第九話 夜の足音
婚約発表会から、十日が過ぎた。
王都には、もう、冬の気配が、深く、忍び寄っていた。夜になると、窓硝子に、白い息の形が、うっすらと、曇る。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、屋敷の静けさを、時折、破った。
アンナの手紙――ガルベルト先生の手帳の写しを受け取ってから、私は、眠りが、浅くなっていた。
「侯爵夫人エレオノーラ様のお薬の中に、本来あるべきでない成分が混じっている。出処を遡れば――お屋敷の薬箱、薬箱を管理しているのは、新しい侍女頭のレーゲンシア・キール」
その一文が、瞼の裏に、焼きついて、離れなかった。
私は、確証を、急いでいた。けれど、証拠もなく継母を問い詰めれば、彼女は、たちまち、警戒する。私は、ただ、屋敷の中で、息を潜め、待つしかなかった。
その夜も、私は、眠れずに、寝台の上で、天井を、見つめていた。
――こつ、こつ。
廊下の、遠く。石床を踏む、硬い足音。
私の侍女は、もう、下がらせていた。この時刻に、廊下を歩く者は、いない。
私は、寝台を、そっと、抜け出した。
裸足の足の裏に、床の冷たさが、染みる。私は、ガウンを、肩に、羽織って、扉の隙間から、廊下を、覗いた。
――グレーテ。
継母の侍女頭が、燭台を片手に、足早に、廊下の奥へと、消えていくところだった。
グレーテの後ろ姿には、いつもの、慇懃な笑みが、なかった。肩を強張らせ、周囲を、何度も、窺いながら、歩いている。
――何かが、ある。
私は、素足のまま、壁際に、身を寄せて、後を、追った。
グレーテが、消えたのは、継母の私室に続く、応接の小部屋だった。
分厚い扉の向こうから、低い声が、漏れていた。
私は、扉の脇の、大きな壺の陰に、身を、沈めた。心臓の音が、自分の耳の中で、やけに、大きく、響いていた。
「――お継母様。あの娘のことで、ございますが」
グレーテの声だった。
「近ごろ、王太后陛下のお部屋の周辺に、あの娘の噂が、少しずつ、広がっております。エミール様の、幼馴染とか」
「マリエッタ、とか申したかしら」
継母の声は、静かで、平坦だった。まるで、明日の献立を、話すような、口ぶりだった。
「それが、何か、私たちの、障りに?」
「イザベラお嬢様が、気にしておられます。シャルロット様が、王宮に、縁を、お持ちになることを」
「――ああ」
継母は、扇を、ぱちりと、閉じたようだった。乾いた音が、扉越しに、届いた。
「それなら、話は、簡単だわ。あの娘一人、どうとでも、なるでしょう」
私は、壺の陰で、息を、止めた。
――あの娘一人。
その一言が、私の胸の奥を、冷たく、刺した。
継母にとって、マリエッタという娘は、名前ですら、ないのだろう。ただの駒、取り除いていい障害物――その口ぶりから、そう聞こえた。
「グレーテ、いつもの、やり方で、構わないわ。あの娘の身の回りに、何か、都合の良いものを、置いておきなさい。侍女宿舎は、出入りが、緩いのでしょう」
「畏まりました。近々、手はずを、整えます」
そのとき――。
扉の向こうで、もうひとつ、足音が、加わった。軽やかな、聞き覚えのある、足取り。
「お母様」
義姉の声だった。
「私、まだ、迷って……あの娘、エミール様の、故郷の……」
「イザベラ」
継母の声が、わずかに、鋭くなった。
「あなたが、シャルより先に、安心して、暮らしたいのでしょう。なら、余計なことは、考えないことよ」
長い、沈黙があった。
私は、扉の隙間から漏れる燭台の灯りが、義姉の影を、揺らすのを、壺の陰から、見つめていた。
義姉の影は、しばらく、動かなかった。
そして――。
「……分かったわ、お母様」
その声は、小さく、震えていた。けれど、確かに、頷いていた。
私は、目を閉じた。
――お姉様。
あなたは、迷うことは、できても、拒むことは、しないのですね。
その時、部屋の中で、椅子の脚が、床を擦る音が、した。
「誰か、いるの?」
グレーテの声が、扉のほうへ、近づいてくる。
私は、音を立てぬよう、壺の陰から、するりと、後退した。廊下の角を、曲がる。心臓が、喉元まで、せり上がっていた。
扉が、細く、開く音。
私は、廊下の突き当たりの、リネン戸棚の中に、身を、滑り込ませた。冷たいシーツの匂いに、顔を、埋める。
グレーテの足音が、廊下を、ゆっくりと、行き来した。
長い、長い、数十秒だった。
やがて、足音は、戻っていった。扉が、閉じる、鈍い音。
私は、戸棚の中で、しばらく、動けなかった。
自分の部屋に、戻り着いたとき、私の手は、まだ、微かに、震えていた。
私は、蝋燭に、火を、灯した。そして、机に向かい、アンナに宛てて、短い書状を、したためた。
「アンナ。マリエッタ・ブレナーという、王太后陛下付きの侍女を、覚えておいて。近いうちに、彼女の身に、何かが、起きるかもしれない。──私が動けるよう、準備をしておいて」
書き終えて、私は、蝋燭の炎を、長く、見つめた。
──お母様。
私は、心の中で、母に、呼びかけた。
継母は、人の命を、駒としか、見ていません。
そして、お姉様は、それを、止める力を、まだ、持っていません。
私は、蝋燭の火を、吹き消した。
闇の中で、窓の外の、冬の始まりの風が、低く、鳴っていた。




