽然と姿を消したのだ。緑玉は、王太后陛下の生母、すなわち先代の王后陛下の形見であり、王宮の中でも特に厳重に管理されていた品。それが、ある朝、ベルベットの台の上から、跡形もなく消えていた。
王宮中が騒然とした。
そして、たった三日のうちに、犯人が「特定」された。
王太后陛下のお部屋を担当する若い侍女、マリエッタ・ブレナーという娘の私室で、緑玉の入った袋が見つかったというのだ。
──マリエッタ・ブレナー。
私は、その名前を耳にした瞬間、息が止まった。
──やはり。
あの夜、リネン戸棚の中で、息を殺して聞いた「近々」とは、これだったのだ。
前世で、王太后陛下のブローチ盗難事件は、確かに起きた。当時の私は嫁いだ後で、王宮には縁がなく、単に「王宮の若い侍女が処刑された」という風聞を耳にしただけだった。けれど、その娘の名前には、覚えが、あった。
エミールの姿で、王立学院に、通っていた頃。学院の裏手の井戸端で、洗濯仕事をしながら、独学で、文字を学んでいた、一人の少女が、いた。
ある日、彼女は、学生の一人が落とした財布を、誰よりも先に、拾った。そして、律儀に、持ち主のもとへ、届けに行った。
届けられた学生は、感謝するどころか、「盗もうとしたのだろう」と、彼女を、罵った。
それでも、彼女は、一言も、言い訳をせず、ただ、深く、頭を下げて、立ち去った。
──あの、後ろ姿。
私は、それを、忘れたことが、なかった。
あの少女の名が、マリエッタ・ブレナーだった。
マリエッタは、苦学の末、王宮に上がって三年の、真面目な娘だった。
そして、彼女は、何もしていなかった。
私は、すぐに動いた。
「アンナ」
朝食の席を立つと、私は侍女頭に小声で告げた。
「ヘルガを呼んで。それから、お父様の執事のヤコブにも、書状を一通お願いしたいの。──私、王宮へ伺いたいの」
「お嬢様、何事でございますか」
「無実の少女を、救いたいの」
私の声は、自分でも驚くほど、強かった。
その日の午後、私はアルフレート様にも書状を送った。「明朝、王宮へ参内したい。可能であれば、近衛騎士団の警護にてご同行を願えますか」と。返信は、その日の夕刻にはアルフレート様自らの筆跡で届いた。
「畏まりました。明朝、騎士団より馬車をお迎えに上がらせます。──私自身も、参ります」
翌朝、グリュンヴァルト公爵家の紋章を背負った馬車が、アーデンフェルト侯爵家の門に止まった。
馬車の中には、アルフレート様が、近衛騎士団の正装を着て待っておられた。
「シャルロット嬢」
「アルフレート様」
私が腰を下ろすと、彼は静かに口を開いた。
「事件の概要は、騎士団の同僚から聞きました。マリエッタという娘は、明日、断罪院に送られる予定になっています。──行動を急ぎましょう」
「ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
「あなた様にご面倒をおかけして、申し訳ございません。けれど、私は、あの娘が、何もしていないことを、知っております」
「ご存じの理由を、お伺いしてもよろしいですか」
私は、しばらく沈黙した。
馬車の窓の外を、王都の朝の景色が流れていく。露店の屋根、馬糞、湯気の立つ屋台、子供たち。
「……」
私は、嘘のない範囲で答えた。
「アルフレート様。私の母エレオノーラは、生前、領地の民の様子を、常にお調べになっておられました。私は、その母の傍らで、人を見る目を、少しずつ学びました」
「ほう」
「マリエッタ・ブレナーという娘を、私は、遠くから、存じ上げております。誰よりも先に、人の落とし物を、律儀に、届けに行く娘でした。届けた先で、罵られてさえも、言い訳一つ、しない後ろ姿を、私は、忘れたことがございません。──そんな娘が、王太后陛下の形見を盗むはずがございません。何かの、誤解か、あるいは、別の意図が、あるはずです」
「別の意図、ですか」
アルフレート様の瞳が、鋭く光った。
「言ってしまえば、誰かが、彼女に、罪を被せたのではないかと」
「……奇妙ですな」
アルフレート様は、深く息を吐いた。
「事件の発生から犯人の特定まで、わずか三日。普段の王宮の調査の速度から見れば、極めて異例だ。私も、何かが、可笑しいと感じておりました」
馬車が、王宮の門前に到着した。
王宮の正門は、王立騎士団の精鋭が二列に並んで警護していた。門衛は、アルフレート様の顔を見ると、すぐに敬礼して通してくれた。
私たちは、まず、王太后陛下のお部屋を担当する侍従長に面会した。アルフレート様の名で書状を出し、私は侯爵令嬢として、事件の詳細を聞きたい旨を伝えた。
侍従長は、白髪の老紳士で、深いため息をついた。
「シャルロット様、アルフレート様。事件は、ほぼ決着しております。マリエッタの私室から、緑玉の袋が見つかった。状況証拠としては動かしがたく」
「侍従長」
私は、できるだけ落ち着いた声で問うた。
「マリエッタの私室に、彼女の他に、出入りしていた侍女は、おりますか」
「……というと?」
「同じ侍女宿舎にいる方々の中で、マリエッタと特に親しかった方、あるいは、特に親しくなかった方が、おりますか」
