第九話 凱旋と伝令兵ヤン
# 第九話 凱旋と伝令兵ヤン
国境からの最初の戦況報告は、出陣から十二日目の夜に届いた。
「グリュンヴァルト公爵子息アルフレート卿、率いる近衛騎士団五百、ベリヴァルト軍の奇襲をミーテルバッハ峠の入口にて撃退。敵総司令官ヘルクハルト・フォン・ノルディンガー将軍を捕縛。我が軍の戦死者、わずかに七名。負傷者三十二名。──大勝利」
王宮では、王陛下御自らが、その夜のうちに祝賀の鐘を鳴らさせた。
私は、グリュンヴァルト公爵邸の応接間で、その報せを聞いた。膝が震えた。クラリスが私の腕に縋りついて、声を上げて泣いた。公爵夫人は、両手で顔を覆って、肩を震わせた。公爵ご自身は、長椅子に深く腰を下ろし、目を閉じたまま、何度も「ようやった、ようやった」と呟いておられた。
──生きていらっしゃる。
私の心の中で、堪えきれない感謝が、嗚咽となって込み上げた。
けれど、私は、皆の前で泣くわけにはいかなかった。私はまだ、公爵夫人ですらない、ただの婚約者の少女だった。出すぎた振る舞いは、慎まなければならない。
その夜、屋敷を辞して馬車に乗ると、私は隣のアンナの肩に、頭を預けて、泣いた。
「お嬢様、お嬢様」
アンナは、私の頭を撫でながら、涙声で繰り返した。
「アルフレート様は、お戻りになりますよ。シャルロット様の密書のおかげで、皆、命を繋がれたのでございます」
「アンナ……」
私は、涙の合間に、笑った。
「お母様の、人脈のおかげなのよ。私ではないの。お母様が、私を生かしてくださったのよ」
「お母様は、シャルロット様を通して、生きておられるのでございます」
アンナの言葉が、温かく、胸に染みた。
その後、戦地からの続報が、毎日のように届いた。
ベリヴァルト軍は撤退。ノルディンガー将軍は捕縛されたまま、王都の地下牢へ送られた。アルフレート様の指揮は完璧で、わずかな戦死者を除けば、近衛騎士団の精鋭たちはほぼ無傷で帰還の準備を進めている──と。
そして、ある日、戦地からの報せの中に、奇妙な一件が記されていた。
「戦闘の最終局面、ベリヴァルトの残党による襲撃を受けた伝令兵が、危機一髪、敵の弓矢を交わして帰還。アルフレート卿の命により、当該伝令兵は功績をもって近衛騎士団直参に推挙される予定」
伝令兵の名は、ヤン・エルバッハ。
──ヤン。
私は、その名前を聞いた瞬間、息を呑んだ。
前世の記憶では、ベリヴァルト戦役において、アルフレート様の戦死と同時に、彼の伝令兵も一人、襲撃で命を落としていた。当時の記録には「優秀な若い兵士の悲劇」と短く記されていたが、エミールが後年、王宮の文官として赴任した際に、彼の名前が「ヤン・エルバッハ」だったと、私は確かに耳にしていた。
その彼が、生きている。
──繋がっていた。
私は、確信した。
私が母の人脈で集めた情報が、アルフレート様の命を救っただけではない。彼の指揮下にあった、もう一人の若い兵士の命も、同時に救ったのだ。
戦は、波及する。
そして、その波は、私が想像していたよりも、深く、広く、人々の運命を変えていた。
「シャルロット様」
私の私室を訪れたマリエッタが、興奮した声で告げた。
「王宮では、明後日、グリュンヴァルト公爵子息アルフレート卿の凱旋祝賀が、王宮広場で開かれます。シャルロット様も、ご参列をご招待されました」
「ありがとう、マリエッタ」
私は、深く息を吐いた。
──いよいよ、再会だ。
私は、その夜、ヘルガに連絡を取った。
「ヘルガ、お願いがあります。明後日、王宮の凱旋祝賀の後、私はアルフレート様、それから戦地で勝利に貢献された若い伝令兵の方を、グリュンヴァルト公爵邸へお招きしたいのです。──そのとき、簡素ながら、栄養を蓄えるお食事を、ご用意いただけませんか。戦地から帰られた方々の身体には、滋養が必要です」
「畏まりました、お嬢様」
ヘルガは、すぐに応じてくれた。
そして、二日後。
凱旋の日の朝、王都は雪が降っていた。
王宮広場には、王陛下、王太后陛下、王太子殿下が、玉座に並ばれていた。広場を埋め尽くした民衆は、銀色の旗を振り、子供たちは雪の上を走り回っていた。
そして、街道の彼方から、近衛騎士団の銀色の隊列が、朝霧を割って、現れた。
先頭の白馬の上に、銀灰色の髪のアルフレート様が、まっすぐに座っていた。
民衆の歓声が、雪を吹き飛ばすように、広場を揺るがした。
私は、王宮の貴賓席の隅で、ただ、震える両手を胸の前で組み、彼の姿を見つめていた。
アルフレート様は、王陛下の前で馬を降り、片膝をついて、戦勝の報を、御自ら奏上された。
「陛下。ベリヴァルト王国の侵略を、我が王国は、撃退いたしました。今後、五十年は、北の国境は、平穏でございましょう」
