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第十話 義姉の結婚生活

# 第十話 義姉の結婚生活


春の入り口、雪解けの頃に、義姉イザベラはエミール・ラントシュタインに嫁いだ。


私は、結婚式に参列した。アーデンフェルト侯爵家の長女として、また、グリュンヴァルト公爵子息アルフレート様の婚約者として、夫婦の祝いの場に、白い百合を一輪、義姉に贈った。


「シャル、ありがとう」


義姉は、純白のドレスに身を包み、頬には薄く紅をのせて、私を抱きしめた。けれど、その背中越しに、私の目に映ったのは、教会の壁際でうつむきがちに立っているエミールの姿だった。


エミールは、礼装こそ整えていたが、頬は痩け、瞳の下には濃い影が落ちていた。彼は、結婚式の前夜から眠れていないようだった。


──気の毒に。


私は、心の中で囁いた。


姉は、エミールに何を期待しているのか、もう、私には分かっていた。姉は、エミールが王立学院で首席合格を取り、王宮に出仕し、宰相補佐に上る、その「化けるはずの未来」を、欲していた。


けれど、姉が知らなかったのは、エミールがその未来へ歩むためには、夜なべで論文を写してくれる妻、商家との縁を一つひとつ繋いでくれる妻、義実家の浪費を抑えてくれる妻が、絶対に必要だったということ。


姉は、それを、できなかった。


少なくとも、姉は、それを「自分がする仕事」だと、認識していなかった。


姉が結婚してから、最初の手紙が届いたのは、新婚の三週間後だった。


「シャル、こんにちは。


新しい暮らしは、忙しくも楽しい毎日です。男爵家の皆さまは、本当にあたたかい方々で、私のような侯爵家の娘でも、うまく溶け込めそうな気がしております。


ところで、シャル、ひとつ、お願いがあるのよ。男爵家の家計、どうも、思っていたよりも厳しいようなの。お父様には言いにくいのだけれど、お父様、ほんの少しでも、私のために援助していただけないかしら。あなたからもお願いしてみてくれない?


──イザベラ」


私は、手紙を、ゆっくりと閉じた。


そして、暖炉の火の中に、そっと、放った。


「お嬢様」


アンナが、傍らで囁いた。


「お返事は、よろしいのですか」


「いいえ、書きません」


私は、微笑んだ。


「お姉様は、ご自分でお選びになったご家庭です。お姉様自身が、夫君と二人で、解決なさるべきことです」


アンナは、深く頷いた。


「畏まりました」


その後、義姉からの手紙は、二週間ごとに届いた。最初の数通は遠慮がちだったが、月が変わる頃には、明らかに切迫した内容になっていた。


「シャル、エミール様、最近、王立学院のお勉強がはかどらないようなの。ご相談に乗ってくださらない?」


「シャル、ラントシュタイン男爵閣下が、お酒の量を、どうしても減らしてくださらないの。そうしたら、ご家族の方からも、お声をかけてくださらない?」


「シャル、私、最近、お父様の屋敷に、戻りたいの。私の昔の部屋を、しばらく空けておいてくださらない?」


──戻りたい。


その言葉が出てきたのは、結婚から三ヶ月後のことだった。


私は、その手紙を読んだ夜、暖炉の前で、長いこと考え込んだ。


「アンナ」


「はい、お嬢様」


「お父様には、お姉様の里帰りを、まだ、お知らせしないでおきましょう。──お姉様には、もう少し、お姉様自身の家で、過ごしていただきたいの」


「畏まりました」


その代わりに、私は、別の動きを取った。


義姉の手紙を読み返しながら、私は、エミール本人の様子が気になった。前世の彼は、確かに、私の伴走で、ようやく心の安定を保っていた。義姉の家で、エミールは、果たして、どのような時間を過ごしているのか。


私は、王宮の文官部に、ひそかに伝手を作っていた。マリエッタが王太后陛下の御縁で紹介してくれた、文官のヴェルナー卿。彼を通して、王立学院の現況を、内密に問い合わせた。


そして、戻ってきた回答は、こうだった。


「エミール・ラントシュタイン氏。今期の中間試験では、上位三十名に入っております。ただし、最終試験で首席を取れるかは、極めて怪しいと、複数の教官が報告しております。最近、本人の出席率が下がり、論文の提出も滞っている。家庭の事情により、勉学に集中できぬ様子が見られる、とのことです」


──やはり。


私は、深く息を吐いた。


前世のエミールは、私が論文を夜なべで写し、提出期限を管理し、教官への礼状を代筆し、商家との縁を繋いで生活費の負担を軽くした。それでも、彼は四年かかって、ようやく宰相補佐に上った。