侍従長は、しばらく考え込んだ。
「親しくなかった、と申しますなら、ノエル・カーティスという侍女が、最近、マリエッタと小さな諍いを起こしておりました。化粧道具を貸す貸さないとか、そんな話で」
「ノエル・カーティス」
私は、その名前を心の中に刻んだ。
「ノエル・カーティスという娘の出自を、お調べいただけますか。父君、母君、出身地、王宮に上がられた時期、それから──」
私は、声を低くした。
「アーデンフェルト侯爵家との、繋がりの有無を」
侍従長は、目を見開いた。
「アーデンフェルト侯爵家、と申しますと?」
「私の家でございます」
私は微笑んだ。
「私、嫌な予感がしておりますの。──念のため、お調べいただけますとありがたく」
侍従長は深く頷いた。
その夜、結果が届いた。
ノエル・カーティスは、半年前に王宮に上がった侍女で、出身は王都の北の小村。父君は商家。──そして、母君のかつての奉公先は、「アーデンフェルト侯爵家、継母レーゲンシア様の実家、キール家」。
私は、手紙を握り締めた。
ノエル・カーティスは、継母レーゲンシアの旧家、キール家の縁者だった。
そして、おそらくは、義姉イザベラの旧友、あるいは、義姉が王宮に置いた手駒だった。
私は、すぐに翌朝、アルフレート様と共に、王太后陛下の御前に参じた。謁見の間には、香油の甘い匂いが漂い、大理石の床に、私たちの足音だけが硬く響いた。
王太后陛下は、白髪に金の冠を戴かれた、美しい老婦人であられた。陛下は、私の話を、最後まで黙って聞かれた。
「シャルロット・フォン・アーデンフェルト」
陛下が静かに私の名を呼ばれた。
「あなたは、十七歳の侯爵令嬢でありながら、なぜ、これほどの慎重さで、人の心を見抜けるのか」
「畏れながら陛下」
私は深く頭を下げた。
「私の母は、生前、こう申しておりました。──『誰かを庇うときには、その背を、誰よりも遠くから観察しなさい』と」
「お母上は、賢明な方であられた」
陛下は深く頷かれた。
「侍従長、ノエル・カーティスを、ただちに尋問せよ。マリエッタの処分は、保留する」
「畏まりました」
侍従長が深く礼をした。
──三日後。
ノエル・カーティスは、ついに自白した。彼女がマリエッタの私室に緑玉の袋を仕掛けたこと。仕掛けるよう指示したのは、王宮の外で会った「ある侍女頭」であること。「ある侍女頭」は、白髪混じりの初老の女性であり、アーデンフェルト侯爵家の馬車で来ていたこと。
──継母レーゲンシアの侍女頭、グレーテ。
それが、ノエルの口から、しっかりと、王太后陛下の前で証言された。
その証言は、すぐに王宮の記録官の手によって、文書に綴じられた。
私は、まだ動かなかった。
──まだ、母の死の真相を暴く時ではない。
今、グレーテを問い詰めれば、継母は警戒し、母の処方箋帳を消そうとする。あるいは、別の手駒を急いで動かす。
私は、グレーテと継母を、しばらく、泳がせる。
そして、その代わりに──。
「マリエッタを、どうかお助けください、王太后陛下。──そして、もしよろしければ、彼女を、私の侍女として、引き取らせてくださいませんか」
王太后陛下は、目を見開かれた。
「あなたの、侍女に?」
「はい。私には、あの娘の真摯さが、必要でございます。これから先、私の身辺に、もしかすると、危ういことが、起きるかもしれません。あの娘の目と耳を、私は、頼みたく思います」
陛下は、しばらく私を見つめておられた。
そして、深く頷かれた。
「シャルロット。あなたは、もう、ただの侯爵令嬢ではない。──いずれグリュンヴァルト公爵夫人として、王国を支えてくださる方になられるのでしょうな」
私は、深く頭を下げた。
王宮を辞した馬車の中で、私は、アルフレート様に深く謝した。
「アルフレート様。今回のこと、本当に、ありがとうございました」
「シャルロット嬢」
アルフレート様は、私を見た。
その瞳には、もはや初対面の頃の冷たさは、まったく残っていなかった。
「あなたは、本当に、不思議な方だ」
彼は、ゆっくりと言った。
「初めて私の屋敷を訪れた時、妹の命を救ってくださった。今日は、王宮の若い侍女の命を救ってくださった。──あなたの心の中には、誰の命も、軽くないのですな」
「私は、ただ──」
私は、視線を窓の外に向けた。
しばらく沈黙が流れた。
馬車は、グリュンヴァルト公爵家の門前へと、静かに、近づいていった。
その夜、アーデンフェルト侯爵家の私室で、私はマリエッタを迎えた。
彼女は、まだ、王太后陛下から賜った白い侍女服を着て、震える指で、私に礼をした。
「シャルロット様。ご恩は、生涯、忘れません」
「マリエッタ。よろしくね」
私は、彼女の手を取った。
「これから、たくさん、力を借りるわ」
マリエッタの瞳に、堪えきれない涙が溢れた。
──そして、その夜。
私の部屋の鏡の奥で、一瞬、義姉イザベラの姿が、影のように、揺れた気がした。
廊下を、軽やかな足音が遠ざかっていく。
──お姉様、見ていらっしゃる?
私は、心の中で、囁いた。
継母様と繋がるあの手駒は、すでに、ひとつ、私の側に取り込まれましたわ。