王陛下が、深く頷かれた。
「アルフレート卿、あっぱれである。汝の功績は、王国の歴史に、永遠に刻まれる」
その瞬間、私の隣に立っていた継母レーゲンシアの顔が、ふと、強張ったのを、私は見逃さなかった。
──継母は、知っていたのだ。
私が、北部辺境の商家から情報を集めていたことを。
そして、その情報が、アルフレート様の戦勝の決定打になったことを。
私は、扇で口元を覆い、何も気づかぬ振りをして、視線を雪の積もる広場へ向けた。
戦勝祝賀の式が終わり、私は王宮から、グリュンヴァルト公爵邸へ向かった。
公爵邸の応接間には、すでにヘルガが温かいスープと焼きたてのパンを準備していた。クラリスは、回廊の隅で、兄の帰りを待ちきれないように、何度も窓の外を覗いていた。
そして、馬車の音が、玄関先に止まった。
「お兄様!」
クラリスが、廊下を駆け抜けた。
私は、応接間の扉口で、深く息を吸った。
扉が開き、雪の匂いとともに、銀灰色の髪のアルフレート様が、戻ってこられた。
「アルフレート様」
私の声は、自分でも驚くほど、穏やかだった。
「シャルロット」
彼が、私の名を呼んだ。
そして、彼は──いつもの礼節をかなぐり捨て、長い歩幅で私のもとに歩み寄り、私を強く、抱きしめた。
「シャル」
彼の声が、私の耳元で、震えていた。
「君のおかげで、私は生きて還った」
私は、彼の胸に、顔を埋めた。
「アルフレート様、ご無事で、本当に……」
涙が、堰を切ったように溢れた。
クラリスが、私たちのドレスの裾を引っ張りながら、ぽろぽろ泣いていた。「お兄様、お兄様」と、一生懸命、抱きついていた。
公爵夫人は、扉口で、両手で口を覆っていた。公爵ご自身も、深く頷きながら、瞳を潤ませておられた。
長い、抱擁だった。
ようやく、私が彼の胸から離れたとき、アルフレート様は、振り返り、玄関先で待っていた一人の若い兵士を、応接間に呼び入れた。
「シャル。紹介させてくれ。──ヤン・エルバッハ。私の伝令兵だ」
褐色の髪の、十九歳ほどの青年が、深く礼をした。雪に濡れた髪が、ランプの光に照らされて、霜のように輝いていた。
「ヤン・エルバッハと申します。シャルロット様、初めて、お目にかかります」
「ヤン様」
私は、深く礼を返した。
「お元気で、ご帰還、何よりでございます」
「すべて、シャルロット様の密書のおかげと、アルフレート卿より、伺いました」
ヤンは、頬を紅潮させた。
「あの密書がなければ、私は、敵の伏兵に、お役目を終える前に、討たれておりました」
「いえ、私は、ただ……」
「シャルロット様」
ヤンは、深く、深く頭を下げた。
「私の命は、本日より、シャルロット様のものでございます」
私は、慌てて首を振った。
「そんな、ヤン様、それは──」
「いえ」
ヤンは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、深い、揺るぎない決意が宿っていた。
「私は、北部辺境の貧しい村の出身でございます。父も母も、私が幼い頃、流行り病で亡くしました。私は、孤児院で育ちました。──近衛騎士団に入隊できたのは、奇跡でございます。そして、本日、二度目の命を、シャルロット様より賜りました」
「ヤン様……」
「これより先、私の剣は、シャルロット様のために、振るわれます」
私は、目を閉じた。
──また、ひとつ、運命が変わった。
ヤン・エルバッハ。前世で命を落とした若き伝令兵が、今、私の前に、生きて立っている。そして、彼は、私の側に、自らの剣を捧げてくれた。
私は、深く頷いた。
「ヤン様。ありがとうございます。──私は、あなたの命を救えたことを、心から、嬉しく思います」
その夜、ヘルガの作った滋養のスープを、皆で囲んだ。
公爵ご夫妻、アルフレート様、クラリス、ヤン、それから、私とアンナ。
戦の話は、ほとんどしなかった。代わりに、クラリスが学んだ歴史の問題、公爵夫人が育てている薔薇の話、ヘルガの薬草園の話で、応接間は、温かい笑い声に包まれた。
夜が更け、私が馬車に乗って公爵邸を辞すとき、アルフレート様が、見送りに玄関先まで出てこられた。
「シャル」
「アルフレート様」
「君と、会えてよかった」
短い言葉だった。けれど、そこに込められた重みは、私の胸の奥に、深く沈んだ。
「私も、です」
私は、頷いた。
雪の中、公爵邸の窓から漏れる暖かい光が、私の馬車を、しばらく照らしていた。
──アルフレート様。
私は、心の中で、彼に呼びかけた。
私の死に戻りの、最大の試験は、突破できました。
あなた様は、生きておられます。
そして、私たちの物語は、ここから、本当に、始まります。