姉は、それらの「夫を支える具体的な仕事」を、ほぼ、何ひとつ、行っていない。


その代わりに、姉は、社交界で華やかに振る舞い、ラントシュタイン男爵夫人として歓迎を受けることばかりを、優先していた。エミールは、その背後で、孤独に、勉学に取り組もうとしていた。けれど、義両親の浪費と、義実家の雑然とした空気と、姉の社交への熱意の中で、彼は、燃え尽きそうになっていた。


──エミール、ごめんなさい。


私は、心の中で詫びた。


私は、あなたの隣には、もう、いられない。


けれど、私は、私の知る限りの方法で、あなたの破滅は、回避させたい。


私は、ヴェルナー卿に、もうひとつの依頼を出した。


「王立学院に、エミール・ラントシュタイン氏のための、私的な家庭教師を、内密に、ご紹介いただけませんか。費用は、私が、匿名で、支援いたします」


ヴェルナー卿は、驚いて、私を見た。


「シャルロット様、なぜ、そのようなことを?」


「あの方は、私の義姉の夫君です」


私は、簡潔に答えた。


「義姉が支えるべきことを、義姉が支えきれていない以上、私は、エミール様自身を、どこかで助けたいのです。──ただし、義姉には、絶対に、知られないように」


ヴェルナー卿は、深く頷いた。


「畏まりました。──シャルロット様、あなたは、お優しい方だ」


「優しさではございません」


私は、首を振った。


「あの方には、前世……いえ、過去の縁が、ございますもの」


その夜、私は、暖炉の火を見つめながら、頭の中で、姉の人生を、少し計算した。


姉は、これから、何年かかって、自分が選んだ道の重さに気づくだろうか。


エミールが王立学院で首席を取れず、宰相補佐への道が遠のけば、姉は、私が前世で築いた「夫を成功させた妻」の地位に、決して、辿り着けない。


そして、姉は、苛立ちを、誰に向けるだろう。


エミールに?


義両親に?


それとも──。


私は、暖炉の火の中で揺らめく赤い影を、長く、見つめた。


──私に、向けてくるだろう。


姉は、必ず、私を、また、殺そうとする。


そのときが、二度目の正念場だ。


その夜、書斎に、父アーデンフェルト侯爵が、私を呼んだ。


「シャル」


「お父様」


「お前にだけ、見せたいものがある」


父は、机の引き出しの奥から、一通の古い手紙を取り出した。


「お母様の、最後の手紙だ。私宛に、書かれたものだ。お母様が亡くなる三日前に、私の机の上に置かれた」


父は、その手紙を、私に手渡した。


「お父様、これは……」


「読みなさい」


私は、震える指で、手紙を開いた。


「親愛なるテオドール様


私は、最近、自分の身体の不調が、単なる胸の病ではないように感じております。けれど、これを口にすると、屋敷の誰かが、傷つきます。


そこで、お願いがございます。もし、私の予感が当たり、私が近いうちに天に召されることになりましたら、シャルロットを、どうか、一刻も早く、嫁に出してくださいませ。シャルロットは、まだ幼く、私が亡くなった後、屋敷の中で、誰の目にも触れずに、孤立してしまう可能性がございます。


そして、テオドール様、ひとつ、申し上げたいのは──。


私の薬を、最近、レーゲンシアが管理しておられます。彼女には、何かの企てがあるのではないかと、私は、ふと、感じることがございます。


──エレオノーラ」


私は、手紙を、握り締めた。


「お父様……」


「お母様の手紙を、私は、これまで、誰にも見せなかった」


父の声は、震えていた。


「読んだ後、私はレーゲンシアを問い詰めようとした。けれど、彼女は涙ながらに、自分は奥様を心から看病していたと訴えた。証拠もなく、私は、確認のしようがなかった。──そして、お母様の埋葬の後、私はレーゲンシアの献身に依存し、彼女を後妻に迎えた。私は、お母様の手紙を、ずっと、忘れたふりをしてきた」


「お父様……」


「シャル」


父は、私の手を、両手で握った。


「お前が、ガルベルト先生の行方を調べてほしいと言ってきたとき、私は、震えた。──お母様の予感は、お前を通して、戻ってきたのだ」


父は、深く息を吐いた。


「ガルベルト先生は、王都郊外の、小さな村で、隠れ住んでおられることが、判明した。ご無事だ。そして、先生は、お母様のお薬の分析記録を、村の教会に預けておられる。──シャル、お前と、私とで、近いうちに、教会へ参ろう」


私は、頷いた。


「はい、お父様」


そして、私は、深く、頭を下げた。


「お父様、ありがとうございます」


父は、私の頭を、そっと撫でた。


「お母様の名誉と、シャル、お前の安全と、両方を、私は、絶対に、守り抜かねばならぬ」


その夜、暖炉の火を見つめながら、私は、ぽつりと呟いた。


「お母様、もう少しで、お母様の真実を、世に出しますからね」


暖炉の中の薪が、ぱちりと音を立てて、静かに燃えていた。


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