第9話 夜の金策
意識が戻った時、体にはかすかな倦怠感が残っていた。
一昨日のように、起き上がるだけで苦しくなるほどではない。けれど、昼の成瀬歩が今日もこの体を使って一日を過ごしてきたことは、筋肉の奥に残る重さで分かった。
ゆっくりと天井を見つめながら、意識は静かに呼吸を整える。
胸の奥に、小さな引っかかりがあった。
何かの言葉に、一瞬だけ体が反応したような気配がある。けれど、その言葉も、誰の声だったのかも分からない。ただ、指先に少し力が入ったような、かすかな余韻だけが残っていた。
何があったのか。
追いかけても掴めない疑問を頭の隅に押しやり、意識はベッドの上に身を起こした。
暗い部屋の中で、まず見るべき場所は決まっていた。
机の上に、一台のスマートフォンが置かれている。
昨夜、自分が意識を手放す前に置いた位置とは、ほんの少しだけ違っていた。画面は下を向き、黒い背面だけが暗がりの中に浮かんでいる。
昼の成瀬歩が触ったのだろう。
当然のようにこの端末を使い、当然のように机の上へ戻した。ただそれだけで、この体には自分とは別の時間が流れているのだと分かる。
歩に自分の存在を気づかれたわけではないはずだ。
それでも、意識はしばらくスマートフォンを見つめたまま動けなかった。
やがて音を立てないようにベッドから下り、机へ近づく。端末を持ち上げ、画面を点けた。周囲の静けさを耳で確かめながら、液晶の明るさを落とし、音量も確認する。
夜の定跡。
痕跡を残さず、朝の歩に不審がられないための最低限の手順だった。
検索窓に、心の中に溜まっていた言葉を一つずつ打ち込んでいく。
『記憶障害』
『睡眠中 行動』
『別人格』
『解離性同一性障害』
『事故後 人格変化』
検索結果は、すぐに画面を埋めた。
事故による記憶の欠落。睡眠中の無意識の行動。別の人格。
画面には、それらしい言葉がいくつも並んでいる。
どれも近い気はした。
けれど、どれも自分そのものではなかった。
自分はただ寝ぼけて夜中に動いているわけではない。成瀬歩の心が壊れた結果として生まれた、説明用の言葉でもない。
こうして考えている。
怖いと思っている。
そして、成瀬歩の日常を壊したくないと思っている。
ただの症状。
その言葉で片づけられるほど、自分は薄い存在ではなかった。
何度読み返しても、どれか一つに当てはまるとは思えない。
気づけば、スマートフォンを握る手に力が入っていた。画面の縁が指の腹に食い込み、手のひらにじわりと汗が滲む。
近い。
でも、違う。
その感覚だけが、暗い部屋の中で重く積み重なっていく。検索窓の向こうに、自分をそのまま説明してくれる答えはなかった。
このまま画面の文字を追っていても、同じ場所を回り続けるだけだ。
もっと別の情報がいる。
この部屋から出て、外の世界に触れて、何かしらの手がかりを掴まなければならない。
そこまで考えた時、意識は一つの単純な現実に行き当たった。
情報を得るにも、移動するにも、誰かと接触するにも、金があった方がいい。
それは、画面に並んでいたどんな医学用語よりも分かりやすく、冷たい事実だった。
今の自分には、自由に使える金が一円もない。
この体は成瀬歩のもので、財布の中にある金も、彼の昼の生活のためにある。自分が勝手に使っていいものではなかった。
その現実に気づいた瞬間、意識は画面を見つめたまま、奥歯を軽く噛みしめた。
では、どうやって金を得るのか。
意識は再び検索窓に指を走らせた。
『高校生 お金を稼ぐ』
『深夜 バイト』
『不用品 売る』
検索上位には、深夜のコンビニや軽作業の求人が並んでいた。
だが、すぐに候補から外れる。
年齢、勤務時間、親の同意、連絡先、履歴書。
どれも昼の成瀬歩に痕跡を残すものばかりだった。正規のルートで働くのは、今の自分には危険すぎる。
次に目を向けたのは、不用品の販売やネット販売だった。
スマートフォン一つで小銭を作れるかもしれない。そう思い、意識は画面から視線を外して部屋を見回した。
本棚の奥に押し込まれた古い参考書。クローゼットの隅にある、もう何年も使っていないようなゲームソフト。
使っていない物にも、価値は残る。
その考えが、頭の隅に引っかかった。
けれど、すぐに首を振る。それらはすべて、成瀬歩の物だ。いくら使っていないように見えても、勝手に売れば歩が気づく。日常を壊す危険が大きすぎる。
今、手を出すべきではない。
さらに検索を続けると、株やFXといった言葉も出てきた。
金を増やす手段。
その響きには、少しだけ興味を引かれた。けれど、元金がなければ始まらない。口座を作るにも、本人確認や銀行口座の連携が必要になる。どれも成瀬歩の名義に痕跡を残す。
今すぐ使える手段ではなかった。
画面を下へスクロールしていく。
その中に、泥臭い方法が紛れ込んでいた。
『空き缶 買取』
『廃品回収』
街に落ちているアルミ缶や金属を集め、回収業者に持ち込む。金額としては、おそらく小さい。効率も悪い。
それでも、意識の目はその文字に止まった。
元手がなくても始められる。特別な契約も、親の同意もいらない。少なくとも、成瀬歩の持ち物に手を出すよりは安全に見えた。
その判断が甘いのかどうかは、まだ分からない。
けれど、今の自分が自分の体一つで始められる方法は、それくらいしか見つからなかった。
大きな金はいらない。
今必要なのは、誰にも説明を求められず、誰の日常も壊さずに使える、自分だけの小銭だ。
それがあれば、動ける。
街へ出られる。
情報を拾える。
次の一手を選べる。
意識はスマートフォンをベッドの上に伏せ、暗い部屋の中で静かに息を吐いた。
待っていても、何も変わらない。
検索窓の中に自分の答えがないのなら、次は外へ出るしかない。この狭い画面の向こうではなく、現実の夜の街にこそ、自分が掴むべき何かがあるのかもしれない。
動き出す前に、意識は慎重に痕跡を消した。
検索履歴を消し、開いたアプリを閉じ、画面の明るさを元に戻す。スマートフォンは、昼の歩が置いていた通り、机の端に寄せて画面を伏せた。
指先が離れる。
これで朝の歩が目覚めても、夜の間に何が起きたかは分からないはずだ。
意識はゆっくりとクローゼットへ向かった。
扉を開け、中に掛かっている服の中から、黒いジップアップパーカーを選び出す。昼の歩が普段着として使っているものだ。これなら、夜の闇に紛れるにはちょうどいい。
袖を通すと、生地の冷たさが肌に触れた。
フードを深く被り、暗い窓ガラスに映るぼんやりとした輪郭を確かめる。
そこにいるのは、成瀬歩の顔をした、名前のない夜の自分だった。
窓の向こうには、昼の成瀬歩がまだ知らない夜の街が広がっている。
危険があるかもしれない。
何も得られずに戻ってくるだけかもしれない。
それでも、このまま部屋の中で朝を待つよりは、ずっといい。
意識は足音を殺し、部屋のドアノブへ手を伸ばした。
金属の冷たさが、手のひらに伝わる。廊下の向こうは静かで、そのさらに外から、遠い車の音がかすかに聞こえていた。
まずは、小銭を作る。
自分の足で立ち、自分の判断で動くための、最初の資金を手に入れる。
意識は息を潜め、ゆっくりとドアを開いた。




